034・こんにちは、御柱さん
七海が芽春に覆い被さった直後、路地裏に様々な音が響き渡る。
神経を逆撫でする羽音。
体節が擦れ合う、蟲特有の動作音。
イナゴたちの断末魔。
他にも、他にも――
耳を塞ぎたくなるような悍ましい音の数々。その中で唯一、間近から聞こえる力強い風切音だけが、七海を励まし、勇気づけてくれた。
ほどなくして、それらが一様に聞こえなくなってから、七海は恐る恐る顔を上げる。
見えたのは、夥しい数のイナゴの死体と、事切れる直前の半死体。そして――
「デカラビアさん……」
器である髪飾りから飛び出し、七海と芽春を守ってくれたであろう、五芒星の悪魔の後姿だった。
「七海……無事? 怪我は……ない?」
「あ、はい。私は大丈夫です」
自分の体を見下ろし、所々触れながら七海は言う。特に異常は見当たらない。
「そっちの子は……?」
「芽春? 大丈夫、芽春?」
芽春の体を優しく揺すり、問いかける七海。だが――
「芽春!?」
返事がない。
地面に仰向けになったまま、芽春はピクリとも動こうとしない。七海は、その体を慌てて抱き上げた。
「芽春!? しっかりして、芽春!?」
脳内を駆け巡る嫌な予感。両の目から涙が溢れるのを感じつつも、七海は胸の中にある芽春の顔を覗き込んだ。
そして、見つける。
「きゅ~」
芽春の額から浮き出た、大きなたんこぶを。
「……」
「きゅ~」
「これって……」
「うん……頭を打って……気絶してるだけだね……」
七海と同じように、上から芽春のことを見下ろしながらデカラビアが言う。恐らく、背後から組み伏せたときに、地面に額を打ちつけ、そのまま気絶したのだろう。間の抜けた気絶顔を見るに、命に別状はなさそうである。
「よかった……よかったよ~」
芽春の無事を確認し、心底安堵する七海。涙を拭うその傍らで、デカラビアも声を発した。
「そうだね……気を失ったのは……好都合……」
デカラビアはそう言うと、腕を伸ばして七海から芽春の体を取り上げた。そして――
「ちょ!?」
そのまま腕を縮め、いつぞやのサインのときと同じように、芽春の体を窓の中へと収納してしまった。
「これでよし……」
「な、ななな、何やってるんですかデカラビアさん!?」
「ん? 身柄の確保……ここが一番安全……」
「生き物を入れちゃって大丈夫なんですか!? 消化しちゃったりとか!? 空気とか!?」
「大丈夫……ことが済んだら……出せばいい……」
冷静に語るデカラビア。その様子を見るに、本当に問題はなさそうである。
「まあ、何にせよ……七海が無事で……よかった……」
「あ、はい。デカラビアさんも無事で――って、傷だらけじゃないですか!?」
正面から見たデカラビアの姿に驚愕し、七海は声を張り上げる。
デカラビアはボロボロだった。本体と思われる黄金の五芒星にこそ傷はないが、そこから伸びる無数の腕には、夥しい数の傷が見て取れる。特に酷いのは、イナゴの毒針によってできたと思われる刺し傷で、刺された場所が毒によって変色し、お椀型に腫れ上がっていた。見ているだけで痛々しい。
「ん……この腕たちは……もう使えない……かな……」
「そんな……」
「だから……破棄する……」
え? 破棄? そう困惑する七海を尻目に、デカラビアは右の窓から新たな腕を出すと、手刀を作り、その手刀で傷ついた腕のすべてを無感情に切り落とした。本体から切り離された無数の腕は、すぐさま空気に溶け、消滅する。
「これでよし……」
「い、いいんですか? 腕、切っちゃって?」
「ん……明日には……生える……次は……」
そう口にし、すべての腕を窓の中へと収納するデカラビア。次いで、周囲に横たわる半死半生のイナゴたちを見据え――
「消え……ろ」
この言葉と共に目を見開く。
瞬間、デカラビアの瞳から幾重もの蒼白い閃光が迸る。その閃光は、まるで意思を持つかのようにイナゴたちの体に降り注ぎ、息の根を止め、瞬く間に焼き尽くした。
「うわぁ……すごぉ……」
目からビームを出したデカラビアと、綺麗になった路地裏を交互に見据え、驚嘆の声を漏らす七海。
あれだけの大群を相手に、七海を守りながらものともしない強さ。ソロモン七十二柱、その力の片鱗を垣間見た。
「眷属は自我が希薄だからね……束になっても……私の敵じゃない……」
デカラビアはここで言葉を区切り、路地裏の先を見据えた。次いで、こう告げる。
「眷属なら……ね……」
鋭い眼光と共に紡がれた、この言葉。これが何を意味するのかを、七海は瞬時に悟る。
そして――
「これはこれは」
七海の耳に、地の底から響いてきたかのような、重苦しい声が届いた。
「精強で知られる我が眷属たちを瞬く間に屠った手並みから、相応の手練れだと想像してはいましたが、まさかこれほど高名な方とは思わなんだ」
追いつかれた。心中でそう呟き、声が聞こえてくる方向に視線を向け、目を凝らす七海。だが、声の主は路地の影、都会の闇の中に紛れており、七海の目にはまだ見えない。
「この出会いに私はどうするべきか? 数奇な出会いと嘆くべきか、地獄の大侯爵をこの目にできたと喜ぶべきか、さてはて」
「以外に饒舌……ですね……」
「そう言うあなたは、少しばかり舌足らずなご様子」
こう言葉を交わした直後、互いの口から小さく笑い声が漏れた。
「ソロモン七十二柱が一柱、デカラビア卿とお見受けいたしますが、いかに?」
「相違ない……そちらは……蝗の王・アバドン殿……ですね?」
「いかにも」
七海の眼前で、王と侯爵が言葉を交わす。立場あるもの同士、互いが互いを尊重しているようにすら聞こえるその語らいは、重厚な雰囲気こそあるものの、今のところ実に穏やかだ。出会い頭に殺し合いになると思っていた七海としては、いささか以上に意外な光景。
アバドンと語り合う最中、デカラビアの視線は決してぶれることなく、闇の中の一点を真っ直ぐに見据えている。七海にはまだ見えないが、デカラビアにはすでにアバドンの姿が見えているのだろう。そして恐らく、アバドンと行動を共にする想力師の姿も。
アバドンと共に想力師が近づいてきているのは、少し前から七海にもわかっていた。
姿は未だ見えないが、足音は聞こえる。女性用の下履き、その堅い踵が、コンクリートで舗装された地面を叩く音。狭い路地裏で反響したその音が、七海の耳にしっかりと届いている。
その足音は次第に大きくなり――
「こんにちは、御柱さん」
昨日と同じ挨拶と共に、一人の女性が、都会の闇の中から現れた。
蝗の王を、引き連れて。




