第98話 行くべき所
承前
ユーキは自分の部屋に戻ろうと歩きながら、祖母、母、父に尋ねられたことを考えていた。『他に何か』あったっけ……ピオニル領での事、子爵の事、陛下に言われた事……やっぱり良く分からない。
きっと気のせいだろう。
頭をピオニル領に行くための準備に切り換えてあれこれと考えながら自室に近づいて顔を上げると、扉の横でクルティスが壁にもたれて立って待っていた。
「クルティス、どうかした?」
「ユーキ様、菫様には? 南部の領に行ってしまうと暫くは菫様と会うどころじゃなくなるし、手紙を書いている暇もないかもしれないじゃないですか。早く知らせた方が良いのでは?」
「あっ!」
ユーキは頭からサーッと音を立てんばかりに血の気が引いていくのがわかった。
今、鏡を見れば顔が真っ青になっているのだろう。
普段から政に関わっている時は菫さんの事は考えない様に気を付けているのだが、今回は完全に頭から消えていた。
「どうしよ……すぐに手紙を書く! 一緒にちょっと待っていてくれないか?」
ユーキは自分の執務室に飛び込むと急いで机に向かい、便箋とペンを取り出した。
挨拶文もそこそこに、伝えるべき事をしたためていく。
『ピオニル領の領主に任じられ、何年間か王都を離れます。難しい役のため、忙しくて手紙も書けないと思います。お元気で』
これじゃ、別れの手紙じゃないか。だめだ、やり直しだ。
『遠くから貴女を想っています』
違う、これもだめだ。
『これはお別れの手紙ではありません。本当です、信じて下さい』
こんな馬鹿なこと、書けるわけがない。
愛想を尽かされて向こうから別れの手紙が来てしまう。
…………
「だめだだめだ、どう書いても、別れの手紙に読めちゃう、どうすれば良いんだ!」
思わず口に出して叫ぶと、自席の横で退屈そうに腹筋やらスクワットやらをしながら待っていたクルティスが、「ぷっ」と笑った後にゆるゆると首を横に振って立ち上がった。
『あー、もう』と言う声が聞こえそうだ。
二人きりだと本当に遠慮のない奴だ。
「ユーキ様、ちょっと待ってて下さい」
そう言うとクルティスは部屋を出て行ってしまった。
どういう積もりかと訝しんだが、ユーキはそれどころじゃなかったと我に返ってもう一度机に向かった。
…………
羽根ペンを手に便箋を前にしてひたすらもがき続けること暫し。
それでも上手くいかず、やはりだめだと思った時に、アンジェラが白い服を手にして取り澄ました顔で部屋に入って来た。
「殿下、お召し替えをお手伝いします」
「え? なぜ?」
尋ねたが、アンジェラは答えずにさっさとユーキの服に手を掛けて脱がせようとする。
「いや、自分で脱げるよ。……アンジェラ、持って来たこれ、王子としての公務用の服だよね? 任命は明日なんだけど」
「そんなのより、よっっっぽどの重大事が今からあるとお聞きしました。御安心下さい、明日は明日の風の服です」
「いや、意味がわからないよ。それに、そんなのよりって、明日は領主の任命だよ?」
「それはそれ、これはこれです。それとこれでは、これがあれです」
「意味がわからないってば。……このハンカチ、紫色の何て、あったっけ?」
「はい、こういう時もあろうかと、あらかじめ準備しておきました」
「こういう時って?」
アンジェラはユーキを無理やりに礼装に着替えさせ終わると、上から下まで、アラクネが巣網にかけた男を品定めするような目で二度三度とねめつけ、「良いでしょう」と満足げに独り言ちた後にきっぱりと言い切った。
「大切な方を、幸せになさりに行く時です」
「大切な方って」
「皆まで申させられますな、殿下。それとも『坊ちゃま』に戻られますか?」
「……でも、認めてもらえるまで会わない約束なんだ」
「今が、お認めいただくべき時でしょう」
「……」
ユーキが口を閉ざすとアンジェラは、『やれやれ』と言わんばかりに首を振って「はあー」と派手に溜息をついてから言った。
「殿下、御領主は多くの領民を幸せにすることがお役目と存じます」
「そうだけど」
「一人の大切な方を幸せになされずに、どうしてそれが果たせましょう。『人を幸せにする』、それが殿下の芯ではございませんでしたか? 今からこそが、殿下が真に試される時とお覚悟なされませ」
「……わかった」
アンジェラに答えた時、黒い正装を着たクーツが計ったかのように入って来た。
「殿下、馬車の準備が整いました」
「クーツ、馬車って、僕何も言ってないけど」
クーツは答えず、彼もまたユーキの姿を上から下まで存分に確認する。
「『僕』ではなく『私』です、殿下。特に今日これからは。では参りますか」
「殿下、行ってらっしゃいまし」
クーツはユーキの背中をずんずんと押し、どこから取り出したのか小旗を振りながら見送るアンジェラを背後に残して部屋から押し出した。
押されるままに玄関に向かうとヘレナが待っており、やはりユーキの周りをぐるりと回って上から下まで舐めんばかりに見廻した後に、ユーキのうなじに仄かに甘い香りのコロンをそっと付けて、頭を下げる。
「坊ちゃま、いえ、殿下、行ってらっしゃいませ。神の御恵により今日という良き日に殿下に幸多からんことを心からお祈りいたします」
「あ、ありがとう」
玄関を出ると、そこには顔が映るほどピカピカに磨き上げられた王家の紋章入りの馬車が停まっており、やはり正装に着替えたクルティスが扉を開いて直立して待っている。
「クーツ、この馬車、母上が公務で使う、我が家の正式の馬車だよね?」
「はい。母君様、御前様にお願いして拝借しました。行先や用向きはお伝えしておりませんので御安心を」
御者台を見ると御者のエイネルが良い顔でこちらを向いて右手の親指を立てている。
四頭の輓き馬までが丹念に梳き上げられた鬣を陽の光に輝かせ、『待たせるな、ほら、早く行こうぜ』とばかりに盛んに前掻きをしている。
「中に置いてある葵と菫の花束は?」
「庭師のゲルトが、この日のために以前から庭の片隅で丹精込めて育てていたものです。お気付きになりませんでしたか?」
「気付いていたけど。こっそり喜んでいたけど、偶然だと思ってた。いや、そういうことを聞いているんじゃなく」
「疾くお乗りください。では、花園楼に参りましょう」
クーツが御者のエイネルの横に乗り、エイネルが待ち兼ねている馬に合図を出すと馬車は勢いよく動き出した。
少しして、ユーキは馬車の中で向かいに座っているクルティスに言った。
「クルティス、みんなにバラしてたろ」
「はい、殿下。もちろんです」
「いつから?」
「この前に花園楼に行かれた日に、です。『親に知られても構わない』とおっしゃってましたし」
「母上、父上にも?」
「いいえ。ですが、親父が報告しているかと」
「……そうなんだ。だからお祖母様も、母上も、『他に報告は』とか言っていたんだ」
「いけませんでしたか?」
「いや。でも、みんなに知られていたと思うとすごく恥ずかしい」
「まあ、いいじゃないですか。お仕えしている者は全員がお味方とわかったでしょう?」
「ああ」
「では、殿下、頑張ってください」
「……クルティス」
「はい?」
「有難う」
「はい。皆に伝えておきます」
「うん。頼む」
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