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021・ああ、私の日常は壊れてしまったんだな

「合格者は、八坂美笛役・御柱七海さん。天塚楓役・七井悠里さん。続いて――」


 参加者全員の演技が終わった後、音響監督から直接告げられる合格者の名前。


 カメラを意識してか、名前が読み上げられる度、やや過剰とも取れる反応を見せる声優たち。満面の笑みで両手を上げる者や、落胆の表情で肩を落とす者と、反応は様々である。


 そんな周囲の反応とは裏腹に、七海に動きはない。真っ先に名前が呼ばれたにもかかわらず、複雑な表情で合格者の名前を聞いていた。


 本当にこれで良かったのかな? と、七海は心の中で呟き続ける。


 合格発表の後、合格者と音響監督とで簡単なミーティングをおこない、作品に賭ける意気込みを一人一人カメラの前で語った所で、今日のところは解散となった。


 七海は共演することになった声優たちと、これからお互いに頑張ろうと握手を交わし、別れを告げ、悠里と並んで一階出入り口に向かう。


「これで七海ちゃんのレギュラー枠が一つ決まったわけだね。持てるレギュラーは後一つ。で、何にするの?」


 階段手前で口を開く悠里。その顔はキラキラの笑顔。声から感情を読み取るまでもなく、かなりご機嫌だということが一目でわかる。まあ、ゴールデンタイムのレギュラーが取れたのだから、当然と言えば当然なのだが。


「何にするって、私が選べるわけじゃないし……」


「選べるも同然だよ! 七海ちゃんがオーディションに落ちるわけないんだから!」


 そう言うと、悠里は変わらぬ笑顔で七海の背中を力強く叩いてくる。


「ちょ、ちょっと悠里ちゃん! 階段! 今階段! 落ちるってば!」


「はは、ごめんね。でさ、何かある? これをやるために、もう一つレギュラー枠を開けてある。みたいな感じの作品!」


「悠里ちゃん、テンション高すぎだよ。えっと、そうだね、今は――」


 七海はここで一度言葉を止め、両手を強く握りしめる。


「明後日の『ベリーベリーベリー』最終回のことしか考えられない……かな」


 それが、声優・御柱七海の、最後の仕事になるかもしれないのだから。


「……ねぇ、七海ちゃん。ひょっとして、何かあった?」


 七海の言葉から何かを察したのか、笑みを消した悠里が怪訝な顔で尋ねてくる。


 途端に悠里に泣きつきたい衝動にかられる七海。何もかも悠里に打ち明けて、少しでも楽になりたい。そう思った。


 だが、それはできない。


 悠里を、大切な親友を、巻き込むことはできない。


 この世には、神も、仏も、悪魔もいる。だが、それらは信じない方が幸せだ。本気で信じてしまった瞬間、今までの常識はひび割れ、日常は崩壊する。


「ううん。別に何も」


 七海は笑う。精一杯の作り笑いで。


「ごめん、悠里ちゃん。私、用事があるんだ。じゃあね」


 悠里の次の言葉を聞くのが怖くて、足を速める七海。足早に階段を下り、一階へ。そのまま逃げるようにビルを後にする。


 ビルを出て駐車場へ。七海はそこで足を止め、後ろを振り返る。その視線の先に悠里の姿はない。


 目頭が熱くなり、涙が出そうになったが、どうにか堪える。


 体の向きを戻し、下を向きながら歩き出す七海。アスファルトを踏みしめるその足は、驚くほど重かった。


「……お腹空いたな」


 下を向き、暗い顔で呟く。


 スマートフォンで現在の時間を確認。時刻は四時三十分だった。オーディションが正午からだったので、昼食はまだ食べていない。朝食が豪勢だったとはいえ、お腹が減っていて当然だ。


 お腹が減っているから気持ちが沈んでいるんだ。すぐに何か食べよう。どうせならうんと贅沢してやる。カロリーも値段も気にしない。そう決めた。


 思考を切り替え、これから食べる昼食に想いを馳せる七海。そんな七海が、駐車場を後にしようとした、丁度そのとき――


「こんにちは、御柱さん」


 右斜め前方、七海と入れ違いになる形で駐車場に足を踏み入れた女性が、簡単な挨拶をしてきた。


 七海は慌てて顔を上げる。挨拶と共に七海の名前を呼んだということは、声優、もしくはその関係者だ。恐らく、六時からのオーディションに参加する声優だろう。つまりは、今日の芽春のライバルである。


 オーディションの開始時刻まで、まだ一時間以上も間がある。こんなに早くスタジオ入りなんて、ずいぶんと気合いの入った人だ。


 遅刻寸前で駆け込んだ自分のことを恥ずかしく思いつつも、七海は笑顔で挨拶を返す。


「あ、はい。こんにちは」


 挨拶をしながらその女性とすれ違い、駐車場から歩道に出る七海。そして、体を大きく震わせた後、硬直した。


 すれ違い、挨拶した瞬間、見た。


 確かに見た。


 蟲を。


 先程すれ違った声優だと思われる女性。その背後に、日本では、と言うか世界中探してもまずお目にかかれないであろう、巨大な蟲が飛んでいるのを、見た。


 想力体だ。間違いない。


 確認のため、七海が首を動かして後ろを振り返ろうとすると――


「ダメ……」


 デカラビアの小さい声が聞こえた。そして、動き出していた七海の首が止まる。


 髪飾りの中のデカラビアが、七海が振り返ろうとした方向とは真逆に力をかけ、首の回転を阻止したのだ。


「そのまま……何事もなかったように歩いて……この場を離れる……」


 七海の家や、ネットカフェのときと違い、命令口調のデカラビア。七海は生唾を飲んでから小さく頷き、無言でデカラビアの指示に従った。歩いてその場を離れる。


 自然に、自然に。そう自分に言い聞かせる七海。どうしても早歩きになってしまう足で、ただひたすらに駅を目指す。もう空腹は感じていなかった。食事なんて後でいい。今は、一刻も早く自宅に戻りたい。


 七海の職場とも言えるレコーディングスタジオ。そこに想力体が出入りしていた。その事実が、七海に空羽の言葉を思い出させる。


 想力に関係する事件が、一生七海について回る。


 この言葉は真実だった。そして、七海は諦めと共に再確認する。


 ああ、私の日常は壊れてしまったんだな――と。

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