042・強者が勝者とは限らない
「ぐ、がぁ!」
苦痛の声を漏らしつつ、後方に高速で吹き飛ばされるアバドン。アモンの両腕から繰り出された打撃六発。それらすべてをその身で受けたのである。
そのまま彼方まで消えてしまいそうな勢いだったが――
「がは!」
アバドンが吹き飛ばされた方向には、東京に乱立する高層ビル群の中でも、頭一つ抜けた巨大ビルが存在していた。アバドンはその巨大ビルに背中から激突し、埋没。偶然ではあるが、勢いを殺すことに成功した。
「ぐ、ぅ……よもや、ここまで力の差があるとは……な。さすがは最強の呼び声高いアモン卿……」
ビル壁にめり込んだアバドンが、弱々しい声で呟く。次いで、状況を確認しようと自身の体を見下ろした。
アモンからの打撃を受けた部分は、みな一様にひび割れ、黒く焼け焦げていた。六本あった産卵管という名の砲身は、右側の一番上と、左側の真ん中がへし折れ、使い物にならない。全身を包む外骨格の節々からは、紫色の体液が止めどなく流れ出ていた。
「見事なまでに重症だな。治癒には相当な時間がかかるか……」
傷口を見つめながら呟くアバドン。次いで、自身の周囲を、明らかに異質なその世界を見渡した。
日本の東京なのは間違いない。だが、おかしい。
道ゆく人々の表情は皆虚ろで、服装、季節感がバラバラだった。
二月の街中に『夏の最新ファッション』の巨大看板があった。
閉店したはずの有名百貨店が、さも当然のように営業していた。
入れ替わりの激しい雑居ビルなどは、看板がめちゃくちゃであり、上下、左右で、明らかに造りが異なるビルが複数存在した。
刀を腰にさした侍がいた。金閣寺に酷似した建造物があった。クリスマスツリーがあった。秋葉原でもないのにメイドが多数いた。忍び装束を着こんだ忍者がいた。富士山がありえないほどはっきり見えた。人型ロボットが道を歩いていた。
他にも、他にも――
この東京はあまりに異様だ。探せば探すだけ綻びを、矛盾を、食い違いを見つけることができる。だが、それらが一様に些細なことだと思えるほどの異常事態が、その上空で起きていた。
かろうじて東京と認識できる異様な都市の上空には、つい先程までは影も形もなかったはずの、超巨大な物体が浮遊しているのである。
それは、五芒星の魔法陣。
金色に輝く光の帯で構成されたその魔法陣は、一定の高度を保ったまま、一定の速度で右回転をしていた。地面に対し水平に展開し、音もなく、何をするでもなく、東京の上空を浮遊し、我が物顔で占拠している。
あの魔法陣は、明らかに想力によって構成されたものだ。いや、想力で構成されているのは上空の魔法陣だけではない。魔法陣の下に広がる東京も、そのすべてが想力によって構成されている。街中を歩く住人さえも。
「これは……この世界はもしや……」
「ああ、想界だ」
「む、アモン卿」
アバドンは、自身の独白に答える形で聞こえてきた声に反応し、そちらに顔を向けた。次いで、視線の先にいるアモンに向けてこう言葉を返す。
「想界。知名度の高い人口密集地域において、極まれに自然発生するという、すべてが空想によって構成された世界。想力で形作られた異空間――ですね?」
「そうだ。実物を見たのは初めてか?」
「ええ。ですが、このタイミングで自然発生したとはとても思えません。そちらに対して都合が良すぎます。これは、デカラビア卿の仕業ですね?」
「明察。奴は、想界を自らの意思で展開し、長時間維持できる、稀有な能力を持った想力体だ。ここはもう、奴の腹の中だよ」
こう言った後、アモンは友人を自慢するかのように小さく笑う。
「ほう、これほど巨大な異空間を一瞬で展開、長時間維持するとは……どうやら私は、デカラビア卿への認識を改めなければならないようですね」
「デカラビアは、戦闘能力こそ七十二柱の中では下位に属するが、悪魔としての格が私に大きく劣るというわけではない。得意分野が違うというだけだ。現に、大規模な結界運用と、魔法陣の高速展開において、私は奴の足元にも及ばん」
仲間であるデカラビアが展開し、維持している世界を誇らしげに見渡し、アモンは言う。そして、こう続けた。
「この世界ならば、他者に気を遣う必要はない。さあ、蝗の王よ、戦いの続きだ。存分に死合おうではないか」
右手で手招きをし「かかってこい」とアバドンを挑発するアモン。だが――
「……」
アバドンは動かなかった。ビルの壁にめり込んだまま微動だにしない。
「どうした、蝗の王よ? 早くこい」
「いや、いったところで勝てませんよ。先の戦闘で、すでに格づけは済んでいます」
自嘲気味な口調で言うアバドン。そして、アバドンは尚も言葉を続けた。
「アモン卿、あなたは強い。最強の二文字に恥じない、圧倒的な力をお持ちだ。認めますよ。あなたは私より強い。遥かに、ね。あなたを倒すことは諦めます」
「何だと?」
こう口にした後で、訝しげに首を捻るアモン。次いで、こう言葉を発した。
「では、認めるというのか? 己の敗北を。見捨てると言うのか? 己が契約者を。勝利を諦め、虚無という名の地獄に再び戻ると?」
「いいえ」
確認のために告げられたアモンの問いに対し、明確な否定の意を示すアバドン。その返答を聞き、アモンは再度首を捻る。
「蝗の王よ、気でも触れたか? 言動がおかしいぞ。一貫していない」
「そうでしょうか? 強者が勝者とは限りませんよ、アモン卿」
どこか得意げに、もっともらしいことを言ってのけるアバドン。その言葉に対し、一理あるとでも思ったのか、アモンは首の角度を元に戻し、こう言葉を返した。
「強者は勝者でない――か。確かにその通りだ。だが、蝗の王よ。勝利を諦めていないと言うのであれば、尚のこと勝負を急ぐべきだ。こうして話をしている間にも、空羽がお前の契約者を始末するぞ」
想力体は、契約した想力師に肉体を具現化してもらうことで、初めて世界に干渉できる。故に、契約した想力師が睡眠、気絶、または死亡し、意識を失った場合、想力体はその力すべてを行使できなくなってしまう。
アモンは開戦早々にアバドンと樹梨を分断したが、それは意図的に狙ってやったことだ。アモンがアバドンを樹梨から遠ざけている間に、想力師としての実力で上をいっているであろう空羽が、単身で樹梨を仕留める。それが、空羽とアモンが用意した、勝利までのシナリオだ。
そして現在。戦況は見事にそのシナリオ通りに進んでいる。アバドンにとっては、かなり不利な状況。
にもかかわらず――
「アモン卿。私の原型である伝承はご存知ですかな?」
アバドンは余裕を失わない。力ではかなわない。自分では倒せない。口に出してそう認めた相手がすぐ目の前にいるというのに、彼の饒舌な口ぶりは失われていない。
「無論だ、蝗の王。貴殿ほど名の通った堕天使を、私が知らぬはずがなかろう」
アモンは、アバドンの一挙手一投足に気を配りながら言葉を返す。これほど有利な状況に身を置いても、アモンはアバドンを侮らない。油断など決してしない。つけ入る隙を与えない。
ソロモン七十二柱の中で、最も厳格であるとされるアモン。その辞書に、驕りと慢心の文字は存在しない。
「それは光栄。ならば、この伝承もご存知ですかな? アバドンは堕天使の名前ではなく、地名。イナゴが際限なく湧き出てくる底無し穴の名前である」
「知っているとも。だが、それがどうした。今の状況と何の関係が――」
「ならばもう一つ」
アバドンは、アモンの言葉を遮り、こう声を発した。
「私、アバドンと分けて語ることのできないイナゴですが、そのイナゴをアバドンの眷属や使い魔としては扱わず、無数のイナゴ、そのすべてをアバドンとして扱う」
この言葉を聞いた瞬間、アモンの肩が僅かに震えた。
「イナゴはアバドンの使い魔、眷属である。この説が、現状で最も有力かつ、有名なのは確かです。ですが、先程の一説も、私を想力体へと押し上げた伝承の一つであることは、紛れもない事実」
「まさか……」
「さてアモン卿。先の戦闘で、あなたが焼き殺したつもりでいる特別なイナゴですが――」
ここでアバドンは小さく笑い、思わせぶりな口調でこう言い放つ。
「はたしてあれは、本当に私の眷属だったのでしょうか?」
「まずい!」
話が終わるや否や、アバドンに背を向けるアモン。次いで、背中から黒炎の翼を出現させ、空羽と七海の元へと急ぎ向かおうとした。
だが――
「この私を前にして余所見とは……」
「っ!?」
アバドンがそれを許さない。路地裏での意趣返しであろう言葉をアモンの背中に投げた後、尻尾でアモンの右足を絡めとり、その前進を阻んだ。次いで、すぐさま尻尾を下に向かって振り下ろし、アモンを地面に向け投げつける。一方のアモンは、不意を突かれたことで反応が遅れた。為す術なく落下し、そのまま地面に激突する。
「ぐ、不覚!」
地面に高速で叩きつけられたにもかかわらず、ダメージを一切感じさせない動きで即座に態勢を整えるアモン。そんなアモンを上から見下ろすアバドンが、こう声を発した。
「いかせませんよ、アモン卿。そして、これより先あなたの視線は、私たちに釘づけにさせていただきます!」
強い覚悟を感じさせる声で、高らかに宣言するアバドン。そして、次の瞬間。アバドンがめり込んでいたビルの上半分が、落雷のような轟音と共に、跡形もなく消し飛んだ。
アバドンの全身から放たれる、竜巻のような想力の奔流を感じ取り、アモンは視線をアバドンへと向ける。その視線の先には、今の今まで背中に折りたたんでいた羽を広げ、想界の空を舞うアバドンの姿があった。
羽。堕天使アバドンの羽。
堕天使。その言葉を聞いた人間の多くは、黒い羽毛の翼を連想するだろう。だが、アバドンの羽はそれとは大きく異なる。
翼ではなく、羽。
生物学では『翅』と表記され、昆虫の成虫のみが使用する、薄い、半透明の羽。
その枚数、十二枚六対。
同一視体である、かの『輝くもの』ルシフェルと同じ枚数の羽を、上下左右いっぱいに広げながら、アバドンは想界の空を舞う。
アモンは、そんなアバドンのある一点を注視した。十二枚もの羽によって厳重に封印されていた、あるモノを注視した。
それは、穴。
アバドンの背中に無数に存在していた、黒い、暗い、底無しの穴。
「がぁぁああぁぁあ!!」
アバドン絶叫。そして、その絶叫に呼応するかのように、羽という封印から解き放たれた底無しの穴たちが、一斉にうねりを上げる。そして、その無数の底無し穴から、夥しい数の弾丸が、一斉に無差別発射された。
流線形、薄黄色の弾丸。イナゴの卵だ。砲身を通していないので発射速度はそれほどでもないが、数が正気の沙汰ではない。
空中へと放たれた卵は瞬時に羽化、イナゴへと姿を変える。その変化がすべての卵で起きた。アバドンの眷属であるイナゴが、瞬く間に数を増やしていく。
まず一秒で、本体であるアバドンの姿をアモンの視界から消し去り。
次の一秒で、大軍勢と表記するに値する数にまで膨れ上がり。
また次の一秒で、アモンの周囲を全包囲し。
更に次の一秒で、想界の一角、その悉くを埋め尽くした。
「アモン卿、あなたは強い。数の力を超越した、遥か高みにあなたはいる。故に、倒すことは諦めます」
聞こえてきたアバドンの声に、アモンは視線を迷わせた。全方位、ありとあらゆる場所からアバドンの声が聞こえてくるのである。だが、アモンが視線をどこへ向けても、その先にアバドンの姿はない。そこには、夥しい数のイナゴの群れがあるだけだ。
「ですが、勝敗は別です。それは譲れません。私の分身が、あなたの契約者を倒すまで、我が全身全霊をもって、この場に足止めさせていただきます」
悪魔アモンに驕りはない。油断はない。隙はない。
ならば、その契約者を倒せばいい。
これが、アバドンが用意した、勝利へのシナリオだ。
「この数を強行突破するのは、流石に危険か……」
アモンは、イナゴが九、青が一といった、まさに世界の終末といった具合の空を仰ぎ、諦めるように呟いた。そして、どこにいるとも知れないアバドンに向け、こう告げる。
「いいだろう、相手になってやる」
次の瞬間、アモンの両手から黒炎が噴き出した。そして、あるモノを形作る。
それは剣。
地獄の極炎にて作られた、二振りの剣だった。
「だが、それでも勝つのは私だ! 蝗の王よ!」
「いいえ! 私は負けませんよ、アモン卿!」
両手に剣を握り、本当の意味で『黒炎の騎士』となったアモンが、咆哮と共にイナゴの軍勢へと疾駆する。そして、その疾走を、アバドンが数で迎え撃つ。
格づけは済んだ。だが、戦いは終わらない。
強者が勝者とは限らない。
絶対的な個と、圧倒的な数の、勝つための戦いと、負けないための戦いが激化する。




