005・私は歴戦の女戦士、殺人鬼も幽霊も恐れない
二月終盤、まだまだ冷たい空気を切り裂いて、七海は一人夜道を走る。
七海のマンションと最寄りの駅を繋ぐ道は、大通りと言えるほど広い道路ではない。だが、都内ということもあり、街灯などの光源は豊富だ。走ることに不便はない。七海は歩道の上を軽快に駆け抜ける。
短距離走に近いハイペースで走り続ける七海。しかし、しばらく走ったところで七海の身に異変が起きた。
徐々にだが、七海の走るペースが落ちてきたのである。
体力が尽きたわけではない。声優は体が資本と考え、毎日のトレーニングを欠かさない七海の体力は、同年代の女子学生と比べてかなり高いほうだ。理由は別にある。
その理由は、恐怖。
悠里、芽春と一緒だったときには気づかなかったが、駅にほど近い道であるにもかかわらず、今日は人気がまったくない。酷く静かだ。間違いなく殺人事件の影響だろう。
いつも使っている道のはずなのに、見ず知らずの街に迷い込んだかのように七海は感じていた。殺人鬼だの、幽霊だのが、今にも脇道から出てきそうである。
「うう……」
ついには走るのをやめ、歩き出してしまう七海。その歩みも、左右を見回しながらなので、かなり遅めだった。
「ひぅ!」
大きめの街路樹の下で、七海が引きつった声を上げる。つい先ほど、街路樹の葉が風もなく擦れ、大きめの音を立てたのだ。
足を止め、縮こまりつつも街路樹を見上げる七海。が、別段怪しいものは見えない。おそらく鳥か何かいたのだろう。
七海は上だけでなく左右にも目を向け、念入りに安全を確認してから再び歩き出した。そして思う。
やっぱり帰ろうかなぁ――と。
しかし、七海はすぐに頭を振った。仕事用の携帯電話は手元にないと困るのだ。
落としたのが私物のスマートフォンなら、探すのは明日、日が昇ってからでよかった。最悪なくしてもかまわない。しかし、仕事用の携帯電話となるとそうはいかない。あれが手元にないと、仕事に影響が出る。そうなったら、自分以外の人間にも迷惑をかけてしまう。
プロの声優として、そんな事は許されない。
「でも、やっぱり怖いなぁ」
今度は声に出し、七海は再度周囲を見回す。次いで、諦めるように小さく溜息を吐いた。
こうなったら仕方ない――
「使おう」
この言葉と共に自然体で直立し、ゆっくりと目を閉じる七海。深呼吸をして息を整えた後、固い声色で言葉を発した。
「御柱七海のキャラクターを変更。キャラクター設定を『女子高生』から『歴戦の女戦士』に。なお、変更期間は自宅に戻るまでとする」
この言葉は、七海から七海へ、つまりは自分自身に向けられた言葉だった。七海は、その言葉を更に続ける。
「私は歴戦の女戦士、殺人鬼も幽霊も恐れない。私は歴戦の女戦士、殺人鬼も幽霊も恐れない。私は歴戦の女戦士、殺人鬼も幽霊も恐れない――」
堰を切ったかのように同じ言葉を何度も何度も口にする七海。一心不乱に口を動かし、自分自身に向け言葉を紡ぎ続ける。
数えて十回。自分に向けて同じ言葉を発した後、七海はようやく口を止めた。次いで、ゆっくりと目を開く。
再び外気に晒された七海の瞳。その瞳には、ナイフのような鋭い眼光と、強い意志が宿っている。つい先ほどまでは見て取れた、恐怖や不安の色などは一切ない。
「よし成功。私生活ではあんまり使いたくないけど、やっぱり便利だよね、これ」
この言葉を口にした後、七海は再び夜道を走り出した。そして、先ほど使用した力、自己暗示について思いを巡らせる。
自己暗示。声優として、自らが演じるキャラクターに少しでも近づきたいと、七海がその一心で努力し、辿りついた境地。
この自己暗示により、七海はより深く、よりリアルに、自分が演じるキャラに入り込むことができる。委員長キャラを演じるときは生真面目な女に。ロリキャラを演じるときは無邪気な女に。無口キャラを演じるときはクールな女に。自分自身のキャラクターを一時的に設定し直すことができるのだ。
だが、制限もある。
七海が七海であるために必要な部分はしっかり残るし、決して弄ることはできない。
イメージによる記憶の捏造はできるが、既存の記憶を改竄することはできない。
七海が絶対にしたくないことはできない。例を上げるなら自殺。これは自己暗示の力よりも、生きたいと願う七海の意思の力のほうが強いからだ。
他にも、七海の意思にかかわらず、強い精神的ショックや、睡眠を取れば自己暗示はリセットされるというものがある。もっともこの制限は、七海の基本人格を守る安全装置の意味合いが強い。
このように、いろいろと制限の多い能力ではあるが、この自己暗示は先ほどの言葉通り、とても便利な能力である。
苦手な勉強をするときは勤勉で真面目なキャラに。めんどうな炊事洗濯をするときは、それらに喜びを感じるメイドキャラにでもなればいい。作業効率がだいぶ変わってくる。
だが、七海はこの能力を仕事以外、私生活では極力使わないことにしている。そう、危険だからだ。
この能力は、使いどころを間違えるとかなり危険なのだ。普段なら断ることを安請け合いしてしまったり、普段なら絶対に口にしないようなことを口走ったり、普段は気にもかけないことに自分から首をつっこんだりと、挙げていったらきりがない。
中でも最大の危険は、自己暗示後の七海が暴走する可能性である。
自己暗示後の七海は、普段の七海とは別人と言っても過言ではない。その別人となった七海が、自発的に自己暗示を解除せず、変更後のキャラクター設定のまま予想外の行動をとることがあるのだ。そして、それが精神的ショックを受けるか、睡眠をとるまで続く。
事実七海は、過去にこの自己暗示で大きな失敗をし、友人を一人失っている。トラウマの一つだ。
そんないわくつきの能力である自己暗示を使用したのは、今が非常事態だからに他ならない。軽い気持ちで自分のキャラクターを弄ったりは、普段の七海なら絶対にしない。野外での使用にいたっては、正真正銘これが初めてだった。
ちなみに、今の七海のキャラクター設定は、異世界から現実世界に迷い込んだ歴戦の女戦士である。
異世界ではモンスターや賞金首、幽霊などを退治して生計を立てていたが、現実世界に迷い込んでからは戦いから離れており、年頃の女の子として俗世にも染まってしまった。恐怖はないが、実戦には若干の不安が残る――といった具合に、七海は自分のキャラクター設定を弄った。性格の方は特に弄っていない。
もちろん、これで七海の身体能力が劇的に向上するわけではない。だが、非常事態にも冷静な判断ができるようになるし、万が一に殺人鬼と遭遇しても、最悪の事態であるパニックにはならないだろう。
こうして、心の中だけではあるが、女子高生声優から歴戦の女戦士へとジョブチェンジした七海。そんな七海が、夜の都内を全力で駆け抜ける。
ほどなくして、目的地である建設途中のショッピングモールが見えてきた。
まだむき出しの骨組み段階だが、かなり大きなショッピングモール。その前で七海は足を止め、鞄の中からスマートフォンを取り出した。
「はぁ、はぁ、お願い!」
息を整える間も惜しんで、プライベート用の携帯電話から仕事用の携帯電話に電話をかける。直後、軽快なメロディが七海の耳に届いた。静かな夜道に不釣り合いなそのメロディは、魔法洋菓子職人シュガーの初代オープニングテーマであり、七海の仕事用の携帯電話に登録された着メロに他ならない。
メロディが聞こえてくる方向にすぐさま視線を向ける七海。そこには、夜道に光るLEDの光が見て取れた。
「よかった! あった!」
安堵の声を上げ、光に向かって駆け寄る七海。電柱の下に落ちていた仕事用の携帯電話に手を伸ばし、すぐに拾い上げる。
七海はざっと外装を確認し、念のため少し操作してみた。素人目ではあるが、特に壊れた様子はない。
今度は落とさないよう、しっかり確認しながら鞄の内ポケットの中に仕事用携帯電話を入れる。次いで、スマートフォンも鞄に入れた。これで目的は無事達成。後は家に帰るだけである。
こんな場所に長居は無用。七海は自宅に向かって右足を踏み出した。
その、次の瞬間――
「……え?」
何者かの声が、僅かだが七海の耳に届く。
そう、声だ。風にでも乗ってきたのか、とても小さく、常人では聞き取ることすらできなかったであろう、消えかけた声。しかし、常人より遥かに優れた聴覚を持ち、声に感情を込めることを生業にしている七海は、その声を正確に聞き取り、ある感情を感じとった。
それは狂気。
聞いたものを凍りつかせ、その場に釘づけにする、強い負の力を持った、とてもおぞましい声だった。
そして、その狂気は、その声は、七海以外の誰かに、今まさに向けられている。
七海は、声が聞こえてきた方向、建設途中のショッピングモールに視線を向けた。
七海の立っている場所からでは特に不審なものは見えない。見えるのは月明かりに照らされた骨組みと、わずかにできたコンクリート製の壁。そして、街灯に照らされた『関係者以外立ち入り禁止』という看板のついた金網である。
それらを見つめながら、七海は漠然と呟いた。
「都内を騒がせる無差別連続殺人事件に、ちょっと前にそれを友人たちと語り合った私。その友人たちと離れ、人気のない夜道に今一人か……」
ここで言葉を区切り、夜空を見上げる七海。そして――
「芽春……フラグが立ったのは悠里ちゃんじゃなくて、私の方みたいだよ」
こう口にした後、目の前の金網に手をかけ、すぐさま上り始めた。ほどなくして金網を登り切り、ショッピングモールの敷地内に躊躇なく飛び降りる。
まだ舗装されていないむき出しの地面に着地した七海は、鞄を金網に立てかけると、なるべく音を立てないよう駆け出した。
その表情は真剣そのもの。恐怖はもちろん、迷いもない。まるで、戦地に赴くプロの傭兵のようである。
それもそのはず、今の七海は歴戦の女戦士だ。そして、歴戦の女戦士である七海の頭の中は、ある思いでいっぱいだった。
誰かが襲われている。警察じゃ間に合わない。私が助けなくちゃダメだ!
「うん。私なら大丈夫。戦いから離れて長いけど、モンスターや幽霊を相手にしてきた私が、殺人鬼なんかに遅れはとらない。襲われている民間人ぐらい助けてみせる」
目的を再確認するように七海は呟く。その言葉には、やはり一切の迷いがない。
しばらく走ると、七海の耳に何やら物音が聞こえてきた。
金属同士がぶつかり合う甲高い音。それが断続的に七海の耳に届く。
被害者が必死に抵抗をしているものと判断し、七海は足を速めた。
抵抗できるということはまだ生きている。助けられる。その一心で七海は走る。
走るにつれて大きくなっていく金属音。それに加え、鋭い風切り音も聞こえてくるようになってきた。
やがて、いずれはショッピングモールの中庭になるであろう、少し開けた場所を七海は見つけだす。
あそこで間違いない。そう確信した七海は、まっすぐに中庭を目指した。そして、あと数歩で中庭に辿り着く、そんな刹那の瞬間――
「――っ!?」
見えた。見えてしまった。
驚愕し、止まれ! と、全力で両足に命令する。
中庭まで二メートルあるかないか。そんな土壇場での急停止。かなり無茶な要求だったが、七海の体はその要求に応えてみせた。体勢を崩しながらも、中庭に踏み込むことなく七海の体は停止する。しかも音という音をほとんど立てなかった。火事場の馬鹿力。いや、奇跡と言ってもいいかもしれない。
だが、そんな小さな奇跡に喜んでいる暇はない。偶然横に立っていた鉄骨に、七海はすぐさま身を隠す。
「何? あれ?」
七海の体がすっぽり入る、かなり大きなH型の鉄骨に背中を預け、七海は小さく呟いた。




