第100話 薄の壁
承前
薄は体に乗っている全員を「ふんっ」と乱暴に振り落としながら起き上がると、ユーキと菫の前に、その視線を避けながら正座した。
背後では柏が、破れ障子を形ばかりでもと据え直している。
それが済むのを待ち、薄は大きく一つ咳ばらいをして、ユーキに向いた。
「オホン。……殿下、大変失礼いたしました。ですが、菫はまだ未成人の禿の身、行き過ぎは困ります。それを防ぐため止むを得ずとお心得下さい」
「……はい。申し訳ありません」
ユーキが不承不承に謝罪した。
菫はその隣で俯き、朱に染めた頬を膨らませ、口を小さく尖らせている。
「貴方方もきちんとお座りなさい」
薄に言われて、椿たちもみなそれぞれに正座した。
「それで、殿下は菫に、妃にと望まれたのですね?」
「はい。菫さんが成人される将来の事ですが。……お聞きのように」
ユーキが添えた一言に薄はうっと仰け反るが、姿勢を直して菫に向く。
「菫、それで貴女はお受けしたのですね?」
「あい。……ご覧のように」
菫にも添え言をされて薄は俯いて背中を丸めたが、何とか立ち直って背筋を伸ばした。
「わかりました。菫、化粧いを直して来なさい。こちらの用が済んだら呼びに行きますので、それまで自分の部屋で待ちなさい」
「……」
「早くおし」
「あい」
「婆様みたいに隣で覗いてれば? 婆様みたいに穴開けなくても障子スカスカだし」
「菖蒲! あんたも一緒に行きなさい!」
「あい。えへへ」
「本当にもう……」
菖蒲が菫の背に右手を添え、優しくなだめるように撫でながら二人で部屋を出て襖を閉めたのを確認して、薄はユーキに向き直った。
「シュトルム様」
「薄さん。本日は殿下とおっしゃってください」
薄の厳しい気配を感じてクルティスが遮った。
だが薄は臆せずにユーキに尋ねる。
「失礼いたしました。殿下、本当に菫をお望みですか?」
「はい、正妃として」
「側室ではいかがですか?」
「いえ、私は側室を持つつもりはありません。菫さんだけを妃としたいのです」
「本当にですか?」
「本当にです」
きっぱりと言うユーキの言葉を聞いて、薄は溜息をついた。
「やはり、そうですか……こうなるのではないかと思うと、私としては殿下と菫を会わせたくはなかったのです。私には、王族貴族の事を信じ参らせることができません。菫を、母と同じような悲しい目には、絶対に遭わせたくないのです」
「葵さんの事ですか?」
「菫の父母の話を御存じですか?」
「いいえ、詳しくは。葵さんの事は菫さんが三つの頃に亡くなられたとしか知りません。それ以外は、ショルツ侯爵の亡くなられた兄上に何か所縁があるのだろうということしか」
「そうですか。それでは、お話しいたしましょう。その後でもう一度、菫を裏切らぬか、お覚悟をお聞きいたしましょう」
そう言って薄は、菫の亡くなった母、葵のことを淡々と語りだした。
---------------------------------
これは葵と柏から、無理にも聞き出した話です。
菫の母、葵は私の妓女仲間の親友で、この楼の売れっ妓でした。
御執心のお客様も、貴族、豪商、各ギルドの高級役員、身分を問わずたくさんおられました。
その中で、ショルツ侯爵家の御長男、御継嗣のフェルディナント様が、一際熱心に通われておりました。
日を空けずの繰り返しのお上がり、毎日下さるお文と、あまりの熱意に葵も絆され、いつしか恋仲となり、そして正室にと望まれました。
葵は躊躇いに躊躇いました。
フェルディナント様は来られるときはいつもそこにおる柏、当時は従者でアイセルと申しましたが、一人だけを連れてのお微行で、こちらからのお文も決してお家に送って届けるのではなく、柏を介してとのことでした。
楼主や当時の遣り手婆も、お家に受け入れられないのではないかと心配して、決して信じるな、もう会ってはならぬと葵に告げ、フェルディナント様にはお家の許しが出るまではと、出入り止めを申し渡しました。
ですが、フェルディナント様は、家族は自分が必ず説得するからもう一度会ってくれと。
葵はその愛を信じ、柏の手引きで楼を無断で抜け出して、郊外の小さなあばら家で待ちました。
そこに現れた愛しい人は、家族を説得できずに、身分を捨てて一人で逃げて来たと言ったのです。
葵はそれでも構わない、どこかで庶民として二人で一緒に暮らそうと、一夜を過ごしました。
ところが夜が明けると、お家の手の者が大勢で取り囲み、フェルディナント様に家に戻れと、戻らぬならばお家の名を汚すのを防ぐため、二人とも亡き者にでもすると脅しました。
フェルディナント様は『それでも良い、殺すなら殺せ二人とも』と開き直りましたが、葵には愛しい人を死なせることなどできません。
簪を取って喉に当て、『貴方はどうかお家にお戻り下さい、戻らねば自分一人で喉を突きます』と、涙を流して懇願しました。
そんな葵にお家の方は申されたのです、『どうせそれも不実の妓女の手練手管』と。
せせら笑って、『妓女にも実があると言うのなら、構わぬ、早く突いて果てて見せよ』と。
葵が、『はい、それでは』と、『フェルディナント様も皆々様もどうぞお元気で』と、突こうとしたその手にフェルディナント様が縋りついて止めました。
『もう良い済まぬ、止めてくれ。お前が死ぬぐらいなら、俺が家に戻るがましだ。お前はどうか俺を忘れて元気でいてくれ、俺もお前を忘れよう』とそう言うと、お家に帰って行かれました。
家のお方は、『それみろ、己の命惜しさにフェルディナント様を見捨てた不実者。どこへなりと消え去れ売女めが。アイセル、お前も当家に関わりなしと奥様がおっしゃった、実家からも勘当と聞いている、いいざまだな』と吐き捨てて去って行かれました。
捨てられた葵とアイセルは行く当てもなく、一度酷い醜聞を起こしては再び妓女にも戻れず、止む無く私が楼主に頼み込み、葵は飯炊き女、アイセル、柏は若い者として雇っていただきました。
その数か月後、葵の胎内に子がいることがわかると、こちらから知らせもせぬのに『当家と一切関わり無し』との絶縁状。
葵は難産の末に菫を生んだ後、産後の肥立ちが良くなく病の床に。
菫が三歳を過ぎた頃、儚くなってしまいました。
-----------------------------
話し終わると、薄はユーキの眼を真っ直ぐに見詰めた。
「さて、殿下。これを知り、まだ菫を望まれますか。貴族の体面故に、貴族を信じたばかりに、葵はかくも酷い仕打ちを受けました。葵のような悲しみを菫にまたも味あわせぬと、どんな証を立てられますか」
「それは、証はありません。まだ何の許しも得て来ておりません」
「それでは、信じ参らせることはできません。殿下に菫はお任せできません。酷く聞こえるかも知れませんが、一度お別れいただいて、ただの客と禿にお戻り下さい」
薄はきっぱりと言う。
ユーキは薄の顔を見た。表情は厳しい。
薄さんと葵さんの間にどんなことがあったのかはわからない。
でも親友であった葵さんが幸せになれずに亡くなって行くのを、何もできずに見守るしかなかったのを悔やんでいるのだろう。
そして、菫さんを同じ目に遭わせないためなら、守るためなら何でもする、菫さん本人が悲しむことでも厭わない、王族相手でも後ろには退かないと決意しているのだろう。
立派な人だ。でも、この壁を乗り越えないと。
ユーキは拳を握り、力を込めて薄に語り掛ける。
「ですが薄さん。人の心に証がないのは、貴族も庶民も違わないではないですか」
「それは」
「人の心は全て信じられぬというのでは、あまりに悲しくありませんか。葵さんのことはお気の毒だと思います。ひどい仕打ちだと私も思います。ですが、それを言っても取り返しはつきません。私はむしろ、明日の幸せを信じたい」
「ですが」
「人は、時に行くべき道を誤るのでしょう。今ここで菫さんを妃にと望んだのが、私にとって正しい道かどうかはわかりません。ですが後悔はしません。いや、望まなければきっと後悔していたと思います。薄さん、葵さんとその方ではなく、菫さんと私のことを見ていただけませんか。王族・貴族だからと言うのではなく、どうか、私個人を見て下さい」
「……」
「この前の薄さんのお言葉通り、菫さんと私は互いの手紙だけを心の支えに、一所懸命に励んで来ました。菫さんは芸事の修行の様子を、良いこともうまく行かない事も隠さず書いてくれました。菫さんがどれほど励んだかは、薄さんが良く御存じだと思います。私も精一杯励んだ末に、国王陛下から領を任せていただけるほどにはなりました。あの日から今日までの私達二人を見て、これでは足らぬと言われるのなら、私はやはり菫さんを酷い目に遭わす人間だとそう言われるのなら、お言葉に従いましょう。二度とここには参りません」
ユーキは薄の眼を見詰める。
薄は何も言わず、ただユーキの眼を力を込めて見詰め返している。
ユーキは言葉にさらに念を込めた。
「ですが、もしそうではないのなら、確かに二人で励んで心を通じ合わせたと言っていただけるのなら、どうか私に、菫さんと私に機会を与えて下さい。今、菫さんを連れて行くなどとは言いません。葵さんと同じにならないように、必ず国王陛下の許しを得て参ります」
ユーキの力強い言葉に薄は目を瞑ると大きく息をつき、静かに頭を下げた。
「……わかりました。何卒御無礼をお許しください。殿下を信じ参らせ、お待ちいたします」
「有難うございます。必ずや」
ユーキが頷くと薄は再び顔を上げてユーキの瞳を見返して、厳しい声を返した。
「ですが、長くは待ちません。殿下が王都におられるうちに、御領地に行かれるまでにお許しを得て戻って来て下さい。その時は、菫をお任せいたしましょう」
「承知しました。では、必ず許しを得てまた参ります。菫さんにはその旨お伝えください。それでは」
「殿下、お待ちください。玄関までお送りいたしますれば、どうぞゆるゆると。柏」
「へい、委細承知」
柏は急いで部屋を出て行く。
その足音が遠ざかるのを待って、薄はユーキに尋ねた。
「殿下、菫の事をお認めいただくうえで、菫の父親の事や柏の事は障りになりますでしょうか? もし陛下や母君様に詳しくお打ち明けしなければならないようでしたら、御遠慮なく。柏は菫のためならば、わが身に何が降りかかっても構わぬと言うでしょう。菫も今は父親の事を自分から尋ねぬようにしておりますが、気にならぬわけではないようです。いずれ知らねばならぬ事であれば、受け止める事も出来ましょう」
「いいえ。私はそのことに触れるつもりはありません。薄さんのお話では、ショルツ家からはっきりと関わりなしと言われているとのことですよね。もし誰かに何か言われたら、私からもその事を申し上げます。でも、もし菫さんが自分の父親が誰かを知りたいと思った時には、私から話すことにします。それで良いでしょうか」
「はい、そのようにお願いいたします」
「承知しました」
「では、参りましょうか、殿下」
「はい」
薄に先導されてユーキとクルティスが玄関に着くと、そこには既に菫と菖蒲が正座して待っていた。
ユーキは菫に微笑みかける。
「菫さん。必ず国王陛下の許しを得て来ます。私を信じて待っていて下さい」
「……はい、殿下。お待ちしております」
菫は真剣な顔で見返した。
しばらく二人は見詰め合ったが、菫の顔にはどこかに影がある。
ユーキはそれが気になったが、自分が国王の許しを得られるかどうか、不安な気持ちがあるのだろうと思いやった。
「それでは、今日はこれで失礼します。クルティス、行くぞ」
「はい、殿下」
一同が頭を下げて見送る中を、ユーキはクルティスを連れて出て行った。
二人が去った後に誰もしゃべらずにいる中、沈黙を破ったのは菖蒲だった。
「良くわかんないけど、菫には幸せになって欲しい」
椿がそれに答える。
「そうね」
「それは推しにも同じだし」
「推しって……菖蒲、あんたには言葉遣いをきっちり仕込まないとね」
「えへへ」
「えへへじゃないわよ。でも、私も同じ気持ちよ。菫」
「あい」
「うまく行くと良いわね。私も殿下を信じて一緒に待つわ」
「……あい。姐様、ありがとうございます」
椿と菖蒲は期待してはしゃぐが、菫の表情は相変わらず浮かない。
薄も深刻な表情を崩さずに言った。
「あんたたち、浮かれてるんじゃないわよ。まだわからないわ。葵の時も、最初はあの坊やも勢いが良かったのよ。家の者は絶対に自分が説得するって言ってね。今回もお偉い方の使いが来て、諦めろって菫に言ってくるんじゃないかと心配だわ。菫、その時の覚悟だけはしておきなさい」
「……あい」
---------------------------------
「ユーキ様、今日帰ったら、母君様にお認めいただくよう願われるのですか?」
「いや、母上には言わない。明日の朝に、国王陛下と御妃様に直接お願いするつもりだ」
「陛下に?」
「ああ。王族の婚姻には、結局のところ陛下の御許可が必要だ。母上がお認め下さっても陛下が駄目だと言えば駄目だし、陛下がこの人と結婚せよと言われれば、王族の籍を捨てない限りは断れない。それだったら、最初から陛下にお許しを願うべきだ」
「なるほど。余分な壁を越える必要は無いと。でも、最初に相談してもらえなかったとわかったら、マレーネ様は何と言われるでしょうね」
「いや、多分母上はわかって下さると思う。先に相談しても、こんな所でぐずぐずしていないで、今すぐ陛下の所へ行きなさいって言うと思うよ」
「……そうですか。確かに、何がどうしようとも、うまく行けばそれでいい、と言う方ですけど……。大丈夫ですかね……」
本話中で葵とアイセルに向かって暴言を吐いた人物は、現花街管轄の衛兵主任マルテルとは別人です。御参考まで。




