043・想定外の事態
「想界?」
空羽の口から語られた大雑把な説明を聞いた後、七海はそう呟き、周囲を見回した。
空羽の説明が事実だとするならば、現在七海は、人の空想によって造られた異空間の中に、すべてが想力で造られた世界の上に立っているということになる。
間近にまで迫っていた無関係な人々の足音は、確かにもう聞こえない。だが、すぐには信じられなかった。どれだけ観察しても、ここが先程までと別の場所と思えない。何せこの異空間には、今し方できたばかりの路地裏の傷や、切れた電気配線から飛び散る火花、水道管から溢れ出る水までもが、そっくりそのまま再現されているのである。アモンに黒焦げにされ上から降ってきた巨大イナゴも、変わらぬ姿で樹梨の右横に転がっていた。七海の目に見える範囲での変化というと、樹梨の背後で横たわっていたデカラビアの姿がないことぐらいである。デカラビアの姿は、金色の光の爆発と共に消えてしまい、それっきりだ。
「ここ、ほんとにさっきまでとは違う場所なんですか?」
「場所は移動していませんよ。想界は、ベースとなった都市と同じ座標に空間を隔てて存在する、言わば裏側の世界です。そして、曖昧な想力は、明確な方向性を持つ想力に引っ張られますから、想界は基本的に最新の状態に、つまりは現在の街並みに酷似した造りになります。ですが、これだけ大規模な世界ですと、矛盾や食い違いも多く存在します。誤った認識や、正しい認識を塗り潰すほどの強いイメージ、大切な思い出などがどうしても混在しますので、すべてが最新、寸分違わぬ状態とはいきません。此処からじゃわかりにくいでしょうが――そうですね、上空から見下ろしでもすれば、すぐにでも本物の東京との相違点に気づけると思いますよ。更に言えば、東京をベースに構築したこの想界は、広さ、強度共に、世界でも指折りです。中で何をしようと、まず崩壊の恐れはありません。外部のことは、一切気にせず戦えます」
この空羽の説明を聞いた後、七海はある確信を持った。お金がないと嘆く空羽が、あえて家賃、物価が高い東京で一人暮らしをする理由。それは、この想界にあったのだ――と。
空羽は、いざというときにいつでも想界が広げられるよう、拠点を東京に限定しているのである。理由はもちろん、無関係な一般市民を戦いに巻き込まないためだろう。
七海は、この考えに至ると同時に少し嬉しくなった。空羽は、自身が困窮した生活を送ることよりも、周囲の人間が想力関係の事件に巻き込まれないことを優先している。
先程空羽は、自分と樹梨は同じ穴の貉だと口にしたが、七海は違うと思った。
空羽は優しい。他者のために自分を犠牲にできる人間だ。樹梨とは違う。
「では、一般人への心配がなくなったところで、続きといきますか」
樹梨に向かって左足を踏み出し、両手を胸の前へと動かす空羽。左半身を前に出した簡単な構えを取る。一昨日の夜と同じ構えだ。
「く、くそ! こんな展開聞いてないよ!」
一方の樹梨は、足を肩幅に開きつつ、両腕を前に突き出すという構えを取った。だが、様になっていないことは七海から見ても明らかであり、全身から冷汗が噴き出しているのがわかる。呼吸も荒い。
頼みの綱であるアバドンと分断され、明らかに格上の想力師との一対一など、樹梨は想定すらしていなかったのだろう。すでに余裕はまったくない。空羽と戦う前に、緊張でどうにかなってしまいそうである。
「立っているだけで随分と辛そうですね。それで僕に勝つつもりですか?」
「だ、黙れ!」
強がるように叫び声を上げ、想力を行使する樹梨。前に突き出されていた彼女の両腕が、極彩色の百足へと姿を変えた。
三度姿を現した巨大百足。触覚と口、無数の足を忙しなく動かして、空羽を左右から牽制する。
成人女性の両肩から、極彩色の巨大百足が生えている。そんな、一度見たらまず忘れられないであろうグロテスクな光景を直視しながら、空羽は小さく嘆息した。次いで、こう言葉を続ける。
「またそれですか。なるほど、あなたは百足に対してよほど強い思い入れがあるのでしょうね。とてもよく具現化できています。ですが、ご存知でしょう? 自我のない想力構成物は、弱く脆い。見た目が派手なだけだ。七海さんにならともかく、僕には通用しませんよ」
「そ、そんなこと、やってみなくちゃ――」
「なぜ自分自身を強化しないのです?」
空羽は「聞く価値なし」とでも言いたげに樹梨の言葉を遮って、自身の聞きたいことを簡潔に問う。樹梨はその問いに対し、悔しげに歯を食いしばることで答えた。
自身の肉体をスクリーンとし、強化された自身の肉体を具現化、上書きしての肉弾戦こそが、想力師最強のスタイルである。七海は空羽からそう聞いた。だが、樹梨はそれをしない。いや、あの悔しそうな顔を見るに、しないのではなく――
「出来ないのですね、強い自分をイメージすることが」
「ぐ……」
「自分を信じられない者が、想力師として大成することはありません。あなたは戦う前に、自分自身に負けている」
「五月蠅い……」
「七海さんのお友達にオーディションで負けるわけだ。いくら技術があっても、それで勝てるわけがない。七海さんの言う通りですね。あなたはルックスで負けたわけじゃなさそうだ」
「五月蠅いつってんでしょ! さっさと死んじゃいなさいよあんた!」
怒りの絶叫と共に、二匹の百足を空羽へとけしかける樹梨。巨大百足がその牙を剥き出しにして空羽に迫る。対する空羽は、落ち着き払った様子のまま左手を動かし、ボクシングのジャブに似た左の二連打を繰り出した。
空羽の左拳に触れた瞬間、風船が割れるような音と共に、二匹の百足が弾け飛ぶ。
自身が具現化した巨大百足が、あっさりと吹き飛ばされ、呆然自失といった顔で硬直する樹梨。そして、その隙を黙って見逃すほど、空羽はお人好しではない。
コンクリートに足跡が残るほどの力で地面を蹴り、急加速。右拳を振りかぶり、樹梨へと驀進していった。
渾身の攻撃を放った樹梨の体は動かない。無防備な状態のまま、空羽の攻撃をなす術なく受けるだろう。
これで戦いは終わりだ。空羽の攻撃で樹梨はその意識を絶たれ、アモンと戦闘中であろうアバドンは実体を失い、すべての力を行使できなくなる。
もう安心だと七海は安堵し、強張っていた体を弛緩させた。
その、直後――
「え?」
七海の口から疑問の声が漏れる。空羽が両足で地面を踏みしめ、自身の動きに急制動をかけたのだ。
七海が胸中で「なぜ?」と呟くのとほぼ同時に、バックステップを踏む空羽。そして、後退する空羽の眼前を、何かが高速で横切っていく。
「あぶな」
再び体を強張らせる七海の耳に、僅かに焦りを感じさせる空羽の声が届く。次いで、とある声が路地裏に響いた。
「チッ! 掠りでもしてくれれば終わってたのによ」
初めて聞く声だった。棘のある、ざらついた感じの声。攻撃的な印象を受ける、荒っぽい声。
声の出どころを特定し、その場所へと視線を向ける七海。
そこには黒焦げの巨大イナゴが横たわっていた。そのイナゴからは長い尻尾が伸び、空羽のすぐ左横まで続いている。
これは、つまり――
「死んだふりとはね……」
七海の考えを代弁するかのように空羽が声を発した。すると、巨大イナゴはその体を起こしつつ尻尾を動かし、再度毒針で空羽を狙う。
「おっと」
空羽、二度目のバックステップ。七海のすぐ近くまで後退。一方の巨大イナゴは、空振りした尻尾を引き戻しながら羽を動かし、飛行を開始した。
「正直ヒヤリとしましたよ。でも、いささかせこくありませんかね?」
「は、勝ちゃあいいんだよ。勝ちゃあな」
こう言葉を返し、能面のような顔で下卑た笑みを浮かべるイナゴ。この豊かな感情表現からもわかる。やはり、あの巨大イナゴは特別製だ。他とは違う。
「明確な自我がある……か。あなた、眷属ではありませんね?」
「ピンポーン、せいかーい。俺はアバドンの伝承、その解釈の一つをベースにして本体から切り離された存在だ。眷属って言うよりは、アバドンの分身なんだよ」
アバドンの分身。その割には随分と性格が違う。アバドンが饒舌な紳士なら、こいつは口数の多いチンピラといった風情だ。アバドンからは感じることができた気品、品性などを、こいつからは微塵も感じることができない。
難敵であろう想力体の登場に警戒を強め、七海を庇うように立ち位置を調整する空羽。そんな空羽と七海を斜め上から見下しつつ、巨大イナゴは余裕たっぷりな声でこう言い放つ。
「本体には劣るが、俺は神話に名を刻む、れっきとした想・力・体だ。その俺に、てめぇ一人で勝てんのかよ? ああん?」
「あ……あはははは! 形勢逆転ね! これで実質二体一よ! 存分に痛めつけてから殺してあげるわ!」
救援の登場に余裕を取り戻したのか、巨大イナゴと同じ、もしくはそれ以上の下卑た笑みを浮かべる樹梨。すでに彼女の脳内では、どうやって勝利するかではなく、どのような形で勝利するかに思考が移っているに違いない。
勝利を確信した様子の巨大イナゴと樹梨。そんな二人の言動を見聞きした空羽が、小さく呟く。
「これは……想定外の事態と言わざるを得ないですね」
七海は震えた。あの空羽が、常に自信に満ち溢れていたあの空羽が、弱気とも取れる発言を口にしたのである。
途端、七海の心に不安の感情が押し寄せてきた。七海は、その感情に突き動かされるままに、縋るような視線で空羽の顔を窺う。
そして、見た。
「いいですねぇ」
獰猛なまでに歪んだ、空羽の顔を。
見る人によっては、笑っているようにも見えるであろう獰猛な表情を浮かべる空羽。そして、驚喜の感情を声に乗せて、人が変わったように叫ぶ。
「想定外の事態! 予想外の事態! 燃えます! 滾ります! 漲ります!」
七海は、豹変した空羽の言動に身震いしながら強く思った。私は、門条空羽という人間を見誤っていた――と。
門条空羽。彼は、何をするにしても事前の準備と想定を怠らず、ある程度の道筋を立ててから、理路整然と行動する人間である。七海は、短いつき合いながらも空羽をそう分析していた。事実、それは間違っていないだろう。空羽は、事前の準備を入念にし、万全の状態でことに当たる人間である。そして、そういった人間は、得てして想定外、つまりは突発的な事態や、不慮の事故に弱いものだ。空羽もその例に漏れず、想定外の事態には弱いに違いない。と、七海は勝手に想像していたのだが――どうやらその考えは、まったくの的外れだったらしい。
門条空羽は、想定外の事態に直面したとき、動揺するどころか歓喜に震え、烈火のごとく燃え上がる人間なのだ。
そして、七海はこうも思った。その想定外に直面したときの高ぶりを、より強く、より熱くするために、彼は事前に入念な準備、想定をしてから、ことに当たるのではなかろうか?
「あはははは! 七海さんが一緒だと、想定外のことばかり起きて楽しいですねぇ!」
心底楽しそうに笑いつつ、空羽が叫ぶ。その声には、先程と同じ驚喜の感情に加え、狂喜と狂気の感情を感じることができた。自身の敗北など、微塵も考えていないことがわかる。
ひとしきり笑った後、空羽は口が裂けたかのような笑みを浮かべ、両の拳を堅く握り締めた。次いで、その笑顔を保持したまま巨大イナゴへと突撃する。
きょうきの獣と化した空羽が、巨大イナゴと樹梨に襲い掛かった。




