発端 三.
関森康夫と塚田俊也は、青島孝と関森由紀が後に辿り着くことになる、あの鍾乳洞の奥深くへと足を踏み入れていた。智石が置かれている場所に、彼らは先にやって来たのだ。
「**智石**はここにあります」
関森康夫は、暗がりの隅を指差した。その場所には、いくつもの似たような石が、無造作に転がっている。どれもが、ただのありふれた石に見えた。
「ここなら、簡単には人に見つからないでしょう?」
康夫は、安堵したような口調で言った。
「確かに。観光用として整備されていない場所ですし、これだけ石が多ければ、見分けもつきませんね」
俊也も、その隠匿性に納得した。
「以前は、これを家に置いていたのですが、いつ誰かに盗まれるかと、常に心配でならなかった。この場所を見つけてここに移してからは、多少は気が楽になりましたが……それでも、常に誰かに持ち去られはしないかという不安は、今も消えてはくれない」
康夫の言葉には、智石への並々ならぬ執着と、それがもたらす重圧が滲んでいた。
「どうして、僕なんかに智石の存在を教えたのですか?」
俊也は率直な疑問をぶつけた。
康夫は、俊也の目をまっすぐに見つめた。彼の瞳の奥には、深い悲しみと、ある種の決意が宿っているようだった。
「塚田君は……私の息子にそっくりなんです」
「息子さんに?」
俊也は戸惑った。
「ええ。三年前に亡くなりました。初めて君を図書館で見た時、息が止まるかと思うほど驚きました。しばらく、その場から動けなかったほどだ。本当に瓜二つなんです。息子は二十六歳で亡くなったので、君より少し年上でしたが……」
康夫の声が、わずかに震えた。彼の顔に、深い哀愁が漂う。
「どうして……亡くなられたんですか?」
俊也は、彼の悲痛な顔を見て、思わず言葉を続けた。
「息子は警察官でね……殺人犯を追跡中に、共犯者に殺されました」
康夫は目を伏せ、遠い過去を呼び起こすように静かに語った。
「すみません。嫌なことを思い出させてしまいましたね」
俊也は、自身の不用意な質問を後悔した。
「いや、気にしないでください」
康夫は小さく首を振った。
康夫は、智石が置かれている場所へ歩み寄ると、一つの石を拾い上げた。そしてそれを、俊也の目の前に差し出す。それは片手に収めるには少し余るくらいの大きさで、形はまるで卵のようだが、卵のような滑らかな曲線ではなく、ゴツゴツと無骨な印象を受ける。ただ形が似ているだけ、そんな印象だった。
「これが、智石だ」
康夫の口調が、それまでの親しげなものから一変した。まるで、別の人物が語りかけるかのような、重く、威厳に満ちた響きがある。
「見た目は軽石のように見えるだろう?」
突然の態度の変化に、俊也は戸惑いを隠せない。心臓がドクリと跳ね、彼の威圧的な口調に気圧され、体が思わず一歩後ずさった。
「た、確かにそう見えます……」
彼はしどろもどろに答えた。
「持ってみたまえ」
康夫は、その智石をゆっくりと、しかし有無を言わさぬように俊也に手渡した。
俊也は恐る恐る智石を受け取った。その瞬間──。
「軽石じゃない! これは……!」
彼の口から、驚きの声が漏れた。見た目とは裏腹に、石には信じられないほどのずっしりとした重量感があった。手のひらに吸い付くような、しかしひどく重い塊。
「驚いたかね。世界に二つとない代物だ」
康夫は、満足そうにわずかに口元を緩めた。
「密度が多くはなさそうなのに……不思議だ……」
俊也は、智石の不可解な物質的特性に、すっかり魅了されていた。
「もっと不思議なことを体験したいかね?」
康夫の声が、俊也の好奇心をさらに煽る。
「もっと不思議なこと?」
俊也は問い返した。
「智石のパワーを得ることだ」
「智石のパワーを……?」
俊也の目が、期待と困惑で揺れ動く。
「智石は、遠い昔には**『神の石』として崇められた時代もあった。だが、いつしか人間の欲望を満たすための争いの種となってしまったのだ。それは、他の石、つまり『四石』全てに言えることだがね。智石のパワーを得た者の頭脳は、『超人』**と呼ぶに相応しい能力を持つことになる。一度に数十通りの事柄を思考し、理解できるようになる。記憶力も格段に向上するだろう。昔であれば、数十万もの軍勢を縦横無尽に動かす天才軍師。あるいは、歴史に名を刻むような天才科学者として、その名声を得ることも可能だ。どうだね? 興味が湧かないかね?」
康夫の言葉は、まるで魔法のように俊也の心を掴んだ。彼の頭の中で、無限の可能性が広がっていく。
「なぜ、自分自身で使おうとしないのですか?」
俊也は、素朴な疑問をぶつけた。
「私の頭では、そのパワーを受け入れるだけの**『器』**がないのだ。だが、君は違う。誰でも入れるような大学に入ったわけではないだろう? 日本でもトップクラスの名門大学だ。だから、君にはそれだけの器がある」
康夫の言葉は、俊也の知的好奇心と、認められたいという深層の欲求を巧みに刺激した。
塚田俊也は、まだ半信半疑だった。しかし、「超人」という言葉と、これまで犠牲にしてきたものが報われる可能性が、彼の心を強く揺さぶった。もし、このパワーの話がただの迷信だったとしても、何も失うものはない。むしろ、信じてみること自体に、大きな魅力があった。
「パワーは、どうやったら得られるのですか?」
俊也の質問に、彼の決意が滲んでいた。
「決心がついたかね?」
康夫は、その表情を読み取るように尋ねた。
「はい」
俊也は、はっきりと答えた。
「忠告が一つある。パワーを得たら、その能力をすぐに百パーセント使うな。脳細胞がオーバーヒートして、壊れてしまうからだ。徐々に、少しずつ慣らしていくんだ」
康夫の言葉には、警告と同時に、かつて誰かが経験したであろう悲劇の影がちらついた。
「分かりました」
俊也は真剣な表情で頷いた。
「それでは、智石を口元に近付けて、息を吹き込みなさい」
「息を……ですか?」
俊也は意外な指示に、わずかに眉をひそめた。
「そうだ。そうすれば、智石は君の**『個体』**を識別できるようになる」
「その後はどうなるんですか?」
「君は、智石のパワーを得られる」
「分かりました。やってみます」
塚田俊也は、言われるがままに智石を口元へと近付け、ゆっくりと息を吹き込んだ。
「何も起きま……うわっ!」
彼は、思わず叫んだ。智石から、突如として半透明の白い気体が、まるで命を持っているかのように噴き出し始めたのだ。あまりのことに、彼は智石を落としそうになり、慌てて握りしめた。
智石から放たれた気体は、一瞬のうちに俊也の鼻孔から侵入し、肺へと到達する。肺に達した気体は、瞬く間に血液に溶け込み、脈打つ血液の流れに乗って心臓へ、そして、彼の思考を司る脳へと向かった。
脳に辿り着いた気体は、細胞一つ一つに直接働きかけ、静かに、だが確実に、途方もない変化をもたらし始めた。