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鍾乳洞 一.

 湿った冷気が肌を包み込む。ここは日本有数の鍾乳洞、その広大で複雑な地下迷宮の一部だ。公開されているのはごく一部に過ぎず、その奥には未踏の闇が横たわっている。


 9月とはいえ日中はまだ暑さが残るが、三連休初日の今日、洞窟の入口は観光客でごった返していた。しかし、一歩足を踏み入れれば、外の喧騒が嘘のように遠ざかり、ひんやりとした空気が心地よく肌を撫でる。


 その観光客の波に紛れ、一組の男女が洞内へ進んでいく。男は20代半ば、身長180cmを少し超えるがっしりとした体格で、スポーツマンらしい精悍な顔立ちだ。女も同年代、160cm弱の身長で、特徴のない中肉中背の体型。だが、その瞳の奥には、どこか秘めた光が宿っていた。


 鍾乳洞内には無数の支洞がある。二人はその一つ、**「立入禁止」**の札がかけられた支洞の前に立ち、周囲を警戒するように見回した。中を覗けば、ただひたすら深い闇が広がり、一度足を踏み入れれば二度と戻れないような錯覚に陥る。


 観光客はひっきりなしにやって来て途切れることがなかったが、やがて営業時間終了が近づき、人の流れが途絶えた。その瞬間を見計らい、二人は背中のザックから懐中電灯を取り出し、躊躇うことなく支洞へと足を踏み入れた。


 懐中電灯のスイッチを入れると、二筋の光が闇を切り裂く。慎重に、ゆっくりと一歩ずつ進む。光が照らし出す洞内は、息をのむほど幻想的だった。鍾乳石は光を浴びて透き通り、まるで肉の層のように重なる「ベーコン」と呼ばれるそれは、悠久の時の流れを語りかけるかのように神秘的な輝きを放っている。その神々しさに、足を踏み入れた場所がただの洞窟ではないことを予感させた。


 靴は防水性のものを選んでいた。支洞の入口付近は湿った土が足元にまとわりついたが、奥へ進むにつれて、土は乾き始めた。しばらくは男が楽に立てるほどの高さと、人一人が十分に通れる幅が保たれている。なだらかな上り勾配が続いていた。


 彼らはケイビング装備なしで、この未公開の支洞を進んでいく。まるで、これから先の道のりを既に知っているかのように──。


 天井が徐々に低くなり、男は腰を少し屈めないと進めなくなった。女はまだ楽な姿勢で歩けるが、やがて彼女も前屈みになるほど天井が低くなる。男はさらに深く腰を曲げ、不慣れな体勢で歩を進めた。日頃から体を鍛えている彼も、さすがに疲労が蓄積していく。


「待って、この先に誰かいる」


 突然、由紀が男の臀部を軽く叩き、小声で囁いた。彼の名前を呼ぶこともなく、まるで言葉が勝手に口から出たかのような唐突さだった。


「お前にはそんな能力チカラはないはずだろ」


 男は眉をひそめ、訝しげに振り返る。由紀が時折見せる不思議な現象には慣れているつもりだったが、こんな風に言い切られると、やはり信じがたい部分があった。


「分かんない。段々と感覚が研ぎ澄まされてきたみたいで、妙な感じがするのよ。頭の奥がジンジンする。何か、誰かが苦しそうにしてるのが伝わってくる。でも、危険はなさそうよ」


 由紀は自分の掌を見つめながら、困惑したように続けた。その表情は、自身の変化に戸惑っているようにも見える。


 男は立ち止まり、考え込んだ。このまま進むべきか、引き返すか。由紀の能力は、時に想像を超える。彼女が「危険はない」というなら、その直感を信じるべきだろうか。ここまで来たのだ。ここで引き返すわけにはいかない。


「行くぞ」


 彼は決意を固め、再びなだらかな上り勾配を進み始めた。一分ほど進むと、急に空間が広がる。思い切り背筋を伸ばすと、張り詰めていた体が解放されるようだった。そこはかなり広く、天井までは3メートルもありそうだ。周囲も広々としていた。


 突然、右手の方からかすかな喘ぎ声が聞こえた。ひどく苦しそうな声だ。これまで、彼らの接近に気づかれないよう、必死に痛みを堪えていたのだろうか。


 懐中電灯の光を当ててみると、一人の男がうずくまっているのが見えた。


「何者だ…!?」


 その男は、痛みに喘ぎながらも、朦朧とした意識でこちらを向いて懸命に問いかけてきた。


 その瞬間、由紀が叫んだ。


「康夫おじさん!」


「……誰だ?」


 康夫の目が見開かれる。彼の記憶の中にある幼い姿とはあまりにかけ離れているのか、戸惑いが滲む。


「由紀よ。関森由紀!」


「まさか…由紀なのか…!?こんな場所で…」


 康夫は信じられないといった様子で、由紀の顔を凝視した。その顔は苦痛に歪んでいる。


「伯父さん、痛くて苦しいのね。ごめんなさい、すぐに痛みを和らげるわ!」


 由紀は康夫の苦痛が自分に流れ込んでくるかのように感じた。彼女は迷うことなく右手を伸ばし、手のひらを康夫に向けた。次の瞬間、由紀の全身が柔らかい白い光に包み込まれる。その光は、まるで陽だまりに包まれるような暖かさで、まどろむような安らぎを宿していた。疲弊した心を癒し、いつまでも眺めていたくなる光──癒しの光だった。


 白い光は、次第に由紀の右肩に集まり、右腕、そして右手へと瞬時に移動していく。それは脈打つように強く、まばゆいばかりの白い光となって、康夫の身体に直接照射された。光を受けた康夫の顔から、みるみるうちに苦痛の表情が薄れていくのが分かった。




 

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