040・アバドンにも弱点はある
「やり合う前に一つ聞きたいことがあるんですけど、いいですか? 稲葉樹梨さん?」
デカラビアとの繋がりで、ある程度の事情をすでに把握しているのか、いきなり樹梨の名前を口にする空羽。樹梨は、そんな空羽に警戒の視線を送りつつ、こう言葉を返す。
「何かしら、ヒモ男さん?」
「僕はヒモじゃありません。聞きたいことは、例の掲示板のことです」
例の掲示板。当然それは『怨嗟の声』の掲示板のことだろう。
「あの掲示板が、何よ?」
「いや、実はですね、ずっと引っかかっていたことがあるんですよ。七海さんの手前、ネットカフェでは事件は解決したと言いましたが、実を言うと、あの殺人鬼にかかわる一連の事件には、未解決の事件がまだあるんです」
「未解決事件?」
七海は、空羽の背中を見つめつつ首を傾げ、困惑の声を漏らした。
「ええ。ほら、あの掲示板に添付された、証拠画像の事件ですよ。いもしない空想の殺人鬼が大量の想力を得る切っかけになった事件でありながら、その殺人鬼が起こした連続殺人事件の影に隠れてしまって、ほとんどの人に忘れられてしまった事件」
「えっと、それって……」
空羽が言う事件というのは――
《投稿者・名無しさん
『すっげ、まじすっげ! 俺の書き込んだ奴も死んだ! この掲示板すげーよ! 絶対なにか憑いてるよ! このサイト作った奴、まじで神!』》
という書き込みと共に添付された、証拠画像つきの事件のことだ。
たしか、犯人は逃走中で、その情報は一切なしという、刃物による刺殺事件。
七海は、この事件をしばし自分なりに考え、ある事実に気がついた。次いで声を上げる。
「あ、そうですよ! この事件だけは、まだ解決してません!」
そう、この事件は未解決だ。これは『怨嗟の声』の殺人鬼が起こした事件でも、偶然が引き起こした事故でもない。
あの殺人鬼が生まれたのは、犯人の手掛かりが一切ないこの殺人事件が、各メディア経由で全国に広がり、いもしない空想の殺人鬼が、多量の想力を得たことに起因している。過程より先に結果が出るはずがないのだから、あの殺人鬼にこの事件は起こせない。他の何者かが起こした事件のはずだ。
「ついさっきまでは『この事件の解決は僕じゃなくて、警察の仕事だ』と思っていたんですけど、七海さんとのやり取りで確信しました。あの事件はあなたの仕業、書き込みは自作自演ですね? しかも、被害者は手ずから殺した……違いますか?」
この言葉と共に、右手の人差指で樹梨を指差す空羽。すると――
「……ちっ」
図星だったのか、樹梨は憎々しげに空羽を睨み、舌打ちをして見せる。
「あの、空羽さん。何でそんなことがわかるんです?」
空羽は『手ずから』と言った。それはつまり、樹梨が自らの手を汚したことを意味している。
時期的に考えて、樹梨はこのときすでにアバドンとの契約を終えていたはずだ。なら、人殺しなんて人生を棒に振りかねない行為を、自らの手でおこなう必要性はまったくない。想力体であり、一般人には認識されないアバドンにやらせたほうが簡単だし、確実だ。何せ、痕跡が何一つ残らないのだから。
掲示板の書き込みが樹梨の自作自演というのは七海にも理解できる。想力を手っ取り早く集めるために、一人くらいなら大手は動かないだろうと高を括って、樹梨が人殺しを断行したことも、まあ理解できなくもなかった。証拠が残らなかったのは、そのときに想力を使ったからだろう。だが、納得できるのはここまでである。アバドンではなく樹梨が、自らの手を汚さなければならない理由。それがわからない。
「アバドンにも弱点はあるってことですよ、七海さん」
自分では答えを出せない七海に、空羽は得意げな顔で告げる。
「弱点?」
「そう。アバドンは、人を殺せない想力体なんです」
「え?」
人を殺せない?
そのあまりに意外な答え、事実に、七海は言葉を失った。そんな七海を尻目に、空羽は話を再開する。
「堕天使アバドンは、初めから堕天使だったわけじゃない。元々は、神に仕える潔白な天使だった。それも、地獄の最深部にサタンを千年もの間幽閉するという、大役を任せられるほどに偉大な天使。しかし、終末のときに彼が執行する過酷な職務ゆえか、いつしかその存在は歪められ、堕天使と解釈されるようになった」
アバドンの職務。それは、第五のラッパが鳴らされたとき、キリスト教徒以外の人間に、五ヵ月もの間死をも上回る苦痛を与え、苦しめること。
「アバドンの毒は確かに猛毒です。しかしその毒は、けして人を殺めはしない。それがアバドンの最も恐ろしいところであり、弱点でもある。アバドンは許されていないんです。神から人を殺めることを」
「ぐ……」
相棒の弱点を大暴露され、苦々しく表情を歪める樹梨。そんな樹梨を真っ直ぐに見つめながら、空羽は尚も言葉を続けた。
「あの殺人鬼を作ったのは、そんなアバドンの弱点を補うためでもあったんでしょ? あなたが大手を必要以上に恐れるのもそう。あなたはキリスト教が怖いんだ。アバドンはその伝承ゆえに、キリスト教徒には一切手出しできませんからね」
空羽はここで口の動きを止めると、樹梨の内面を見透かすかのように目を細めた。そして、声色を変えて樹梨を糾弾する。
「何が『夢がかろうじて私を支えてた』だ。自分にとって都合のいい道具をつくり出すために、他者の命を利用したあなたは、その時点で人の道を外れてる。夢を言い訳に使うなよ。七海さんの友達に、責任転嫁してんじゃねーよ」
「黙って聞いていれば、このガキ……」
体を細かく震わせて怒りを堪える樹梨。そんな彼女の横で、アバドンが小さく溜息を吐き、次いで口を開いた。
「ふう、こちらの弱点はすでにお見通しか。いやはや、これも一種の有名税なのかな? やはり知名度が高すぎるというのも考え物ですね、アモン卿」
「その点についてはおおむね同意するが、生憎と私には、貴殿のようにわかりやすい弱点はないぞ。蝗の王」
「心得ているよ。まったくもって羨ましいことだ」
心底羨ましそうにこう言った後、アバドンはその体を「やれやれ」と左右に振る。
やはりと言うか、デカラビアのときと同じように、どこか互いを尊重したやり取りを見せるアモンとアバドン。そんな地獄の権力者同士のやり取りをよそに、七海は空羽にこう尋ねた。
「あの、空羽さん。人を殺せないってことは、私は別に、イナゴから逃げなくてもよかったんですか?」
「まあ、アバドン――イナゴに殺されることはなかったはずです。でもその場合は、病院のベッドで五ヵ月間、死以上の苦痛にもがき苦しむことになるか、もしくは毒で身動きが取れなくなっているところを、あの女に殺されるか――そのどちらかになっていたと思いますけど」
人目がある場所でやられたら前者、人気のない場所でやられたら後者か――と、七海は顔を青くする。そんなとき――
「ああもう!」
樹梨がイラついた様子で大声を上げた。そして、声を荒げてこう続ける。
「さっきからつまらない御託をグチグチと! 結局あんたは何が言いたいわけ? ええそうよ、私は人殺しよ。どうしようもない悪党よ。でも、それが何? それはあんたも同じでしょ? あんたが何人もの人間を殺してるってことは、こっちだって知ってんだから」
薄ら笑いを浮かべ、お返しとばかりに空羽のことを揶揄する樹梨。そんな樹梨に向かって、空羽は実にさわやかな笑みを返し、次の言葉を口にした。
「ええ、僕もれっきとした人殺しですよ。でもね、その事実に対して、言い訳や、言い逃れをしようとは思いません。それは僕の罪だ。他の誰のものでもない、僕の罪。僕が何を言いたいかって? 僕はただ、一人の人でなしとして、ろくでなしとして、同じ穴の貉として、自分のしたことを棚に上げて被害者面をしているあなたが、個人的にいたく気にいらないんですよ。それに、あなたが犯した悪事の詳細を知っていれば、ほら――」
ここで一度言葉を区切る空羽。そして、僅かな溜めの後に右手で握り拳をつくる。
この瞬間、空羽の存在感が爆発的に増したことを七海は感じ取った。蛇に睨まれた蛙のように体の動きを止め、ただただ空羽の背中を凝視してしまう。
守られる側の七海ですらそれだ。敵対し、正面から相対している樹梨には、その存在感は更に強く作用したらしい。存在感は威圧感と名を変え、まるで物理的な力でも持っているかのように、樹梨の足を一歩、また一歩と後退させる。
七海と樹梨。二人の女性の喉が、ほぼ同時に生唾を飲んだ直後、空羽は純然たる殺意の感情を声に乗せて、こう言い放った。
「あなたを始末した後、世間を納得させる理由を用意するのが楽で、色々と助かるじゃないですか」
「じょ、上等だこのクソガキがぁぁあぁあ!」
威圧感を跳ね除けるように絶叫する樹梨。次いで、右腕を突き出し、空羽へとアバドンをけしかける。一方の空羽は、アモンと並び立ちながら、左半身を前に出した簡単な構えを取った。
「やれアバドン! お前の毒であのガキを侵してやれ! 苦痛でもがき苦しませた後、私がバラバラに解体してやる!」
「御意! ふふ、地獄最強の一角と目される、かのアモン卿と死合う日がこようとはな! 血が滾る!」
「いくよ、アモン。七海さんのこともちゃんと守ってよね」
「わかっている。明日の夜までは生きていてもらわねば困るからな。私も、自分の言葉には責任を持ちたい」
二人の想力師と、二体の想力体。それらの感情と思惑が交錯し、ついに戦いの火蓋が切って落とされる。
東京の路地裏で、神話の世界の戦いが始まった。




