038・声優にとって一番大切なもの
「御柱さんにわかる? すぐ近くで、手塩にかけて育てた大切なものに止めを刺された私の気持ちが? わからないわよね? わかるわけがないわ。聞き耳を立てながら、今すぐ殺してやりたいって何度も何度も思った……でもね御柱さん、私、相手が御柱さんだって知って、一度は復讐を諦めたのよ。御柱さんには利用価値があったから」
「利用価値?」
「あなたの声優としての人気よ。御柱さんが『天使のホイッスル』のヒロイン、八坂美笛を演じれば、それだけで視聴者が増えるもの。その増えた視聴者は、同じ番組の中で流れる私の声も聴くことになる。そう思ったの。だから、一度は復讐を諦めた。でも……」
「オーディションで、芽春に負けた」
七海が事実を簡潔に口にすると、樹梨は目を見開き、怒りの形相で七海を睨んだ。
「ええ、そうよ。負けたわよ。若さとルックスなんていう、声優としての実力とは関係のないところで、格下の小娘にね! 信じてくれないかもだけど、私ね、これでもね、声優のことに関しては真面目にやっていたのよ? 何年も何年も努力して、必死に練習して、何度オーディションに落ちても挫けたりしなかった。やめようなんて思わなかったわ。子供の頃からの夢だったのよ、声優になることが。昨日まではねぇ!」
凄まじい怒声だった。この世のすべてを呪うかのような、負の絶叫。
「若いからって何? 可愛いからって何!? 声優って、そういう基準でへたくそな奴が選ばれるの!? 幻滅よ、幻滅! あのとき、私は確かに聞いたわ! 私の中で夢が壊れる音を、はっきりとね! そして、その夢が私を、稲葉樹梨をすんでのところで支えてた、人の道から完全に外れることを止めてたのよ! でも、もう声優なんてどうでもいい! 昔からの夢も、理想の道具も失った! 職も、学歴も、お金もない! カメラの前で失態を演じて、残ったのは糞みたいな人生だけよ! だったら未来なんて要らないわ! 気に入らない奴らを一人でも多く道連れにして、せいぜい派手に死んでやる!」
樹梨はこう宣言した後、七海に向かってゆっくりと歩き出した。
「まずは、私から理想の道具を奪い、後の障害にも成り得る御柱さん、あなたから。次に、私の夢を砕いた大西とかいう小娘と、あの音響監督。その後は、気に入らない奴を順番に始末して――あ、仲間外れじゃ可哀想だから、七井悠里もそっちに送ってあげるわ。今日の仲良しごっこの続きは、天国でやりなさい」
「空羽さんの名前がありませんけど?」
「ああ、あの男なら、もう終わってる頃よ」
樹梨は「そんなのとっくに対処したわ」と微笑んだ。
「その男のバイト先『サザンクロス』の所在と、今日もバイトに参加していることは調査済み。すでに五千を超えるイナゴの軍勢を向かわせてあるの。想力師としての活動は長いみたいだから、少しは腕が立つかもだけど、たった一人でどうにかなる数じゃない。今頃は、イナゴの毒に体を侵されて、激痛で地面をのたうち回っているはずよ」
「え?」
一人?
「契約した想力体を、御柱さんの護衛役にあてたのが運の尽きね。御柱さんは、その空羽とかいう男が助けにきてくれるのを期待して、必死に時間を稼いでいたみたいだけど、残念でした。無駄な努力だったわね」
勝ち誇ったように笑う樹梨。そんな樹梨を見つめながら、七海は右手を口元に当て――
「くす」
と、小さな笑い声を漏らした。
「何笑ってるのよ?」
絶体絶命。そんな状況にもかかわらず笑って見せた七海が気に入らなかったのか、足を止め、不機嫌な表情で訪ねてくる樹梨。そんな樹梨を無視して、七海は胸中でこう呟く。
そういえば、工事現場でも、ネットカフェでも、アモンさんの名前は出なかったな――と。
樹梨の空羽に対する備えは不完全だ。樹梨は、空羽と契約している想力体がデカラビアだけだと思っている。アモンのことを計算に入れていない。殺人鬼を壊したときにカラスの器の中に入っていたのも、デカラビアだと勘違いしている。なら、きっと空羽は無事だ。そして、アモンと共に、今もこの場所を目指して移動中のはず。なら、七海にはすべきことがある。できることがある。
動け。あがけ。諦めるな。子供の頃に憧れて、今なお目標にしている、人に夢と希望を与え続けるアニメのキャラクターたちのように、最後の最後まで、自分のなすべきことをしろ。
「何を一人で笑ってるのかって聞いてるんだけど? それとも何? ついに頭がおかしくなっちゃった?」
空羽が来るまで、少しでも、一秒でも長く、時間を稼ぐ!
「別に、あなたの勘違いが可笑しくて、思わず笑っちゃっただけよ」
乗ってこい! 心の中でそう叫んだ後、七海は声優としての演技力を総動員し、樹梨のことを可哀想なものを見る目で見下した。次いで、侮蔑の感情を乗せた声を、都会の路地裏へと響かせる。
「勘違い?」
イラつきを隠そうともせず声に乗せ、鬼の形相で七海に聞き返してくる樹梨。その声には、怒り、敵意といった感情の他にも、興味の感情を感じ取ることができた。七海は、顔では樹梨のことを見下しつつも、胸中ではほくそ笑む。
狙い通り。樹梨は話に乗ってきた。その興味が尽きないうちに、七海は次の言葉を口にする。
「ええそうよ。勘違いもはなはだしいわ。あなた、今すぐ鏡を覗いてみなさいよ。それがキャラクターに命を吹き込む人間の顔? 夢を作る人間の顔?」
煽り、挑発する。樹梨の感情を手玉に取って、自分の言葉の一字一句に集中させる。
「芽春はね、声優の卵の中じゃ、頭一つ抜き出た実力者よ。そんな芽春にはっきりと「負けた」と言わせるほどの技量を持つあなた。そんなあなたが、なんで昨日のオーディションに――いえ、今まで受けたすべてのオーディションに落ちてきたかわかる? それはね、あなたの本質が、本性が、オーディションの度にスタッフに見抜かれたからよ! 才能や、小手先の技術じゃない。声に感情を乗せ、キャラに命を吹き込む仕事、声優。その声優にとって一番大切なもの、心の問題よ!」
ここで樹梨の表情が、鬼と比喩するのも生温い凄まじいものへと変化した。だが、それでも七海は怯まない。その口を動かし、声を発し続ける。
「芽春の方があなたより若いから? 違う」
「黙れ」
「芽春の方があなたより可愛いから!? 違う!」
「黙れって……言ってるでしょ?」
地面に横たわるデカラビアをその場に残し、一歩、また一歩と、七海に向かって近づいてくる樹梨。本能が今すぐ逃げろと警鐘を鳴らすが、七海はそれを無視。ただただ口を動かした。
今にも逃げ出しそうな足ではなく、身を守ろうとする手でもなく、ひたすらに口を動かして声を出し、言葉を紡ぐ。防御不能の言葉の刃で、樹梨の心を切り刻む。
「稲葉樹梨、あなたは――」
逃げるな。口を動かせ。前を見ろ。攻めるんだ。稲葉樹梨の心に、魂に――
「あなたは声優になるべき人間じゃなかった!! それだけよ!!」
御柱七海最強の武器を、全力で突き立てろ!
「黙んなさいよあんたぁぁぁぁああぁぁぁぁあぁぁあ!!」
七海の糾弾が終わると同時に絶叫し、樹梨は怒りに任せて想力を行使した。
樹梨の両腕が、極彩色の百足へと姿を変え、七海に襲い掛かる。
七海は、逃げるでもなく、避けるでもなく、ただ直立し、自身に迫りくる二匹の百足をその場で待ち構えた。
死を覚悟したわけじゃない。
生を諦めたわけでもない。
ただ、見逃したくなかったのだ。
「まったく、七海さんのせいで、マスターに迷惑をかけちゃったじゃないですか」
自分が助けられる瞬間を、今度こそ。
七海の耳に、絶対の自信を感じさせる声が届くのとほぼ同時、七海の眼前にまで迫った二匹の百足が、見るも無残に爆裂四散した。次いで、オーソドックスな黒の学生服を着た黒髪の男の子が、七海のほぼ真上、ビルとビルの隙間から、七海を守るように路地裏に降り立った。
真打登場。存在するだけで周囲の空気を一変させる、千両役者のお出ましだ。
想力師・門条空羽が、ついに七海と合流したのである。
地獄の極炎を身に纏う、一人の騎士を従えて。




