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002・その後、芽春の姿を見たものは、誰もいなかった……

「……大丈夫? 魚ちゃん?」


 悠里の二度目の『魚』発言。その言葉に反応し、芽春が再起動する。埋葬された亡者が墓穴から這い出るかのごとくにゆっくりと動き出し、両手を床につけて体を起こした。ほどなくして立ち上がる。


「悠~里せ~んぱ~い」


 先ほどと打って変わり、この世の不幸独り占めとでも言いたそうな顔で呻く芽春。悠里からの『魚』発言がよほどショックだったのか、彼女の顔は涙に濡れてグシャグシャだった。足も激しく震えており、生まれたばかりの小鹿を連想させる。


「前にも言ったと思いますけど、芽春を『魚』って呼ばないでくださ~い。私は芽春、大西おおにし芽春めばるです。確かに芽春の名前は某魚類と同じで、実家はお寿司屋さんですが……でもでも、尊敬する悠里先輩に『魚』って言われると、芽春はとってもとっても悲しいです……」


 泣き顔で懸命に訴える芽春。だが、悠里は小さく小首を傾げ、こう口にした。


「え~なんで? 可愛いと思うよ、魚ちゃん」


 悠里の三度目の『魚』発言。芽春の体が、プロボクサーの右ストレートを食らったかのように大きくのけ反った。しかし、芽春にも耐性がついてきたのか、今度は倒れることなく踏み止まる。が、足の震えは明らかに増していた。


「うぅ……悠里先輩が酷いです。オニチクです。わざとですね? わざと言ってますね? 芽春を虐めて遊んでますね? 楽しんでますね!?」


「そんなことないって。私、魚ちゃんのこと大好きだよ」


「うぅ~! また芽春を『魚』って呼びました~!」


「もう、やめなよ悠里ちゃん! 芽春もそんなに泣かないの!」


 階段を駆け降りた七海が、悠里と芽春との間に割って入る。すると、芽春が七海に飛びかかり、涙ながらに縋りついた。


「うえ~ん! 七海せんぱ~い! 悠里先輩が虐めます! 芽春を虐めるんです! って言うか、芽春の会心の一撃的な挨拶が、芽春の武器を総動員した最強の一撃が、なかったことのようにスルーされてしまいました! 芽春の練習は何だったんですか!? 芽春はこれから何を信じ、何を武器に戦っていけばいいのでしょうか~!?」


 芽春、絶叫。


 始めこそ涙ながらに七海に助けを求めるだけだったが、途中で変なスイッチでも入ったのか、次第に七海の体を前後に揺すり始め、好き勝手なことを喚きだす。


 前後に揺すられながらも「お、落ち着いて芽春~!」と、芽春を宥める七海。だが、芽春の両手は止まらない。秒間二往復ほどの速度で、七海の体を延々前後に揺すり続けるのだった。


 徐々に青くなっていく七海の顔。そんな七海を不憫に思ったのか、悠里は「仕方ないなぁ」とでも言いたげな顔で、親友を助けるべく行動を起こす。


 小走りで回り込み、芽春から見てすぐ左隣りで足を止める悠里。その後、芽春の左肩に手を置き、そっと口を開いた。


「芽春ちゃん……」


 先ほどまでとは明らかに違う、慈愛に満ちた優しい声で『魚』ではなく、しっかりと芽春の名前を呼ぶ悠里。芽春の体が電流でも走ったかのように震え、前後に動いていた両手がぴたりと止まった。


 目を回し、目の前でぐったりとしている顔面蒼白の七海から、悠里の方にゆっくりと視線を動かす芽春。その視線が悠里の優しい微笑みを捉え、そこで固定される。そして、それと同時に――


「自分を信じれば良いと思うよ」


 名前を呼んだときと同じ慈愛の口調で、悠里がこう囁いた。


「はうぁ!! そ、その台詞は~!!」


 叫び、両手で掴んでいた七海の体を右側に押し退け、芽春はものすごい速度で左隣りの悠里へと向き直る。


「ふえ? ふぎゅ!?」


 全身をシェイクされ、文字通りふらふらだった七海が、芽春の背後で真正面から壁に激突。が、そんなことなど気にも留めず、絶望に染まり涙に濡れていた瞳を、希望の光でいっぱいにしながら、芽春は口を動かした。


「悠里先輩!? さ、さっきの台詞は、アニメ『魔法洋菓子職人シュガー』の二十三話で、魔王の力に絶望していたソルトを励ました、シュガー伝説の名台詞!?」


「伝説って……そんな大袈裟な」


「大袈裟じゃないですよ!? 某動画サイトで、その台詞だけのたった数秒の動画が、どれだけの再生数を叩き出しているか! まさか、ご存知ないのですか!?」


「え~と、ご存知ないような……あるような……」


「うぅ~その台詞を生で聴けるなんて! しかも芽春に向かって言ってくれるなんて! 芽春はとってもとっても幸せです~」


 先ほどまでの不幸はどこへやら、悠里の目の前で感動に打ち震え、滝のように涙を流す芽春。そんな芽春を苦笑いで見つめつつ、悠里は「うう、困ったな」と、小さく呟いた。


 悠里としては、半ば暴走状態になっていた芽春の動きを止め、七海を助けるために先ほどの台詞を口にしたのだろう。だが、一度どん底に落ちてからのラッキーイベント、幸福の振れ幅があまりに大きかったからか、芽春は再び我を忘れ始めている。このままでは元の木阿弥だ。芽春が不幸か、幸福かの違いだけである。


 悠里は「これからどうしよう?」とでも言いたげな顔で途方に暮れた。が、次の瞬間、悠里はあることに気づき、その表情を硬直させる。芽春の背後を凝視したまま、冷や汗をだらだらと流し始めた。


 暴走している芽春は悠里の変化に気づかない。気づかないどころか、今の芽春には悠里が神にでも見えているのか、両手を胸の前で合わせ、こんな言葉を口にする。


「もう思い残すことはありません! 芽春は今死んだって構わないくらいです!」


 勢いだけの、後先何も考えていない言葉だった。そして、この言葉を最後に――


「そう……芽春は、もう死んじゃってもいいんだ?」


「ひぅ!?」


 芽春の幸福は終わりを告げる。


 芽春の背後から不意に聞こえてきた声。美しさと透明感を兼ね備えた、氷のように冷たい、七海の声。


 その声は小声だったにもかかわらず、けして小さくないビル、その一階フロア全体に余すことなく響き、芽春、悠里だけでなく、その一階フロアに偶然居合わせた数名の人間すべてを、声に込めたある感情によって、恐怖のどん底へと叩き落とした。


 声に込めた感情の名は、殺意。


 もちろん、本物の殺意ではない。本気で芽春をどうこうしようなんて考えは、七海にはこれっぽっちもないだろう。これは、おいたが過ぎた後輩へのお仕置きであり、七海の演技であり、延いては声優としての表現力である。ただ、その完成度が異常なだけだ。


 声に感情を込める。これは声優にとって基本であり、すべてと言っていいだろう。そして、殺意はその表現する感情の中で、もっとも難しいであろう感情の一つである。七海はその殺意を、ごく自然に使いこなしているのだ。


 ビルの一階フロアにいたすべての人間――いや、直接名指しで殺意を叩きつけられ、石化している芽春、それ以外の人間が、殺意によって生まれた恐怖に突き動かされ、視線を一か所に、芽春の背後で少し俯きながら直立している七海へと集中させる。


 七海の表情は前髪に隠れて視認することができない。その細かい演出が、見るものの恐怖を何倍にも増幅させた。


「なら……いいよね? 私、我慢しなくても……いいよね?」


 俯いたまま最後通告をする七海。次いで、ゆっくりと両腕を動かした。


「あわ、あわわわ……そ、その台詞は……」


 七海の最後通告を聞き、あることに気がついた芽春。芽春はその恐怖と感動を伝えようと、硬直していた口をどうにか動かし、必死になって言葉を紡いでいった。


「第一話を放送しただけで全国のPTAを敵に回し、ネット討論会にまで発展した問題作『病み鍋スクールライフ』。そのヤンデレヒロイン、氷月ひづきこころ! 彼女が邪魔者を始末するときの決め台詞! そんな言葉と共に芽春を逝かせてくれるなんて!」


 七海の両手が芽春に迫る。そして、ついにその両手が芽春の首に――


「芽春はとっても、とっても……あ、あああぁぁああぁあーーーーーー!!」


 一階フロアにいる人間、そのすべてに見守られながら、芽春はあらん限りの絶叫を上げ、その意識を手放した。


「その後、芽春の姿を見たものは、誰もいなかった……」


「人が気絶したと思って、縁起でもないナレーションを、雰囲気たっぷりに言わないでくださいよ! 悠里先輩!」


 悠里の勝手なナレーションに突っ込みを入れる形で、即座に意識を取り戻す芽春。


 七海の両手はすでに芽春の首から離れていた。もっとも、七海が芽春の首に手をかけたのはほんの一瞬であり、もちろん力を込めてもいない。


「うぅ、酷い目に合いました。でもでも、とってもとっても勉強になったです。これからもよろしくご指導お願いします! 先輩!」


 完全復活、元気いっぱい。そんな芽春を前に、七海と悠里は「やれやれ」と言いたげに苦笑いを浮かべた。


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