第99話 望み
承前
ユーキ達の乗る馬車は蹄と車輪の音も高らかに、風を切りながら王都を進む。
王家の紋章も鮮やかなその姿に道行く人が立ち止まって見送る中を花街通りに着き、花園楼の門をくぐったところで御者のエイネルが「どう!」の声を掛けて手綱を引いて馬を止めた。
馬車が停まるとクーツはさっさと降り、ユーキと花束を持って従うクルティスの先に立って歩く。
玄関の前で振り返り、真顔でユーキに尋ねた。
「殿下、お覚悟はよろしいですな?」
「……ああ。大丈夫だ」
ユーキが気を引き締めてそう答えるとクーツはにっこり笑い、楼の玄関を開けて一歩中に入ると朗々と宣した。
「お出会い下さい! シュトルムこと、ピオニル領領主心得、ユークリウス・ウィルヘルム・ヴィンティア殿下のお成りであります! 菫様との御面会を望まれておられますれば、速やかにお取次ぎをお願い致します!」
「シュトルム様……で、殿下? こ、こちらのお部屋で、少々お待ちを!」
玄関番をしていた松爺がそれを聞いて跳び上がり、慌てふためいて奥に駆け込んで行った。
「では、私は馬車でお待ちしております。殿下、御健闘を祈ります。クルティス、後は頼んだぞ」
「はい、父上。お任せください」
クルティスの返事を聞き、クーツはもう一度にっこり笑って出て行った。
ユーキとクルティスが応接室で待っているとすぐに薄が現れ、刺々しい声でユーキを咎めた。
「シュトルム様、お約束と違うのでは?」
それに対してユーキが弁解しようと口を開けるのに先んじて、クルティスが声を出した。
「薄さん、本日はシュトルム様ではなく、ピオニル領領主心得ユークリウス・ウィルヘルム・ヴィンティア殿下としてのお成りです。さようお心得下さい。急な事情のため、近日中に王都を出発され、しばらく戻られません。そのため、御用を果たされに来られました。どうか菫様にお取次ぎ下さい」
普段のクルティスと全く違う様子に薄は驚いたが、気を取り直して言い返す。
「それでもお約束はお約束。王族は平然と約を違えられるのですか?」
「それでは、椿様にお取次ぎいただきたい。それなら問題ないのでは?」
「それは……」
薄が言い淀んでいると、扉が開いて柏を従えた椿が入って来た。
「殿下、ようこそいらっしゃいました。菫は私の部屋でお待ちしておりますれば、案内させていただきます」
「椿、あなた、」
「婆様、わずか数か月と言えど、やり取りされたお文の数々、二人の心は既に通じ合っているとわかります。会う会わぬは私が決めるとのお取り決めのはず。私はお望みがあればお会いいただくと既に決めておりました。本日私が茶碾きで菫の体が空いているのも神の思し召し」
「……」
薄はまだ躊躇っていたが、椿が「婆様」と声を掛けると諦めたように答えた。
「わかりました。椿、案内しなさい」
「あい」
椿はユーキを見やり、「殿下、どうぞ」と言い、クルティスが持つ花束に目を止めると嬉しそうに微笑んだ。
「では、お静かに」
「はい、お願いいたします」
椿の後からクルティスを従えて応接室を出ると、どこかの部屋からしっとりと艶やかな音色の音曲が微かに聞こえてくる。
何だか懐かしい広い階段を登り、歩むごとに小鳥の音のように響く板張りの廊下を先へと進む。
仄かに漂う香の匂いもあの再会の日と同じと思い出す。
椿は自分の部屋に着くと、扉代わりの襖を開けて控えの間に入り、障子の前に座ってユーキの方を振り返った。
ユーキがクルティスから花束を受け取り、一つ小さく咳払いをしてから頷くと、椿は客間に向かって声を掛けた。
「菫、ユークリウス殿下がいらっしゃいました。お入りいただきますよ」
そしてゆっくりと障子を開く。
「殿下、どうぞお入りください」
椿はユーキを促して、三つ指を突いて頭を下げた。
「何卒、菫をよろしくお願いいたします」
「はい、有難うございます」
ユーキは椿に小さく頭を下げてから、一人で部屋に入った。
椿は静かに障子を閉めると控えの間を出ると思いきや、そのまま襖を閉めようとする。
するとそれを押さえて、薄と柏、それにいつ現れたか菖蒲が口に指を立てながら控えの間に入り、そっと襖を閉めた。
椿は顔をしかめたが、薄は首を振るとそっと障子に寄った。
幸い、灯りは客間側にしかなく、控えの間は暗い。
こちらの人影が障子に映ることはない。
薄に続いて椿と柏がそっと障子に寄ろうとすると、薄はそれを押し留めて『こうするのよ』と言わんばかりに人差し指をたっぷりと舐り、そっと障子紙に当てる。
音もなく開いたその穴に、薄はそっと目を寄せた。
それを見て、椿も柏も真似をする。
菖蒲も障子に寄ろうとしたが、クルティスも含め大人四人で障子の前は既に一杯だ。
菖蒲が前へ潜り込もうと藻掻くのを柏が押さえ込んで静かにさせ、全員気配を消して目を凝らし耳を澄ます。
臍下丹田に気を集めここを先途とばかりに全神経を働かせる。
そう言えば聞こえが良さそうだが、早い話が覗きである。
障子は明日、松爺がぼやきながら張り替えるのだろう。
ユーキが部屋に入ると、菫も正座して三つ指を突いて頭を下げていた。
着替える暇も無かったのであろう、普段着のままである。
その姿を見た途端に、ユーキは準備していた言葉が頭から飛んで行ってしまった。
菫の前に自分も座ってはみたが、何と言って良いかわからない。
「菫さん、久し振りです」
思わず口をついて出た、間の抜けた自分の言葉にユーキはがっかりした。
だが菫は気にも留めず、顔を臥せたままで返事をした。
「お久し振りにございます、殿下。この度はご領主と言う大役にご就任されるとのこと、誠におめでとうございます」
「はい、有難うございます。それで、そのことについて、お話があって来ました。……顔を上げてもらえますか」
「……あい」
菫が少し躊躇った後にゆっくりと顔を上げた。
その顔を見ると薄い化粧がかえって可憐さを際立たせているが、目が赤い。
今の今まで泣いていたように思える。
「菫さん、何かあったの?」
ユーキは驚いて尋ねたが、菫はきっぱりと答えた。
「いえ、何でもありません。どうぞ、お話をお聞かせくださいませ」
「そう、じゃあ。詳しくは言えないんだけど、僕が任じられたピオニル領は、ちょっと問題があって。一応解決はしたんだけど、領民に安心して暮らしてもらえるようにするために、僕は暫くの間は現地にいなくちゃならなくて、滅多に王都に戻って来られなくなる」
「あい。お役に専念されるは、お務めであれば当然至極と承知しております」
「うん。それに、僕は領主の仕事は未経験だし、やらなければならないことも一杯あるから、とても忙しいはずなんだ」
「それもまた、是非もなく」
「だから、会えないのはもちろん、手紙も滅多に書けなくなるかもしれないと思うんだ」
「あい。止むを得ないことと思います。今まで誠にありがとうございました。今日までの日々、大変に楽しうございました。殿下には感謝の想いしかございません」
菫がまた頭を下げ、涙がぽとりと床に落ちた。
「これからはこの日々を大切な思い出に、陰ながら殿下の御健勝と御活躍をお祈りさせていただきます。さよう……」
「待って! 待って! 違うんだ!」
「え?」
「お別れを言いに来たんじゃない!」
「違うのですか? ……では?」
「手紙だとそうやって誤解されそうだから、直接伝えに来たんだ」
「そうなのですか」
「うん。涙を拭いて」
ユーキは菫に、アンジェラが用意してくれた菫色のハンカチを渡した。
菫はそれで涙を拭くと手に持ったまま、要領を得ないように尋ねた。
「遠くのご領主になられると姐様からお伺いして、てっきり……早とちりをして申し訳ありません。では、わざわざそれをお伝えに来てくださったのですか?」
「うん。そうだけど、それだけじゃない」
「他にも?」
「うん。えーと、つまり……あ、そうだ。これ」
言い詰まりながらも次の言葉を探すうちに、アンジェラに言われたことや、手の中のゲルトが作ってくれた花束を思い出した。
「これを」
心を決め直して、葵と菫の花束を手渡す。
「これを、私に?」
「うん」
「かかさんと私の花……とても綺麗……」
「それと一緒に、伝えたいことがあって」
「……」
菫の頬にさっきまでとは違う赤みが差し始める。
ひょっとしてと、ユーキの次の言葉を察して静かに待っている。
「君が好きだ。愛している。暫く会えなくても、手紙をやりとり出来なくても、僕の気持ちは変わらない。いや、違う」
「……」
「初めて逢った時から再会する時までのように、再会してから今日までのように、君への想いはこれからも強くなる」
語るうちに聞くうちに、二人の頬は次第次第に紅くなる。
「君に手紙を書いたり君の手紙を読んだりすることで、確信したんだ。僕の一生の中で、この人が後にも先にも唯一の人だって。そして今日が絶対に逃がしてはいけない、唯一の機会だって」
「……」
「だから、今日、これを伝える」
「……」
「二年経てば君も成人の儀を迎えて大人になる。そうしたら……」
「……そうしたら?」
ユーキが言葉を切って喉をゴクリと鳴らし、待ちかねる菫が先を促す。
ユーキは少し下がっていた視線を上げて菫の紫色の瞳を見詰めると、震えながらも精一杯の言葉を繋げていく。
「僕は君を迎えに来る。君と共に生きるために。僕は君と幸せに、君と二人で力を合わせて幸せになりたい。これを伝えに来たんだ。どうか、お願いだ」
ユーキは言葉を一度切って深く息を吸い、声に力を込めた。
「僕の妃になって下さい」
「……」
ユーキの求婚の言葉を聞いた菫は、何も言わずにユーキの目を見返していたが、やがてそっと目を伏せた。
「……どうかな」
「……」
「……僕じゃ、駄目かな?」
「いいえ、決してそのような!」
「じゃあ!」
「……」
「僕の事、そこまで好きにはなれない?」
「いいえ! お慕いしております! 心から、心の底から! 今日久方ぶりにお会いできて、今のお言葉を聞いて、心が張り裂けそうなほど嬉しうございます、でも……」
「でも?」
「お妃様などと大それたこと、今の今まで考えておりませんでしたので。私のような者では務まりはしまいと。それに、今まで育てて下さった、楼の皆々様ともお別れになるのかと。それやこれやが一時に頭の中を駆け巡り、何とお答えして良いかわからなくなりました」
「……そうだよね。いきなり驚かせてごめんなさい」
「いえ! お謝りにならないで下さい! 本当に、本当に嬉しかったのです。でも、お文をやりとりしている間は、ただただ嬉しい楽しいばかりで、将来のことを本当に真剣には考えていなかったのだと気付かされました」
「僕もだ。今日、お役で暫く離れなければならないと気付いた時に、どうすればいいのかわからなくなって。今までとても楽しかったけど、その間に僕がきちんと考えて、少しずつ手紙に書いておくべきだったんだ」
「いえ、そのような」
「だけど、それでも考えて、周りのみんなが考えさせてくれて。こうしなければいけないと気付いたんだ。菫さんにも考えて欲しいんだ」
「殿下……ですが、私に務まりますかどうか」
菫がまた俯き、肩がふるふると震える。
考えれば考えるほど、不安になるのだろう。
ユーキは両手を差し伸べ、菫が膝の上でハンカチを握っている両手を両側からゆっくりと包んだ。
「……」
暫く無言でそうしていると、菫の手の震えが少しずつ静まって来る。
やがて震えが止まると、菫は微笑みながらユーキを見て小声を洩らした。
「殿下の御手、温かい……」
ユーキも微笑み返して語り掛ける。
「うん。君の事を考えていると、体が熱くなるんだ」
「私も……」
「菫さん。確かに、王族やその伴侶の務めは大変だ。それに、今の菫さんには想像もできなくて、怖いんだと思う」
「あい」
「でも、まだ時間はある。母上や父上、いいや、陛下にお願いして、妃としてどうすればいいか、菫さんがきちんと学べるようにする。菫さんは真面目で聡明な人だ。学びさえすれば、きっと妃に相応しい人になる。僕だってまだまだ駄目なんだ。一緒に学んで行こう」
「あい……」
「椿さんや柏さん、菖蒲さんたちと会えなくなるのはつらいというのもわかるよ。だって、今までずっと一緒に暮らして来たんだから」
「あい」
「でも、その分は僕がきみの家族になる。つらいことも悲しいことも、僕にぶつけて欲しい。僕が全部受け止める。そして二人で幸せになれば、きっと楼の皆さんもわかってくれる。皆さんも、君が幸せになることを何よりも望んでくれていると思うんだ」
「あい。皆は優しいので。私も皆に幸せでいて欲しいです」
「うん。僕もそう思う。二人で幸せになろう」
ユーキは勢い込むが、菫はまた視線を下げる。
「でも、殿下に御迷惑になりませんか。禿のような卑しい者が妃になれば、きっとあれこれ言われます。私のせいで殿下が誹りを受けられては、それはあまりに悲しうございます」
「僕は禿や妓女が卑しいとは思わない。誰に何を言われても、構わない。菫さんは一所懸命に生きている。菫さんだけじゃない。椿さんも菖蒲さんも、誰に恥じる事もない、それどころか誇れる芸を持っている。僕は皆さんを尊敬しているぐらいだ」
「……ですが」
「菫さん、良く聞いて欲しい」
「あい」
「君と手紙を交わし始めてから、僕は毎日が明るくなった。日々励む中で苦しい事があっても、君にはその気持ちを打ち明けられたからだ。辛い事すら、君が励ましてくれると思えば楽しみにさえなった。今回の役目でも、何度も君の顔を思い浮かべて乗り切った。君が僕を支えてくれたんだ。お願いだ、これからも僕を支えて欲しい」
「私が殿下のお支えに……」
「もし君とのことに反対する者がいても、君が僕を信じてくれるなら、僕の望みを受けると君が一言いってくれたなら、きっと説得して見せる。それが例え陛下でも。もし君に何か言うものがいれば、僕が護る。どんなことをしてでも君を護ってみせる。どうか、僕の隣を歩んで欲しい。こうやって手を取り合って、一緒に歩いて欲しい」
ユーキは、言えることは全部言ったとばかりに言葉を切り、菫の眼を見つめた。
初めて逢ったあの時のように、涙の中でゆらゆらと、紫青玉のような大きな瞳が揺れている。
「……」
「嫌ですか?」
「……嫌です」
「……菫さん……」
「護られてばかりは嫌です……私も、殿下と共に励みたい、一緒に歩みたい」
「菫さん?」
「私の力はか弱いです。ですがどうか私にも、殿下を、殿下の御業を、精一杯の力でお手伝いさせていただけませんでしょうか」
ユーキはもう一度喉を鳴らすと、菫の手を包んだ両手に力を込めた。
「僕の妃になって下さい。この望みを、受けていただけますか?」
「あい。お受けさせていただきます」
「(ちょっと、今、菫、何て言った?)」「(嫌だって)」「(でも、断ったとは見えやせんぜ)」「(え? お受けするって?)」「(良く聞こえない、何て言った?)」「(あっしにも聞こえやせん)」「(私にも、私にも見せて)」「(菖蒲、やめなさい)」「(クー様、失礼します)」「(菖蒲ちゃん、俺に登るな!)」
「本当に?」
「あい」
「……もう一度言うよ。君を愛している」
「あい。私もお慕いしております」
菫の眼から、こらえきれずに喜びの涙が零れる。
ユーキは菫の手からハンカチを取り、そっとその涙を一粒、一粒、吸い取るように拭いていく。
そして互いにまた手を取り合う。
「菫さん……」
「殿下……」
腰を浮かせば菫の膝から花束が床に落ちる。
それに気付かず見つめ合う二人の眼と眼の、顔と顔の、唇と唇の距離が近付いて行く。
「(え、キスするの? だめよ、菫)」「(いや、今時接吻ぐらい、構やしませんって)」「(私も! 私も!)」「(菖蒲ちゃん、やめろ、落ちる、落ちる!)」
菫が瞼を閉じ、今、ユーキと菫の唇が重なろうとしたその時だった。
「きゃっ!」
菖蒲がクルティスの背中から落ち、障子に寄りかかっていた薄の上に崩れた。
既に限界に達していた障子は支えきれず、バリバリバリと破れながら全員と一緒に部屋に雪崩落ちた。
「何?」「えっ?」
驚いて振り返る二人の視線が突き刺さる。
大人四人が目を宙に泳がせる中、答えたのは一番上に乗っていた菖蒲だった。
「え、えへへ?」
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