東京 二.
青島孝は、ビジネスホテルの部屋で思案にふけっていた。
(まだ、七時か。ここからなら、十分、向こうに着いて、戻ってこられるな) 彼はそう心の中で呟き、行動を起こす決意を固めた。
部屋のキーをフロントに預ける。
「ちょっと遅くなるけど、今日中には戻るから」
彼はフロントのスタッフに告げ、ホテルを出た。
「いってらっしゃいませ」
スタッフの声が、背中にかかった。
駅に向かって歩きながら、彼は携帯電話を取り出し、通話を試みる。
「もしもし、青島孝ですが、会長につないでほしい。……もしもし、父さん? 孝だけど。……母さんがそっちに行ったと思うんだけど。……僕も今からそっちに行くから。迎え?……じゃあ、駅に回してほしい。それから、外から中が見えないプライバシーガラスの車にしてほしい。……あと一時間弱くらいで駅に着くと思う。それじゃ、後で」
彼はそう早口で告げると、通話を切った。
途中、ドラッグストアに立ち寄り、マスクを購入する。
駅まで歩いて行く間、何人もの視線を感じた。いつものことだ。特に女性からの視線を感じることの方が多い。青島孝は長身で、日本人にしては四肢が長く、顔立ちも端正でやや彫りが深く、美形である。彼はどこへ行っても目立つ存在だった。
駅に着いた青島孝は、まずトイレに入った。そこで、先ほど購入したマスクを着け、持参してきた眼鏡をかけた。彼の視力は、矯正視力なしで普通自動車運転免許をギリギリ通過できる程度だが、夜間は視界がぼやけるため、眼鏡をかけることにしていたのだ。その眼鏡をかけた顔を知る者は少ない。これで青島孝だとすぐに分かる者はいないだろう。彼は、自分たちを見張っていた者が、母親を尾行し、父親の邸宅で見張っているかもしれないと考えていたのだ。
電車に乗って五分ほどすると、青島孝は「フゥー」と大きく息を吐いた。 (もういいだろう。由紀との距離はかなり離れた。これで考え事がまともにできる) 他人の考えを読み取る能力がある者の近くにいるのは、彼にとって非常に気疲れすることだった。まるで息が詰まるような思いに囚われるのだ。
青島孝は、関森由紀との最初の出会いから、現在に至るまでのことを思い出していた。
初めて会った時、関森由紀には、有無を言わさぬ引きつけるものがあった。美人というわけではない。かといって、醜いというわけでもない。ただ、その顔を見ていると、心が癒されるのだ。関森由紀を知る者は皆、口を揃えて同じことを言う。愛している感じではないと思うが、彼女のためなら何かしてやらねば、と思ってしまう。
青島孝には、これまで何人かの女性と付き合ってきた経験がある。しかし、それらの関係を「愛していたか」と問われれば、嘘になるだろう。彼はいつも自分から声をかけることはなく、女性の方が積極的に誘ってくるのが常だった。時々、自分は本当に愛する女性には巡り逢わないのではないかと、漠然とした不安に駆られることもあった。
彼は、万人に対して愛を施す傾向にある。義侠心に溢れているため、誰かに泣きつかれたり、困り果てたり、要は弱い部分を見せられると、もう駄目だった。何とかして助けたいと、周りが見えなくなるほど突っ走ってしまうのだ。だからこそ、彼は関森由紀と一緒に仕事をしてきたのかもしれない。ほとんどの人が治療費の高さに苦しむ中、由紀は低料金で多くの患者を治していた。青島孝は、その治療以外のあらゆる雑務を一手に引き受けていたのだ。そうやって経費を切り詰めることで、由紀の低料金での治療を可能にしていたのである。
そして今回、関森由紀が四石を守るという大任を負うことになった。それにより、悪しきものも彼女に近づいてくるだろう。自分が防波堤となって彼女を守らなくてはならないと、彼は強く決意していた。
電車を降り、駅前に行ってみると、迎えの車が既に待っていた。 (やっぱり外車か。目立ってしまうな) 青島孝は、小さくため息をついた。後部ドアの前で、迎えに来た運転手が待っていた。
ゆっくりと車に近づき、青島孝は運転手に向かって声をかけた。
「ご苦労様、北島さん」
「あっ! 孝様ですか!? 全然気づきませんでした。どうしてそのようにマスクや眼鏡をされているのですか?」
北島は、驚きの表情で答えた。
「訳ありでね。時間が遅くなるから、車の中で話すよ」
北島が後部座席のドアを開け、青島孝が乗り込む。北島がドアを閉め、運転席に乗り込んだ。
車はゆっくりと発車する。
「先ほどの続きですが、どうしてそのようなことをされているのですか?」
北島が、改めて尋ねた。
「訳の分からない連中に見張られているんだ」
「何者か、まったく心当たりがないのですか」
「そうなんだ」
青島孝は、そう答えるしかなかった。
北島は、青島孝が幼い頃から、何かと気にかけてくれた人物だ。青島孝の父は、グループ会社を多数抱える巨大企業の会長である。創業者は祖父で、父は二代目。父は専務の時に会社を急成長させた。そして、社長になった時に**妾**を作った。その息子が、青島孝である。
幼い頃の思い出には、良い思い出がほとんどない。妾の子というだけで蔑まれ、母子共に屋敷から追い出された。父からは、ほとんど見向きもされなかったのだ。母は、彼を育てるために昼夜を問わず一生懸命働いた。そのおかげで、彼がひもじい思いをすることはなかった。今、運転している北島は、時々手土産を持って様子を見に来てくれたり、母親の相談相手にもなってくれていた。
しかし、父が会長となり、正妻が病死すると、状況は一変した。それまで放ったらかしだった父が、手のひらを返したように優しくなったのである。
やがて、青島孝が乗った車は、大きな門の中に入っていった。
その家は、東京二十三区内からは外れているものの、敷地は五百坪ほどもあり、鉄筋コンクリート造りの三階建てで、一階はほとんどが駐車場になっている。
八台もの車が駐車していた。高級車もあるが、大衆車も混じっている。使用人たちの車も駐車しているのだろう。
車を降りた青島孝は、北島の後を歩き、玄関前についた。
玄関はオートロックになっている。北島がポケットからカードを取り出し、機械にかざして暗証番号を打ち込んだ。「カチャッ」と軽い音を立てて解錠された。黒い鉄扉を手前に引いて、北島が中に入り、青島孝を招じ入れる。中に入ると、目の前には、エレベーターがあった。
北島がボタンを押し、階上にある**箱**を呼び寄せる。
やがて、ゆっくりと扉が開き、中に入る。二名の定員で、エレベーター内は狭い。
青島孝の父は、専務の時に会社を急成長させた。そのやり方は、真っ当な方法ではまず不可能だと思えるほどだった。悪どいことをやってきたに違いないと、孝は考えていた。だからこそ、恨みを持つ敵が多数いるに違いない。でなければ、これほど厳重な警戒はしないだろう。敷地の周囲は高い塀で囲われ、もちろん警備会社との契約も結んでおり、数々のセンサー類をはじめとする電子機器が設置してある。
玄関のオートロックもそうだが、このエレベーターも工夫が凝らされている。まず、一度に多人数が侵入できないよう、二人しか乗れないようにしている。さらに、わざとゆっくりとしか動かない。その間に、エレベーター内に設置されたセンサーで、中の人間を詳細に調べるのだ。もし銃刀類を発見すると、自動的にエレベーターが停止し、内部の人間は缶詰状態となる仕組みだった。
順調にエレベーターは上昇を続け、三階で停止した。ゆっくりとドアが開く。
エレベーターのドアが開くと、上品そうな初老の男が立っていた。恭しく一礼をして、少し微笑んだ。
「いらっしゃいませ、孝様。会長がお待ちです。こちらへどうぞ」
そう言って案内された。運転手である北島の役目はここで終わり、一礼して立ち去っていった。