035・とりあえず、お名前教えてくれますか?
いつでも動けるように身構えつつも、七海は闇の中から現れた女性想力師、その容姿をじっと観察してみた。
身長は七海と同じくらいだが、年齢は明らかに七海より上で、おそらく二十代前半ぐらいだろう。モミアゲだけ伸ばしたおかっぱヘアーで、プラスチック製の赤いカチューシャをしている。服装は、薄い桜色のレディースシャツの上に白のセーターを重ね着し、濃い紫色のロングスカート、紺色のソックスと、ショートブーツを履いている。アクセサリーの類は一切身に着けておらず、スタイルは歳相応で、豊かでも貧相でもない。顔は――素朴だ。素朴で地味な印象。だが、その顔からどこか凄味を感じる。それは、彼女の瞳に宿る光が非常に少ないからだ。芸能科に在籍する七海が、嫌でも多く目にすることとなった、挫折し、夢破れ、絶望した人間の瞳をしている。
一通り女性想力師の観察を終えた七海は、今度はその背後で音もなく浮遊する想力体、アバドンのほうに目を向けた。
尻尾を除いた全長は、おおよそ二メートルほど。姿形は昆虫の蝗に近い。だが、形こそ似ているものの、アバドンから蝗らしさはほとんど感じなかった。その理由は、アバドンの体が地面に対し水平ではなく、垂直だからだろう。蝗は地面に対して体を水平にしているのが自然体だが、アバドンは地面に対して体を垂直にしている方が自然体に見える。蝗ではありえない直立姿勢。それが、アバドンから感じる蝗らしさを大きく薄めていた。もちろん、アバドンの蝗らしさを薄めている要因は他にもある。アバドンの体は、イナゴと同様に体節の繰り返しで構成されているのだが、その至るところに黄金の装飾が施されており、体の表面を覆う外骨格には蟲めいた凹凸や棘などが一切ない、そのため蟲、節足動物と言うよりは、どこか機械、ロボットのような印象を七海に与えていた。
蝗の頭部にあたる部分には、眷属のイナゴと同じく、人間とほぼ同じ大きさの顔がある。だが、正円を描く無感情の目が二つあるだけで、鼻、口、耳といった器官は存在しない。
腹部にあたる部分は蝗と似たつくりだが、途中から徐々に細長くなっていき、その先端には針というには余り太く、巨大な、ランスじみた円錐状の凶器がついていた。
胸部にあたる部分からは、六本三対の脚が――いや、これはもう脚ではなく、腕といったほうがいいだろう。六本三対の腕が生えており、腕の末端は馬蹄によく似た楕円形になっていた。その馬蹄状の外骨格の内側には、もしかしたらアバドンの手があるのかもしれないが、それは今のところ定かでない。なぜならば、対になっている腕の末端同士がアバドンの体の正中線上でぴたりと合わさっているので、その中を窺い知ることができないからだ。
最後に羽。アバドンの背中には、蝗によく似た羽が生えている。だが、空中に浮遊しているにもかかわらず、現在その羽は閉じており、動いていない。眷属のイナゴと違い、羽を使わずに浮遊、移動できるのだろう。異様と言えば異様な光景だが、同じ方法で移動するデカラビアですでに見慣れているので、七海は特に気にしなかった。
蝗の王・アバドン。地面に対し直立浮遊しながら、六本三対の腕すべてを体の正中線上で合わせるその姿は、まるで神に向かって祈りを捧げているようにも、許しを請いているようにも見える。眷属であるイナゴから感じた悍ましさ、醜さは感じない。むしろ美しく、神々しくすらあった。
そんな、名も知らない女性想力師と、堕天使の中でも指折りの知名度を持った想力体。それらを前にして、七海が真っ先にとった行動は――
「こんにちは、昨日ぶりですね」
まずは挨拶。次いで――
「その……とりあえず、お名前教えてくれますか?」
敵想力師の名前を聞くことだった。
もちろん、純粋に彼女の名前が知りたかったわけではない。この行動には裏がある。
目下、七海の最優先事項は、空羽がこの場に到着するまでの時間稼ぎ。一秒でも多く時間を稼ぐことが、自身と芽春の生存に繫がる。そう考えての行動。
七海は体と声が震えないよう細心の注意を払い、平静を装って言葉を返した。こちらの不利を相手に悟らせてはいけない。状況は二対二。数だけ見れば互角だが、実際には大きな開きがある。相手は想力師と想力体のコンビだが、こちらは一般人と想力体のコンビなのだ。正面から戦えばどうなるかは、想像に容易い。
声優として、敵の前ではったりをかますキャラを演じたときの経験を活かし、精一杯の虚勢を張る七海。だが、レコーディングブースのマイクの前と、実際の敵の前とでは、やはり勝手が違う。心臓はバクバクで口から飛び出しそうだし、表情は引き攣る寸前。呼吸は意識してしないと即座に乱れるだろう。
内心ヒヤヒヤ、余裕なんて一切なく、すでにいっぱいいっぱい。そんな七海の問いかけに、敵想力師は首を傾げた後で「名前?」と呟いた。次いで、こう続ける。
「ふふ、そうよね。不世出の天才声優と持て囃される、あの御柱七海が、底辺で這い回る見習い声優の名前なんて、知っているはずないわよね……私の名前は稲葉樹梨。よろしく、御柱さん」
敵想力師――樹梨は、どこか自虐的に名乗った後、怪しく微笑んだ。
お姉さん系の女性キャラが似合いそうな声。滑舌も良い。才能は有ると思うし、訓練もしている――などと、もはや病気と言っても過言ではない声に対する分析をしつつ、七海は小さく会釈した。
「こちらこそ。よろしくお願します」
「ご丁寧にどうも……ねぇ御柱さん? そっちの質問には素直に答えてあげたんだから、今度はあなたが私の質問に答えてくれないかしら?」
「え? あ、はい。いいですよ。どうぞ」
その問答で時間が稼げるなら願ってもないことだ。七海は小さく頷き、樹梨からの質問を待つ。
「それじゃあ遠慮なく。御柱さん、あなたはいつから想力の世界に? 始めて想力体を見たのはいつかしら?」
「それは――」
「七海……答えちゃダメ……あの女は……七海の想力師としての練度を……回答から探ろうとしている……」
七海の言葉を遮り、少し強い口調で言うデカラビア。敵は、七海から想力師としての活動期間を聞き出し、おおよその実力を測ろうとしている。デカラビアはそう考えたようだ。
確かにその通りかもしれない。先程の樹梨の声には、興味の感情の他に、敵意の感情と、観察、隠蔽、他にも軽侮といった感情を感じた。会話から探りを入れる人間の声には、そういった負の感情が混じることを、七海は経験則で知っている。
「あら、疑り深い想力体さんね。別にそんなこと考えちゃいないわよ。何なら私から教えてあげましょうか? 私が初めて想力体を見た日、つまりはこのアバドンと出会った日は、一ヶ月とちょっと前よ」
怪しい笑顔のまま「まだまだ新米でしょ?」と続ける樹梨。この声にも、やはり敵意と、観察、隠蔽、軽侮の感情を感じる。
ならば――
「申し訳ありませんが、こちらが不利になりそうな質問にはお答え出来ません」
ここは、答えるべきではない。
七海が想力体を初めて認識したのは、僅か二日前。その事実を知ったら、樹梨は七海を格下と見なしていきなり襲い掛かってくる可能性がある。時間を稼ぐためにも、ここは要求を突っぱねるのが正解だ。それに、樹梨の声から隠蔽の感情を感じる以上、先程の発言が真実である保証はどこにもない。
「え~こっちは教えてあげたのに、そっちは教えてくれないなんて、ちょっと酷くない?」
こう言うと、樹梨は不満げに唇を尖らせる。僅かばかりの申しわけなさを七海は感じたが、やはり話すわけにはいかなかった。
黙秘を貫く七海。樹梨は、そんな七海を見つめつつ、再び怪しく微笑んだ。
「って言うか御柱さん? 言えないのは不利になるからじゃなくて、何か後ろめたいことがあるからなんじゃないの?」
「後ろめたいこと?」
「ええ。例えば……そうね、御柱七海が声優として成功したのは、陰で想力体の暗躍があったから。とか?」
「んな!?」
樹梨の口から出たこの言葉に、七海の表情が歪む。
「そ、それは断じて違います! 私が初めて想力体を見たのは、ほんの二日前なんですから!」
「七海!?」
慌てて振り返り「挑発に乗っちゃダメ!?」とでも言いたげな視線を七海に向けるデカラビア。だが、七海はデカラビアを無視し、感情のまま口を動かす。罠なのは承知の上。だが、声優としての自分を、御柱七海の誇りを馬鹿にされては、とてもじゃないが黙ってなどいられなかった。
怒り心頭、険しい表情で樹梨を睨みつける七海。そんな七海の視線の先で、樹梨はつまらなそうに口を開く。
「そっちの想力体さんの反応からして、嘘じゃないみたいね。ってことは、御柱さんは想力の力じゃなくて、実力で今の地位を築いたわけか……つまんないの」
樹梨の口から出たこの言葉に、七海の表情が更に険しさを増した。
どうやら樹梨は、七海が声優として成功したのは、想力のおかげであってほしかったらしい。御柱七海は、想力と想力体のおかげで声優として成功し、今の地位を築いていい気になっている。そんな事実を期待していたのだろう。
「あら? ひょっとして気に障ったかしら? ごめんなさいね」
七海の表情の変化にようやく気づいたのか、謝罪の言葉を口にする樹梨。だが、その表情には悪びれた様子はなく、声にもその手の感情は含まれていない。
「あなたは……なぜこんなことを?」
平常心、平常心。胸中でそう呟きながら、七海は会話が途切れないよう、次なる質問を口にする。そしてこの質問は、七海が樹梨に対して、一番聞きたいことでもあった。
「なぜ、イナゴを使って芽春を襲ったんですか? 芽春とあなたの間に、いったい何があったんですか? 答えてください」
もしかしたら、芽春と樹梨の間には、自分が知らない、偶然居合わせた自分なんかが首を突っ込んではいけない、何かしらの強い因縁があるのかも。そう思っての質問だった。
しかし――
「大した理由なんてないわよ。強いて言えば、ただの腹癒せかしら?」
樹梨の口から紡がれた言葉は、何とも理不尽なものだった。




