020・てへ、やっちゃった♪
「ああ、もう! 私のバカ、バカ、バカ~!」
自分自身を罵倒しながら、七海は『天使のホイッスル』の最終オーディション会場であるレコーディングスタジオに向かって全力疾走していた。
ネットカフェでソロモン七十二柱について調べていたら、あれもこれもと関連事項が気になりだし、まだ少し時間がある。これを見たら店を出よう。最後にこれだけ――といった具合に調べものを続け、気がついたら時間ぎりぎりになっていたという、典型的な「てへ、やっちゃった♪」状態である。
自己嫌悪で胸をいっぱいにしつつも、ただひたすらに走る七海。ほどなくしてレコーディングスタジオが見えてきたが、走る速度は緩めない。間に合う。間に合わせる。ただそれだけを考え、一心不乱に足を動かし続けた。
関係者専用の駐車場を駆け抜け、一直線に正面玄関へ向かう。目前に迫る自動ドア、それが開くと同時に体を滑り込ませた。他のオーディション参加者たちと思われる視線を全身に感じたが、気にしている場合じゃない。それらを無視して、ビル一階に備えつけてある無駄に大きい時計で時間を確認した。
十一時五十八分――
「まに……あった……」
息も絶え絶えといった有様で呟く七海。次いで、定まらない足取りで受付に向かう。
心配の言葉を掛けてくる受付担当者に、七海は視線だけで「大丈夫です」と伝え、差し出された名簿に震える手で名前を書き込む。その後、受付から離れ、空いていた椅子に倒れ込むように座った。
顔を伏せ、呼吸を整えることに努める七海。すると、誰かが正面から近づいてくる。
「大丈夫、七海ちゃん?」
聞き慣れた声、悠里だ。
七海が顔を上げると、そこには七海と同じく私立明声学園の制服に身を包んだ七井悠里がいた。首を傾げながら、心配そうな表情で七海を見下ろしている。
「遅刻ぎりぎりで駆け込んでくるなんて珍しいね。どしたの? 寝坊?」
悠里の何気ない質問に、七海は呼吸を整えることを理由にして、左手を悠里に向けて突き出し、ジェスチャーで少し待ってと伝える。
本当のことを言うわけにはいかない。何かないかと思考を巡らせていると、悠里に向かって突き出している左手の薬指、そのつけ根の傷口が目に入った。
「き、昨日の夜……指、ひっかけちゃって……血が多めに出て……慌てて……テンションが、変に……眠れなくて……」
右手で傷跡を指差し、この場ででっち上げた遅刻の理由を、七海は途切れ途切れに口にする。
「それで寝坊したの? 災難だったね。傷は大丈夫? 痛む?」
素直に信じてくれた様子の悠里に、心の中でほっとする七海。次いで辺りを見回した。
「め……芽春は……?」
「芽春ちゃんが参加するオーディションは私たちのずっと後だよ。六時からだって。今日は会えないと思うよ」
「そっか……よかった……情けないところ……見られなくて……」
そう言った後で、弱々しく七海は笑う。そして、それとほぼ同時に、何者かが階段を下ってくる足音が聞こえてきた。声優たちの緊張が一気に高まる。
七海が階段の方に視線を向けると、二人の成人男性の姿があった。アニメ『天使のホイッスル』の監督と、音響監督である。
デモテープによる一次審査を突破した『天使のホイッスル』主要キャラのオーディションに参加する声優、約三十人。音響監督はそれらを一瞥した後「では、これよりオーディションを開始します」と口にし、監督と共に階段を上り出した。
移動が始まる。
七海は椅子から立ち上がり、悠里と並んで両監督の後を追った。
階段を上りながらハンカチを取り出し、顔の汗を拭う。すると後ろから「御柱七海があの様子なら、私にもチャンスが……」と、同じ八坂美笛役の最終候補だと思われる、あまり交流のない声優の独り言が聞こえた。
七海は無言で苦笑いを浮かべる。確かにコンディションは最悪だな――と、素直に思った。
まだ息は荒い。喉に乾きも感じる。いつもは欠かさない前日の予習もできなかった。何より、このオーディションにかけるモチベーションが低い。
今はオーディションに参加している場合なのか? 他にやるべきことがあるんじゃないのか? そもそもこのオーディションに受かっていいのか? 明後日には死ぬかも知れないのに? と、悩みは尽きない。
原作『天使のホイッスル』は、コミックス累計一千万部を超える大人気漫画。そして、アニメの放送時間はゴールデンタイムになることがすでに決まっている。他の声優たちのモチベーションはさぞ高いことだろう。メインヒロインである八坂美笛役なら尚更だ。
こんな状況で合格できるのか? と、七海の心に不安が芽生え始めたとき、周りの声優たちが足を止める。考えごとをしている間に着いてしまったようだ。音響監督の「それでは早速始めます」と言う声が聞こえる。
「メインヒロインの八坂美笛からです。御柱七海さん、準備お願いします。同じく八坂美笛を演じる方は、御柱さんと一緒にアフレコブースへ。他の方たちはこちらの別室へどうぞ。別室の方でもカメラが回っており、オーディションに対する意気込みなどの質疑応答が一人ずつおこなわれますので、ご留意ください」
よりによっていきなり私か! と、七海は心の中で絶叫する。
「七海ちゃん、がんばってね!」
悠里の声援に送り出され、七海は監督、音響監督の後に続き、コントロールルームの中に入った。
コントロールルームの中には『天使のホイッスル』の原作者と、その担当編集、他にも数人のスタッフと、大きなカメラを抱えるカメラマンがいた。七海は原作者の先生に向かって丁寧に一礼してからアフレコブースへと向かう。
他の声優の「よろしくお願いします」という声を聞きながら扉を開け、七海はアフレコブースの中へ。次いでマイクの前へと向かった。
マイクの正面に立ち、他の声優達が入室し終えるのを待つ。そして、全員の入室をしっかり確認してから、視線をガラス越しのコントロールルームへと移した。
七海の視線の先で、監督と音響監督が、原作者の先生の隣に着席。ほどなくして「では、始めてください」と、アフレコブース内のスピーカーから、音響監督の声が聞こえた。
七海は大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。
呼吸はだいぶ落ちついた。だが、頭の中はオーディション以外のことでいっぱいだった。
空羽のこと、ソロモン七十二柱のこと、想力のこと、これからの生活のこと。他にも、他にも。御柱七海の頭の中はぐちゃぐちゃだ。
まあ、もっともこんな考え――
「エプタメロン所属、御柱七海です。よろしくお願いします」
キャラと向き合えば、自然と消える。
私は八坂美笛。
七海は心の中で一言呟き、長い時間をかけて作り上げ、いつでも発動可能にしておいた八坂美笛用の自己暗示を解凍する。
瞬間、御柱七海のキャラクターは、八坂美笛に最適化された。
性格、口調、精神年齢はもちろん、原作漫画と設定資料集を熟読して作り上げた、八坂美笛としての経験、記憶すらも心の中で再現。キャラクター変更期間は、演技終了までとした。
それじゃ、後はよろしく。八坂美笛に最も近づいた私――
◆
顔つきと目の色、その双方が変わると同時に、七海の演技が始まった。
マイクに向かう彼女の手に、台本はない。
コントロールルームにいた原作者が、目を見開いて身を乗り出した。
監督が「さすがだ」と何度も頷いた。
音響監督は「こりゃ決まりだな」と、評価を記入するはずだった用紙と赤ペンを放り出した。
この後に演技する声優たちの瞳から闘志が消え、手から台本が落ちた。
そして、皆一様にこう思った。
まるで、本物の八坂美笛がそこにいるようだ――と。




