006・これも、まあ想定内です
七海の目に映ったもの。一目で彼女の脳裏に焼きついたそれは、黒い包帯で全身を余すことなく包む、筋骨隆々の大男だった。
身長は優に二メートルを超え、二の腕の腕回りなどは、そこらの電柱より遥かに太い。靴は履いておらず、その身に纏う衣服と言えそうなものは、刃物と鋼線で紡がれた鋼鉄製の腰巻だけだ。包帯の隙間から覗く真紅の瞳が闇の中で禍々しく輝いており、瞳自体が自己発光していたとしか思えない。
このように、何もかもが異常な大男だが、その中でも抜きん出て異常なのが大男の右腕である。右手首から先、そこにはあるべき右手がなく、鮮血滴る無骨なナイフが、さも当然のように生えていたのだ。
まさに異形。絵に書いたような殺人鬼。そんな大男が、右腕と一体になっているナイフを力任せに振り回し、誰かに襲いかかっていた。
その誰か、つまり襲われている被害者は、中学生ぐらいの男の子だった。大男の印象が強すぎてよく覚えていないが、オーソドックスな黒の学生服を着ていた気がする。あと、この場で拾ったと思われる先の尖った鉄パイプを持っていた。
断続的に聞こえてきた金属音。それは、大男のナイフと男の子の鉄パイプ、その双方がぶつかり合う音だったのだ。
武道の心得でもあるのか、男の子は鉄パイプ一本でよく頑張っている。だが、あの大男が相手ではそう長くもたないだろう。早く助けなければならない。だが――
「あれはちょっと予想外だよ」
少し動揺しながらも、鉄骨の陰で冷静に状況を分析する七海。この冷静な分析もそうだが、土壇場での急停止、誰にも見つからずに身を隠す、これらすべてを悲鳴一つ上げずにこなすことができたのは、キャラクター設定を歴戦の女戦士に変更していたからに他ならない。
そして、その女戦士としての冷静なる分析の結果、七海はある結論に辿りついた。
「……駄目だ。今の装備じゃ勝てる気がしない」
何度シミュレートしても、七海は大男への勝算を見つけ出すことができなかった。自分が八つ裂きにされる結末しか見えてこない。
前提が変わってしまった。勝算がない以上戦えない。特別な理由がない限り、絶対に勝てない戦いはしない。戦士とは、戦いのプロフェッショナルとはそういうものだ。
七海は思考を切り替え、次の一手を模索しだす。だが、現状の装備であの化け物相手にとれる選択肢はそう多くない。
「今すぐこの場を離れ警察に連絡するか……それともこの場でチャンスを伺い、隙を見て男の子を連れて逃げ出すか……」
予想を大きく上回る異常事態に、七海が次の行動を決めかねていると――
「グルゥウァアアアァァアアアァァア!」
大男のものと思われる凄まじい絶叫が辺りに響いた。甲高い金属音と、鋭い風切り音。その双方が激しさを増す。
鉄骨の陰に身を隠しているので直接見たわけではないが、右腕と一体になっているナイフで切りかかる異形の大男と、その大男からの猛攻を、鉄パイプで必死に防ぐ男の子の姿が、七海には容易に想像できた。
早く助けなくちゃ! 七海がそう強く思った、まさにそのとき――
「な、何やってるんだよ!? そ、そんな奴、さっさと殺しちゃえよ!」
なにやら頼りない印象を受ける声が、七海の耳に届いた。
鉄骨から顔だけを出して、声が聞こえてきた方向を確認する七海。そこには声の印象通りの、頼りなさそうな細身の男がいた。
眼鏡で、色白。線が細く、転んだだけで骨が折れてしまいそうである。この場にいるのが七海以上に場違いに見え、日がな一日パソコンの前で座っていそうな印象だ。ごく普通のジーンズと、群青色の防寒ジャンパーを着ている。歳は十代後半か、二十代前半だろう。
ひ弱な見た目だが、この場にいることと先ほどの発言から察するに、殺人鬼の共犯者なのは間違いない。しかも命令口調だった。意外とこっちの方が主犯なのかもしれない。
そのひ弱な男を見つめつつ、七海は小さく呟いた。
「よし、あっちなら大丈夫」
七海の脳内シミュレートでは楽勝だった。まず顔に一撃叩きこんで、怯んだところに金的。これでおしまいだ。正直、負けるところを想像する方が難しい。
あのひ弱な共犯者を撃破、拘束し、あの異形の大男を止めるように命令させる。一瞬でそこまでの道筋を組み立てた七海は、決行前の最終確認として、改めて中庭を見回した。
七海から見て左斜め前方、攻撃目標であるひ弱な男。右斜め前方、異形の大男と、抵抗している男の子。他に目につくものは、地面に転がっている数本の鉄パイプと、纏めて置かれている太めのワイヤー、セメントの入った紙袋。そして――
「っく!」
怒りに顔を歪め、歯を食いしばる七海。彼女の視線の先には、無残に切り裂かれ、血まみれになった死体が三つ転がっている。
死体は人間の原型を留めていなかった。内臓は飛び出し、四肢は胴体から切り離されている。状態が酷過ぎてわかりずらいが、服装、髪型から察するに、全員男性だろう。
異形の大男、その右腕から生えているナイフから滴っていた鮮血は、今襲われている男の子じゃなく、あそこで横たわっている彼らのものだったのだ。
普段の七海なら、とてもじゃないが直視できないであろう惨劇。それをまっすぐに見つめながら、歴戦の女戦士になりきっている七海は、心底怒りに震えた。
「さっさと殺せって言ってるだろ!? さっきの連中みたいにバラバラにするんだ!」
七海の怒りをさらに助長させるかのように、ひ弱な男が叫ぶ。
「下種な男、容赦しないんだから」
この言葉と共に七海は顔を引っ込め、両手を強く握りしめる。
一度仕切り直して、落ち着いてから飛び出す。そう決めた七海は目を閉じて、呼吸を整えた。
集中し、雑念を消す。心を燃やし、気力を高める。今ここで用意できる、最強の御柱七海を作り出す。
そして、断続的に聞こえていたナイフと鉄パイプがぶつかり合う金属音。その中でも一際大きい音がショッピングモールに響いたとき、七海は目を見開き、鉄骨の陰から飛び出した。
もう足音を気にする必要はない。ターゲットのひ弱な男めがけ、全力で走る。
「ふひ!?」
ひ弱な男が七海の存在に気がついた。何事かと声を上げ、ぎこちない動作で七海と向き直る。
七海は、ひ弱な男が何かしてくるかもと警戒したが、すぐに無用と判断した。ひ弱な男の腰が引け、膝が笑っていることを視認したからである。
「ひ、ひぃぃいいぃ!?」
突然現れた七海の剣幕に恐れをなしたのか、その場から一歩も動けず、情けなく悲鳴を上げて硬直するひ弱な男。七海は好都合とばかりに真っ直ぐ間合いを詰める。そして、走りながら右手を握りしめ、大きく振りかぶった。
絶対当たる。そう確信した七海が、事前の脳内シミュレート通りに、男の顔面に向かって右手を突き出そうとした、次の瞬間――
「く、くるなぁぁあぁぁ!!」
予想外の事態が起きた。
ひ弱な男が七海を振り払うように、右手を下から上に向かって振り抜いたのである。
それだけならいい。それくらいの反応は予想していた。問題は、その振り抜いた手から突如として出現した、あるもの。
それは火。いや、炎だった。
ひ弱な男が振り抜いた右手の軌道をなぞるように、真紅の炎が前触れなく出現したのである。
七海の前進を阻む形で、空中に出現した炎。七海の体が生物の本能に従い、ほぼ無意識に急制動をかけ、炎から距離を取るように飛び退いた。
咄嗟の跳躍だったが、倒れ込むことなく着地に成功する七海。左手と右膝を地面につけ、体の勢いを殺しつつ、先ほどの現象について考える。
ひ弱な男は間違いなく空手だったはずだ。七海に気づかれることなく、どこかに隠し持っていた可燃物を取り出した可能性もあるが、そんな手品めいた芸当を披露する余裕があったとは思えない。
となると、本当に無から炎を出したと考えられる。そう、まるで――
「魔法?」
漠然と呟いてから、七海は強く頭を振った。
「この世界に魔法は存在しない。私が昔いた世界とは違うんだ」
脳内ででっち上げた歴戦の女戦士としての設定、記憶に照らし合わせ、七海は呟く。
何にせよ素手では危険。そう判断した七海は、着地した場所の近くに偶然転がっていた鉄パイプに手を伸ばす。だがそれは、上から降ってきた巨大な足によって阻まれた。
無骨で、異常なほどに大きな、黒い包帯に包まれた足。その足が、七海が手に取ろうとした鉄パイプを上から踏み潰し、地面にめり込ませたのだ。
確認するまでもない、異形の大男の足である。
「グルゥゥウウゥゥ」
頭上から聞こえてきた、人が発したものとは思えない獣のような唸り声。その唸り声に込められた、圧倒的な殺意を七海は感じ取る。そして、体を硬直させ、毛穴という毛穴から冷や汗を噴き出しながら、あることを理解した。本物を直接叩きつけられたことで、初めて理解した。
天才と持て囃され、今まで七海が得意げに声に込めてきた殺意は、取るに足らない擬い物だったのだ――と。
知っているはずだった。
理解しているはずだった。
だが違う。全然違う。
脊柱に氷塊が突き刺さったかと思った。
痛みを感じないナイフで、心臓を貫かれたかと思った。
これが本物。演技ではない、本物の殺意。
「あ、ああ……あ……」
恐怖で焦点が定まらない瞳で、七海は頭上を見上げる。
そこには、七海を見下ろす真紅の瞳と、高々と振り上げられた、右腕と一体になっている血染めのナイフがあった。
「……あ」
死んじゃう。
七海が心の中でそう呟いた瞬間、異形の大男は、一切の容赦も慈悲もなく、七海に向かって右手を振り下ろしてきた。
眼前に迫る血染めのナイフ、そして死。その恐怖に耐えきれず、目を閉じ、尻もちを突いてしまう七海。それは、七海が思い描く戦士としてあるまじき行為であり、七海が即興で作り上げた擬い物のキャラクターが、本物に負けた瞬間だった。
そして、視界が黒一色に染まった七海の耳に、分厚い肉の塊に包丁を突き立てたかのような、生々しい音が届く。それに一瞬遅れて、今まで体感したこともない激痛が、七海の体に――
「……あれ?」
走らなかった。
いくら待っても痛みはやってこない。それどころか、体には何の異変も起こらない。
不思議に思った七海が、恐る恐る目を開けようとした瞬間、ようやく異変が起きた。尻餅を突いていた七海の体が地面を離れ、いきなり抱き上げられたのである。しかも、抱えられたままどこかへと運ばれている。
誘拐される! そう思った七海は、あわてて目を見開く。だが、その目に飛び込んできた光景は、七海の想像とは大きくかけ離れたものだった。
「え?」
男の子の顔が見えた。
七海が助けるはずだった、学生服の男の子。その顔が見えた。
そして、七海は聞く。
「まったく、あなたのせいで段取りがメチャクチャじゃないですか」
絶対の自信を感じさせる声を。
「突然の乱入者。いきなりで少し驚いちゃいましたよ。けど――」
まだ幼さを残すが、落ち着きと教養を感じさせる、とても澄んだ声を。
「これも、まあ想定内です」
力強い両腕に、お姫様のように抱かれながら、確かに聞いた。




