027・自己暗示を超える、声優としての到達点
「信じ……られない……」
デカラビアが今にも泣きそうな声で呟く。どうやらデカラビアは『魔法洋菓子職人シュガー』のファンでもあったようだ。
「『魔法洋菓子職人シュガー』は僕も一通り見ましたけど、ソルトって作中の主要キャラの一人ですよね? 劇場版で主要キャラが死亡とは……それはまた、随分と思い切ったストーリーですね」
「劇場版は『魔法洋菓子職人シュガー』と、制作が決定されていた続編『魔法洋菓子職人シュガー・セカンド』との間を描いた作品なんです。劇場版でソルトは、自身の力の源である純銀のケーキナイフをシュガーに託します。セカンドでは、そのケーキナイフを受け継いだ新たな魔法洋菓子職人が主人公になるはずでした。劇場版の制作が、予定通りに進んでいれば」
そう、七海のことをすでに一通り調べたであろう空羽と、『魔法洋菓子職人シュガー』のファンであるデカラビアが『劇場版・魔法洋菓子職人シュガー』の内容を知らないことからもわかるように、劇場版も、セカンドも、その大まかなストーリーすら大衆の目に触れることのないまま、制作は無期延期となり、闇へと葬られた。その原因は、アフレコ中に七海が倒れたことに他ならない。
アフレコ中に倒れ、心肺停止となった七海は、救急車で病院に担ぎ込まれ、一命を取り留めた。しかし、後におこなわれた精密検査では、倒れた理由は判明しなかったのである。しかし、病院側は『原因不明』をよしとはしなかった。御柱七海は『過労』で倒れた可能性があると、そう診断したのである。
七海を診断した医師が保身のためにそう口にしたのか、本当に誤診だったのかは定かではないが、この言葉には信憑性があった。当時の七海は、不世出の天才声優として多方面から引っ張りだこで、過労で倒れてもおかしくないほどの過密スケジュールが、確かに組まれていたのである。
この『過労』という診断にメディアが飛びついた。当時中学生だった七海を、利益のために倒れるまで酷使したと、七海の所属事務所と、劇場版の制作会社が、世間からの酷いバッシングを受けたのである。
いつしかそのバッシングは『劇場版・魔法洋菓子職人シュガー』にも向けられ、作品の人気は低迷。バッシングによる制作会社の経営悪化も重なり、劇場版の制作は無期延期となり、セカンドは話そのものがなかったことにされた。
「渡された台本に目を通したときから嫌な予感はしてたんです。なにしろ初めてのケースでした。演じるキャラクターの人格が私の中で確立した状態でのアフレコも、そのキャラクターが作中で死亡するのも……ですが、それだけを理由に仕事を断ることはできません。私は――いえ、私たちは、きっと大丈夫だと、いつもと同じだと、互いに言い聞かせ合いながら、アフレコに臨みました」
七海はここで目を閉じる。
「始まるアフレコ。私は不安を抱えながらも、プロとして、ソルトの声優として、マイクの前に立ちました。そして、自己暗示の解凍と同じ要領でソルトの人格を表層に引っ張り出し、私の、御柱七海の人格を深層へと引っ込めようとした、そのときです。すごいことが起きたんです」
「すごいこと?」
「ええ……御柱七海の人格、つまりは私の意識が肉体を離れて、アニメの世界に『魔法洋菓子職人シュガー』の世界に入り込んでしまったんです」
あれはすごい体験だった。七海が心底そう思いつつこう口にすると、七海の耳に、いかにも「僕、困惑してます」と言いたげな空羽の声が届いた。
「あの……七海さん? 言っている意味がよく……」
この声に反応し、目を開ける七海。すると、声の印象通りの困り顔で首をひねる空羽の姿がそこにはあった。アニメの世界に入り込んだという七海の言葉、その真意を測り兼ねているのだろう。
七海は、無理もないなと思いつつ、先程の言葉に注釈を加える。
「えっと……つまりですね、アフレコをするときの視点が違うんです。声優は、アフレコブースに備えつけられた画面に映し出される映像を見ながらキャラクターに声を当てますが、私はアニメの中で、ソルトと一体化しながら彼女に声を当てることができたんです。アニメをテレビの前ではなく、そのアニメの登場キャラクターと一体化して、そのキャラクターの視点で見る感じ――ですかね? もしくは、私の方がソルトの別人格になった――みたいな?」
たどたどしい口調での、なんとも頼りない注釈だった。だが、空羽はどうにか理解してくれたようで、難しい顔で一度頷き、言葉を返してくる。
「僕は多重人格になったことがないので、どうにもピンときませんけど……要するに、そのとき七海さんは、ソルトと一体化して、ソルトの視線で『魔法洋菓子職人シュガー』の世界を体験したと?」
「はい、その通りです。でも、アフレコの最中ずっとアニメの世界に入りっぱなしだったわけじゃありません。アフレコはシーン別で撮りますから、音響監督の「OK」の声で、私の意識は現実世界に引き戻されました」
七海は「ここで人格も、ソルトから自動的に私に戻ります」とつけ加える。
「現実世界に戻った私は、すぐに周りの人たちに尋ねました。さっきの私、どこか変じゃありませんでしたか? って。でも、皆して私のことを褒めるくれるだけでした。今までで一番凄い演技だったよ、気合入ってるねって」
七海がこう言うと、空羽の表情が困惑顔から呆れ顔へと変わる。
「つまりはこうゆうことですか? 七海さんは、意識上ではソルトと一体化して、アニメの世界に入り込むなんてとんでも体験をしていたにも拘らず、肉体の方ではちゃんとアフレコをやっていたと?」
「ええ。私自身、すぐには信じられませんでしたけど、そうみたいなんです」
意識が肉体から離れていたので七海に実感はないが、周りの反応から察するに、七海がアフレコをちゃんとこなしていたのは間違いない。
「キャラクターと一体化しながらアフレコができるなら、演技力が向上するのは当然のことなんです。なにせ、演じるキャラクターと経験、感覚、感情を共有しながら演技ができるんですから」
「……確かに、それなら演技力は飛躍的に向上するのが道理ですね」
「キャラクターと一体化することで得られる恩恵は、声優にとって限りなく大きいものです。アフレコを進める内に私は確信しましたよ。この状態こそが、御柱七海の奥義だと。今まで私が求め続けた、自己暗示を超える、声優としての到達点なんだと」
アフレコ中における、キャラクターとの一体化。声優・御柱七海の奥義。
この現象は、演じるキャラの人格が七海の中で確立した状態でアフレコをした場合にのみ発現すると、そう七海は予想している。もっとも、肝心の別人格たちが消えてしまった今、裏づけを取る機会は永遠に失われてしまった。真実は闇の中である。
「私は掴んだばかり奥義を駆使し、アフレコを軽快にこなしていきました。楽しかったですよ。憧れだったアニメの世界を実体験できたこともそうですが、アフレコ自体も楽しめました。あの日のアフレコは、笑顔の絶えない理想的なものだったと思います。回数を重ね、ソルトと一体化することに慣れた頃には、アフレコ前に感じていた不安のことなどすっかり忘れて、私も笑っていました。そう……笑えていたんです。アニメの中に入り込み、キャラクターと一体化する。これが何を意味するのか本当の意味で理解する、あのときまでは……」
話の後半で口調を変え、重い声色で七海は語る。すると、話の雰囲気が変わったことを察したのか、空羽もその表情を真剣なものへと変えた。
「七海さん、それはどういう……?」
「キャラクターとの一体化は、リターンも大きいですが、リスクも大きいってことです。物語中盤の戦闘シーン撮りのときでした。敵の攻撃でソルトが負傷した瞬間、私の体にも激痛が走ったんです」




