004・倒れた理由は、わかってるんだよ
「お疲れ様でした、七海先輩。明日に備えてゆっくり休んでくださいね」
笑顔で敬礼し、七海の顔を見つめながら言う芽春。その隣には苦笑いの悠里もいた。
ここは七海が暮らしている都内のマンション、その玄関。
結局あの後、七海、悠里の二人は芽春の強い主張に負け、三人一緒にビルを後にし、七海の家まで行動を共にしたのである。
一番初めに七海の家に来た理由は簡単。一番近かったからだ。
「ごめんね芽春、悠里ちゃん。遠回りさせちゃって……」
七海は心底申しわけなく思い、謝罪の言葉を口にした。ここで別れた後、二人はきた道をそのまま戻り、駅で再び電車に乗らなければならないのである。
「いいよ、七海ちゃん。三人で話せて楽しかったし。それに、フラグうんぬんはともかく、七海ちゃんを一人で帰らせるのは、やっぱりちょっと不安だったから」
にっこり笑った後「電車は定期だし」とつけ加える悠里。
「そうです、気にしないでください。それに、道中いっぱいアドバイスを貰ったので、芽春としては釣り合い取れてないくらいです。今日はとってもとってもありがとうございました」
人懐っこい笑顔を浮かべた後、深く頭を下げる芽春。しかし、下げたときと同じ速度で頭を上げたときには、芽春の表情は凄味を感じるほど真剣なものへと変化していた。これから彼女が赴く場所は、駅ではなくどこぞの戦場なのでは? と、錯覚してしまいそうである。
「では、これにて失礼いたします。悠里先輩のことはお任せください。この芽春が責任を持って自宅まで送り届けますので。さあ、いきましょう悠里先輩!」
「う、うん。よろしくね芽春ちゃん。でも、本当にいいの? 私を送った帰り道、芽春ちゃんは一人なんだよ?」
「心配は無用です! 芽春はこれでも空手二段、柔道二段、合気道初段の猛者ですから! 柔道では全中を制覇し、オリンピック強化指定選手にならないか? と誘われたことがあるくらいです! お爺様のおかげで武器への対策もばっちりですので、ご安心ください!」
芽春は誇らしげに胸を張り「襲われたら逆に引っ捕らえてやります!」と断言する。
芽春の隣にいる悠里が「なんで芽春ちゃんは声優になろうと思ったの?」とでも言いたそうな顔をしたが、口には出さずに七海と向き直る。
「じゃあ七海ちゃん、また明日。オーディションでね」
「うん、また明日。芽春もね」
「はい、またです!」
こうして玄関を後にする悠里と芽春。そんな二人を七海は笑顔で送り出す。
「……よし!」
悠里、芽春の二人がいなくなり、途端に静かになった家。その寂しさを紛らわすように、七海は声を出して気合いを入れた。
玄関からホールを通り、ダイニングキッチンの中へ。
出入り口のすぐ前には、四脚の椅子が備えつけられた木製のテーブルがあり、七海から見て右手には、壁かけ式の液晶テレビ、左手にはカウンターで仕切られたシステムキッチンがある。
七海はテーブルの上に鞄を置くと、リモコンで暖房のスイッチを入れた。次いでキッチンへと向かい、全自動風呂のお湯はりスイッチを押した後、冷蔵庫に向かう。
六ドアの冷蔵庫、その一番大きなドアを開ける。中にはありふれた食材の他に、ミネラルウォーターの二リットルペットボトルが五本入っていた。それら五本はすべて銘柄が違う。
七海はその一本、まだ中身の減っていないものを手に取り、冷蔵庫のドアを閉め、食器棚からコップを取り出した。その後テーブルへ戻り、椅子に腰かける。
ペットボトルのキャップを開け、中身をコップに注ぐ。
コップの中には多くも少なくもない、適量のミネラルウォーター。七海は神妙な顔つきでそれを見つめ――
「いざ!」
侍のようなかけ声と共に、コップを口へと運んだ。ミネラルウォーターをほんの少し口に含み、ゆっくりと嚥下する。
「……うん。ちょっと硬めだけど、美味しい」
首を一度縦に振り、小さな笑みを浮かべる七海。そして、再びコップを口へと運んだ。今度はいっきに飲み干す。
「喉越しも申し分なし。この銘柄いいね。余は満足じゃ♪」
言葉通り満足げに笑い、七海は空になったコップに次の一杯を注ぐ。そして、それもすぐに飲み干した。
「ふぅ――さて、お風呂が沸くまで何しよう?」
他に誰もいない、一人で過ごすには広すぎるくらいのダイニングキッチン。そこに響く自分の声を聞きながら、七海は思考を巡らせた。
お風呂が沸くまでの時間は二十分弱。明日のオーディションの予習をするにはさすがに短すぎる時間だ。
アフレコの最中にお弁当が出たので夕食を作る必要はない。作るべき相手、家族である両親は仕事で二人とも国外である。よって、これも作る必要はない。
掃除も大丈夫だろう。今日も全自動掃除機ががんばってくれたようで、床は綺麗なものだ。天井や家具を掃除する必要性は未だ感じられない。
勉強も却下。つい先日、高校二年生最後の期末テストを戦い抜いたばかりである。漫画、ゲーム、アニメの類は危険だ。始めたら最後、止まらなくなる可能性を捨てきれない。
「テレビでも……」
七海の手がテレビのリモコンへと延び、電源を入れ、自然な動作で一通りチャンネルを操作する。しかし、チャンネルをきっかり二回りさせたところで、二度目の電源ボタンが押された。
どのチャンネルもニュース特番だった。例の無差別連続殺人事件である。
無差別殺人。つまり、理由なき殺人。理不尽な死と、別れ。代わりのないモノの喪失。この世界との永遠の決別。
七海自身、二年前に、中学三年生の夏に、強く強く感じた。本当の死。
「今日は、悠里ちゃんに怒られちゃったな……」
椅子の背凭れに体を預け、テレビのリモコンを適当に放りつつ、七海は天井を見上げた。
二年前、アフレコ中の七海を襲った突然の心肺停止。それにより、今も病院で定期的に検査を受け、仕事の量を制限されている七海。そして、そんな七海を心配し、色々と気遣ってくれる親友の悠里。
「ごめんね、悠里ちゃん」
決して届かない謝罪の言葉を、七海は小さく口にする。
「倒れた理由は、わかってるんだよ……」
届かないからこそできる、謝罪を。
七海は知っている。わかっている。どんな名医でもわからない。どんな医療機器でも発見できない。七海が死に瀕した理由。その理由を、他ならぬ七海だけが知っている。
でも、話すわけにはいかない。所属会社の人間はもちろん、血のつながった肉親にも、可愛い後輩にも、大切な親友にも。
距離が近ければ近いほど、知られるわけにはいかない。
今後も「知らない」「わからない」と、吐きたくもない嘘を吐き、意味のない検査を受けに、病院へ通い続けるしかない。
その理由を近しい人間に知られた瞬間、それは七海の夢が消える瞬間だ。
声優・御柱七海が死ぬときだ。
だから、言えない。絶対に言えない。
なぜなら七海は――
「――ぅん?」
不意に思考の海から現実に戻される七海。先ほどまで静寂に包まれていたダイニングキッチンに、無機質な電子音が鳴り響いたのだ。
音の発信源はテーブルの上に放置されている鞄、その内側から。
「あ、スマホか」
七海はこの言葉と共に鞄に手を伸ばし、近くに引き寄せ、中から私物のスマートフォンを取り出した。
魔法洋菓子職人ソルトのイラストが描かれたケース、その中に入った黒のスマートフォンは、すでに電子音を止め、メールがきたことを液晶画面に表示している。
差出人は母親。件名は「大丈夫?」だった。
どうやら、件の殺人事件が海外のニュース番組でも報道され、それを見た母親が七海の身を案じ、連絡してきたらしい。
「私は大丈夫です。心配しないでください――っと。送信」
一秒でも早く母親を安心させるべく、すぐさま返信を終わらせる七海。そして次の瞬間、あることに気づく。
「むむ、バッテリーがピンチだ」
液晶画面の右上に表示されている電池マーク。その目盛が赤くなっていた。
七海はひとまずスマートフォンをテーブルの上に置く。そして、ついでに所属事務所から借りている仕事用の携帯電話も一緒に充電しようと、鞄の中に手を入れた。しかし――
「……あれ?」
いつも入れている場所。鞄の内ポケットの中に、仕事用の携帯電話が入っていない。
「え? ええ!? 嘘でしょ!?」
鞄の中のあらゆる場所に手を入れながら、七海は焦りの声を上げた。
最後の望みを託し、鞄の中身すべてをテーブルの上に並べてみたが、どこにも仕事用の携帯電話の姿はない。
「落としたの!? いつ!?」
信じられないと思いつつ、七海は今日一日を振り返った。
今日、最後に仕事用の携帯電話に触れたのは――
「そうだ、あのとき!」
悠里、芽春との帰り道だ。いつもお世話になっているレコード会社から、仕事用の携帯電話に連絡があった。確か、最寄りの駅を出て少し歩いた所にある、ショッピングモールの建設予定地。その前を通ったあたり。
「きっとあそこだ!」
空になった鞄の中に、家の鍵と財布、スマートフォンを入れて、七海は玄関へと向かった。
急いで靴を履き、ドアノブに手をかける。そこで例の殺人事件が脳裏をよぎり、七海は一瞬その動きを止めた。が、すぐに動き出し、迷いを振り払うように勢いよくドアを開け、外へと飛び出した。




