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011・私の日常が音を立てて壊れていく!

「あの……その……サ、サササ、サイン……ください……」


「……」


 空中を浮遊し、人語を解する星型の平面生物にサインを求められた声優は、有史以来何人いるのだろうか?


 九死に一生を得て、どうにかこうにか迎えた土曜日の朝。自宅のダイニングテーブルにつきながら、御柱七海は自問する。


「七海さ~ん。卵は目玉焼きがいいですか? それとも軽く混ぜたほうが? スクランブルエッグでもいいですよ~?」


 すぐ横のキッチンでは、昨夜七海を救い、そして殺そうとした男の子、門条空羽が、とても楽しそうに朝食を作っている。


「ふむ、予報によれば本日の天気は快晴なり、か。よし、護衛の任に支障なし」


 七海の隣では、誰も腰かけていない椅子の背凭れにとまる喋るカラスが、真剣な眼差しで今日の天気を確認している。


「はは……あはは……」


 七海の口から乾いた笑い声が漏れた。


 どれもこれも、七海の日常的な朝とはかけ離れすぎている。


 昨夜、後始末があるからと、空羽とショッピングモールで別れ、夢じゃないことを何度も何度も確認しつつ自宅に戻り、お風呂に入った後、急激な眠気に襲われ、後のことは明日考えようそうしようと結論を出し、オーディションの予習は諦め、怪我の手当てもそこそこにベッドに入り、寝て起きたらこの有様だ。


 よって七海はいまだにパジャマ姿であり、髪には寝癖がついている。正直、昨日知り合ったばかりの赤の他人に見せられるような姿ではない。ないのだが――そんなことを気にしている心の余裕は、今の七海にはなかった。


「七海さ~ん? あの、卵は~?」


 コンロの前で、右手にフライパンを、左手には卵を持った空羽が、再度尋ねてくる。七海は、小さく溜息を吐いてから声を発した。


「……スクランブルエッグで」


「はい、了解です」


 七海の返答を聞くと空羽は笑い、フライパンをコンロにかける。そして、十分に熱した後、左手だけで卵を割り、バター、牛乳と共に、卵黄と卵白をフライパンの中に投入した。


 フライパンの中の食材を菜箸でかき混ぜ、鼻歌交じりに手早く調理を進めていく空羽。見ていて清々しいほどに手際が良い。この家の住人である七海以上にここのキッチンを使いこなしているように見える。かなり料理が上手なのだろう。だが――


「あんなフライパン、私の家にあったかな?」


 どうにも見覚えがない。フライパンだけでなく、菜箸もだ。妙に新しくも見える。道中で購入したものを空羽が持ち込んだのだろうか――って、そんなことを考えてる場合じゃない!


「ああ! 私の日常が音を立てて壊れていく!」


 七海は頭を抱えながら叫び、テーブルに突っ伏した。 


「ほう、それは興味深いな。いったいどんな音だ?」


 聞いてきたのはカラス。その問いかけに、七海は少し悩んでから言葉を返した。


「……そうですね。例えるならば、険しい山道の途中、足場が突然崩れて、谷底に落ちていくかのような音です」


「そんな経験があるのか?」


「ええ、あります。アニメで何度も見ました。険しい山道でのお約束ですからね。谷底に落ちるキャラを、自分で演じたこともあります」


「ふむ、なるほど」


 納得がいったのか、七海の言葉に小さく頷くカラス。そんなカラスにどうしても聞いておきたいことがあり、七海は恐る恐る会話を続けた。


「えっと、それでですね……その、カラス……さん」


「アモンだ」


「え?」


「アモン。私の名前だ。憶えておけ」


「あ、はい。わかりました」


 アモン。それがこのカラスの名前らしい。


「それじゃあアモンさん。聞きたいことがあるんですけど――」


「何だ?」


「あの、どうやって私の住所を調べたんですか? あと、どうやってここに入ったかも教えていただけると……」


 七海はかなりの人気声優だ。当然だが、その個人情報は固く保護されている。簡単に調べられるものではない。


 ファンの人間が喉から手が出るほど欲する七海の個人情報。その中でもトップシークレットである住所を、空羽たちは一晩足らずで調べ上げ、しかもマンションのセキュリティを突破し、家の中にまで入っているのだ。気にならないはずがない。


 アモンは「ああ、それか」と呟いてから、七海の方に顔を向ける。次いで、淡々と喋り始めた。


「昨日の夜、私がお前の血液を採取したことは覚えているか? あのとき、私とお前は繋がったんだ。もっとも、今は『お前から私に』の一方通行だがな」


「つな……がった?」


 意味こそ正確にはわからなかったが、七海はアモンの言葉の一部を復唱する。


「そうだ。繋がった相手の居場所、状態の把握くらいは簡単だ。と言うか、居場所がわからなければ、一人で先に帰したりはしない」


「……」


「もう一つの質問だが、このマンションは想力的防衛が皆無だ。これでは我々は止められない。今朝使用した方法を含め、侵入方法を二十は挙げられるが――聞くか?」


「いえ、結構です」


 肩を落とした後で、諦めるように言葉を返す七海。方法うんぬんというより、その想力とやらがわからないのだ。素人相手に業界用語を使わないでほしいものである。


「そっか、どこにいるかわかっちゃうのか。それじゃ――」


「あの……サイン……」


 七海の「昨日別れた後、私が警察に駆け込んだりしたらどうなってました?」という言葉を遮り、サイン色紙とサインペンを持った星型の平面生物が、七海とアモンの間に入り込んできた。


「……」


 七海は無言で顔を動かし、星型の平面生物を視界から消し去る。


「サインを……」


 すると、星型の平面生物は空中を旋回し、七海の顔の真正面に回り込んだ。


 七海は「私は何も見ていない」とでも言いたげに、再び顔を動かす。


「お、お願いします……」


 だが、星型の平面生物は諦めない。三度目の正直だと、その体で七海の視界を埋め尽くした。


「……」


 しかし、それでも七海は口を開かない。また無言で顔を動かし、星型の平面生物を視界から排除。そして、排除しつつ強く思う。


 これだけは駄目だ――と。


 これは、この生物だけは認めちゃいけない。認めた瞬間、七海の日常と、十七年の歳月で作り上げた常識が、完全に崩壊する。


 声は、まあ普通だ。十歳ぐらいの、少しおどおどした女の子を連想させる。しかし、実際の容姿がその連想とはかけ離れ過ぎている。異形の殺人鬼や、喋るカラスどころの話じゃない。どう見ても地球上の生物とは思えない。


 黄金の五芒星。一言でこの生物を言い表せば、それが一番しっくりくる。大きさは一辺が一メートルくらいで、厚さは五センチくらいの、黄金の五芒星だ。


 真ん中に正五角形、その周りに二等辺三角形が五つ。それらがすべて黄金で作られた窓のようになっており、その六つの窓のうち、今は二つが開いていた。


 一つは真ん中、正五角形の窓。そこには巨大な眼球が収まっている。瞳の色は水色で、吸い込まれそうなほどに美しいのだが、容姿のせいでどうにも直視しづらい。


 もう一つは、七海から見て左側にある二等辺三角形の窓。その窓からは腕が一本だけ出ており、サイン色紙とサインペンを持っていた。腕の形は人間のそれに近いのだが、色は黒で半透明。


 そんな異形の生命体が空中に浮遊し、自由自在に飛び回っている。


「……」


 再び視界に入り込んできた星型の平面生物を、無言で視界から排除しつつ、七海は心の中で次の言葉を叫んだ。


 馬鹿げている!


 どんな生物が、どんなふざけた進化をしたらこんな生物が誕生するのだ? ヒトデか? 七海が知らないうちにヒトデは空を飛ぶようになり、人語を喋るようになったとでもいうのか?


「サイン……サインを……」


 何度無視されても星型の平面生物は諦めない。空中を疾駆、旋回し、七海の視界に入り込んでくる。


「……ふう」


 ずっと隣にいながらも、今まで七海と星型の平面生物のやり取りを静観していたアモンが、呆れるように溜息を吐いた。次いで、極めて面倒臭そうに口を開く。


「おい、七海。うざったいからサインくらい書いてやれ。それに、今お前が生きているのは、半分くらいはそいつのおかげなんだぞ」


「え?」


 アモンの声に反応し、そちらに顔を向ける七海。しかし、星型の平面生物が即座に七海の視界を遮ったので、七海にアモンの姿は見えていない。


「空羽が言っていただろう? 家族に『ベリーベリーベリー』の大ファンがいる。そいつのことだ。間接的にとはいえ命の恩人なんだ。サインくらい書いてやったらどうだ?」


「あ……」


 星形の平面生物の向こう側から聞こえてくるアモンの言葉に、小さく声を漏らす七海。次いで、目の前にある大きな瞳を直視した。


 大きな瞳はまるで鏡のように七海の顔を映し出す。だが、そこに映った七海の顔は歪んでおり、ユラユラと揺れていた。瞳が涙に濡れているのである。


 星型の平面生物は今にも泣きそうだった。その大きな瞳には、大粒の涙がいっぱいに湛えられている。


 家族に大ファンの子がいる。昨日の夜、空羽は確かにそう言って、殺したほうが何かと都合がいいはずの七海を、とりあえず見逃してくれた。そのファンがこの星型の平面生物なら、確かにアモンの言う通り、間接的に命の恩人ということになる。


「……わかりました」


 七海は意を決してこう口にし、サイン色紙とサインペンを手に取った。その途端、星型の平面生物の瞳に喜びの光が宿る。


 サインペンの蓋を取り、サイン色紙に近づける七海。そして、大切なことを聞いていなかったと顔を上げ、星型の平面生物に問いかけた。


「えっと、あなたのお名前は?」


「あ……その……デカラビア……です……」


「はい」


 デカラビア、それが星型の平面生物の名前らしい。


「デカラビアさんへ……っと」


 七海はお決まりの宛名を丁寧に書いた後、自分の名前を慣れた手つきでサイン色紙に書き上げる。次いで、今できる精一杯の笑顔を浮かべた後、サインとサインペンをデカラビアに向かって差し出した。


「どうぞ」


「あ、ありがとう、ございます!」


 黒い手でサイン色紙とサインペンを受け取り、感極まった声でデカラビアは礼を告げた。


 デカラビアはサイン色紙を大きな瞳の前へと動かし、凝視する。キラキラと輝くその瞳は、自分だけの宝物を見つめる少年少女のそれであった。


 そんなデカラビアに、七海は尋ねる。


「あの、よかったら『ベリーベリーベリー』蒼井あおいひとみ役って入れましょうか?」


 デカラビアが、声優御柱七海のファンではなく、アニメ『ベリーベリーベリー』のファンなら、そっちの方が嬉しいかな? そう思っての発言だった。が、デカラビアは星型の体を左右に動かし、否定の意思を示す。


「これで……いいです……」


「でも――」


「いいんです……『ベリーベリーベリー』だけじゃなくて……」


 デカラビアは、サインから七海へと瞳を動かし――


「御柱七海の大ファン……ですから……」


 恥ずかしそうに、だか、しっかりとそう言いきった。


 その言葉には、サインを書いてくれた七海への感謝と、あなたのことが大好きですという感情が、とても強く込められていた。


「……バカだな、私」


 七海は小さく呟いた。恥ずかしい気持ちでいっぱいだった。


 目の前にいる大切なファンを、あろうことか見た目で判断してしまった。プロにあるまじき愚行である。


「デカラビアさん」


 七海は、先程とはまるで違う自然な笑顔を浮かべ、目の前にあるデカラビアの体に優しく触れた。次いで、こう告げる。


「これからもがんばりますので、ぜひとも応援お願いします」


「あ、あう……」


 七海に笑いかけられると、デカラビアは恥ずかしそうに俯いてしまった。次いで、ものすごい速さで黒い腕を縮め、サインとサインペンを黄金の窓の中に収納する。そして――


「え……ええ!?」


 驚きの声を上げる七海。デカラビアの体がみるみる縮みはじめたのだ。まるで、幼い子供が大好きな人の前で体を縮こめるかのように。


 ほんの数秒で十分の一ぐらいの大きさになるデカラビア。その大きさは、先程体内に収納したサイン色紙より明らかに小さいのだが、外から見る分には問題ないようである。


 その後、デカラビアは小さくなった体で七海の周囲を飛び回った。逃げ出したいほど恥ずかしい。だが、そばから離れたくもない。そう言っているかのようだった。


 そんなデカラビアを、七海が困った顔で見つめていると――


「だから、うざったい」


 この言葉と共に横に振るわれたアモンの左翼に、デカラビアが勢いよく弾き飛ばされた。


 スパイラル回転しながら壁に激突し、二秒ほど壁に張りつくデカラビア。その後、力なくフローリングに落下し、そのまま動かなくなる。


 アモンは動かなくなったデカラビアを一瞥し、つまらなそうに鼻を鳴らした。そして、再びテレビへと視線を戻してしまう。


「え、えっと……」


 突然の事態に、目を白黒させる七海。


 席を立ち、デカラビアを介抱するべきだろうか? そう七海が悩んでいると――


「お待たせしました~」


 空羽が笑顔でキッチンから出てきた。両手で持っているトレーの上には、彼手製の料理が並んでいる。


 明るい声と共に朝食をダイニングテーブルに並べていく空羽。立ち上がるタイミングを失った七海は、これから食べることになる朝食に目を落とす。

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