表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

まるい

作者: KUZUAN餅

 ガードレールが怖い。

 最初にそう感じたのは、毎朝通学途中にある神社に参拝に行く恋人を、社の前で待っている時だった。

 歩行者専用道路と車両専用道路を区切る、白く硬質で平たい素材でできた防護柵、それが地面と平行にどこまでもどこまでも、継ぎ足しながら県境まで続いている、その物体。

 正確に言うと、ガードレールそのものではなく、その縁の部分。空の青と、物体そのものの白の部分の間。黒でもない透明でもないその間。

 それが自らの眼球にこすれる様が頭から離れなくて、怖い。

 痛いのか、もしくはそれをも超える苦しみを感じることになるのだろうか。

 想像が妄想に移り変わっていくのに俊二は気づき、思わず胸ポケットにしまっていた眼鏡をかけた。目はレンズによって防護された。視力が矯正されることでガードレールの白色はよりくっきりと俊二に見えるようになったが、度数の高いレンズの分厚いガラス越しに、ガードレールが突如眼球に迫ってきて耐え難い苦痛をもたらすというイメージからは一時的に退避することができた。

 疲れているのだろうか。

 俊二は思う。しかし、そんなことはない、と即座に否定する。

 女子バレーボール部の主将であり俊二の恋人でもある山倉帆乃香は、暗記科目のテスト前夜は絶対に寝ないのだそうだ。彼女は、普段放課後だけでなく休日も起きている全ての時間をバレーボールに捧げているにもかかわらず、高校生活の二年の間の定期テストの総合成績で、一度も学年二十位以下に落ちたことがない。さぞかし有力なテスト範囲の情報網をお持ちであろうと勘ぐって話を聞いてみたところによると、一度寝てしまうと記憶がリセットされてしまうため、どんなに眠くなっても我慢し、一夜で飲み込み、難解な公式、単語、記号を全て解答用紙に吐き出すつもりでテストに挑むのだそうだ。

「自分の中に溜め込んで溜め込んでドロドロのぐっちゃぐっちゃになったものを、真っ白い解答用紙げはーって吐き出すの。もう、快感。」

目を輝かせてそう口にする山倉の姿を、周りのクラスメイト達は呆れたように、しかし愛らしい小動物を慈しむような顔で笑っていた。俊二のことを羨ましいとしきりに形容するクラスメイトに、羞恥心を覚えながらも訊いてみたことがある。山倉のその様子は『天然』という単語で言い表されるそうで、どうやらその『天然』な生き物は、周りの人間を和ませるらしい。恋愛関係になった直後、俊二は山倉の勉強における秘策をしつこく尋ねてみたのだが、聞き出したそのどれもこもが俊二には腑に落ちないものばかりで、どこかにミソが隠されていると信じて熱心に聞くふりをするのも、時間が経つにつれ飽きてしまった。質問する都度返される『天然』トークに対しての「気色わり。」という率直な感想はいつも必死に飲み込んでおいたが、毎回の定期テストの順位表において、やはり瞬発力のある山倉は、努力型の俊二の手の届かない高い位置から見下ろしているのだった。

 こんなの疲れているうちに入らない。

 頭を振った勢いでずり落ちた眼鏡をかけ直して、俊二は思う。

 「『疲れている』というのは、逃げの理由に過ぎない。」

どこかで聞いた格言だ。例えば朝七時に家を出て一一時過ぎに帰宅し、靴を脱いで玄関に上がったところにたまたま虫かごの外に出ていたカブトムシを踏みつけて死亡させてしまった時などに、『疲れている』は理由として適用できる。『疲れている』は、大人の便利な常套句だ。この世の事故や事件の全ての理由に活用できる。あの時の僕は子供ですらない、小学三年生のガキだった。子供は可愛らしくなくてはいけない。だから全力で泣き叫び、疲れていた父を更に激怒させて鼻血が出るまで殴られた。高校三年生になった現在は、ガキではないが子供だ。勉強することができる。大人に可愛がられることができる。だが一文すら稼げない子供。価値のない子供。『疲れている』は子供が勉強のために一日徹夜したくらいで用いていいような安い言葉ではない。

「僕は疲れてない。僕は疲れていない。」

俊二は、今日もう何度口にしたかわからないその言葉を、口の中で反芻する。


「お待たせ。俊くん。」

 石段から、山倉帆乃香が勢いよく駆け下りてくる。学校の教師陣にもクラスメイトにも評判の良い帆乃香の明るく高い声質は、だが人生三日目の徹夜明けを経験している真っ最中である俊二には、耳障りにしか感じられない。

「もうちょっと静かに喋れよ。」

 耳をふさぐ仕草を見せ、嫌悪感を隠そうともせずに抗議する。

「ごめんごめん。俊ちゃん寝てなくて疲れてるんだよね。」

「うるさいな。疲れてないよ。」

「嘘。俊ちゃん目の下真っ黒だもん!」

 山倉は高校三年生に上がってからは、文系私立大学受験対策に特化したクラスに所属している。その上、得意のスポーツでの推薦入試を狙っている。そのため、ほぼ全科目の勉強が必要な国公立大学受験クラスの俊二と違って、山倉の暗記科目のテストにかかる比重は少ない。赤点を取りさえしなければ良いのだ。徹夜をする必要はほぼなくなったといえる。

「疲れてる時は疲れてるって認めなきゃ。まだ六月だよ。本番まで持たないよ。」

 明るい表情で言う山倉。

 うるさい。

 だが、また同じように返されて、黄色い声に頭を揺さぶられるのは避けたい。

「焦ることないって。」

「・・・お前はいいよな。」

 口から吐き出される言葉が自然に厭味になる。正直に言ってしまえば、俊二は山倉帆乃香のことが好きではない。むしろ嫌っている。スポーツ万能で成績も悪くはないがキャンキャン騒ぐだけの女子生徒。同じ幼稚園に通っている頃から俊二が心の中でそのような評価の対象であった彼女が、なぜ中学三年の卒業式の翌日に愛の告白をしてきたのか、彼には未だに理解できていない。理由を尋ねても、彼女は

「俊くんは、優しいから。」

とはにかんで答えるばかりで、真相は結局のところわかっていない。クラスメイトに付き合うまでのいきさつを尋ねられる際、俊二はいつもそのように返答し、そして毎回同じように「いーなー!!チョーうっらやましい!!」と興奮気味な答えが返されるのであるが、このことも俊二の理解には及んでいない。

一体どこが羨ましいんだろう。このバカ女の彼氏って事実のどこが。

毎回、そんな感想を抱いては口には出さず、心の奥底にしまう。

そのような侮蔑の対象である山倉帆乃香との男女交際をなぜ彼が引き受けたのかという疑問への回答はただひとつ、内申点である。中学時代の俊二の成績はトップクラスで良く、高校入試の筆記試験は問題なく通過することができるだろうと、塾講師は太鼓判を押していたが、問題は内申点の低さであった。近眼で目つきが悪く、大人しい性格である俊二はクラスでも目立たない存在であり、三年生の時に同じクラスになったテストの点は取れないが授業中の勉強意欲のアピールが上手な数人の同級生に、内申点の多くを振り分けられてしまった。絶対評価制を採用しているとはいえ、初めて第三学年のクラス担任を受け持った若い教師はおそらく困惑したのであろう。どんぐりの背比べではあるがやはり数人は低い成績をつけねばなるまい。そんな意志が働かれたように、内申点を記載した成績表を見て、俊二はぼんやりと思ったのだった。ところで、幼馴染の中学校の良い評判は、他の中学校に通っていた俊二の耳にも届いていた。おそらく高校でも良い意味で目立つことになるであろう元気溌剌な彼女の彼氏というポジションは、高校教員の点ける内申点に、無意識下であるとはいえ確実にプラスに作用することであろう、とふんでのことだった。

「今日のテストが終わったら無罪放免だね。ね、どこ遊びに行く?」

 俊二の嫌味も聞いていない素振りで、横並びで歩く山倉は声の調子を更に上げて訊く。

「行かないよ。テスト終わったらそのまま塾行って自己採点。」

「えーつまんない。せっかく主将権限で練習休みにしたのに。」

 頭を抱える仕草をする山倉。本当にわざとらしい、と心の中で吐き捨てる。

「お前こそ大丈夫なのかよ。テスト終わっても受験生だろ。」

「それは大丈夫!そのために、こうやって朝練が無いテスト期間は毎日学校行く前にお百度参りしてるんじゃない。」

「・・・・・・。」

 僕はそんな下らない理由の神頼みのために、毎朝あと五つは英単語を覚えられる時間を割いているのか。

「ばかばかしい。」

 声に出していた。心の中にしまいこめなかった。

「あっ待ってっきゃっ」

 背後で小さく悲鳴が上がった。俊二が振り返ると、山倉がうつぶせで倒れていた。

「・・・なにやってんの。」

「あはは。何もないとこで転んじゃった。」

 運動神経が良いくせに、山倉は道端でよくぶつかったり転んだりする。小学生の頃、何が脳波に異常があるのではないかと母親に疑われて一時期脳外科に通ったそうだが、特に変わった点は見られなかったそうだ。一緒に入ったファミリーレストランの自動ドアに衝突して額から血を流しながらに笑ってそのような話をする山倉に、

「その医者、ヤブだったんじゃない?」と半ば本気で返したものだったが、その時も山倉は「えへへ。そうかも。」と言って舌を出して見せただけだった。

「ったっく」

 このまま見捨てて行っても良かったが、万が一教員やクラスメイトに見られてはまずい。倒れている恋人を見捨ててすたすたと学校へ向かう非情な高校生との烙印を押されてしまう。

「ほら」

 俊二は手を差し出す。

「ありがと。」

 手を取ろうとする山倉。

 だが、

「うわっ」

 山倉が手を取ろうとした瞬間、俊二は後方にのけぞり、尻餅をつく格好になった。山倉の伸ばされた手が、空を切る。

「どうしたの?俊くん?」

 俊二の普段見せない憔悴した表情に、山倉も怪訝な顔をする。

 しばらくぼんやりと宙を見つめていた俊二であったが、自力で立ち上がった山倉が顔を覗き込もうとする気配を感じて、一瞬身震いがした。

「・・・なんでもないよ。」

 震えをごまかすために、視線を逸らし、立ち上がって学校の方へ走り出した。追いかけてくる山倉の甲高い声がするが無視する。

 気づかれるわけにはいかなかった。

 山倉を助け起こすために近づいた山倉のベリーショートの頭の、頭皮からハリネズミのように逆立った短く切り揃えられた毛髪の群れを間近で見た瞬間、凄まじい悪寒が全身を駆け巡ったことに。

 髪の毛が怖い。

そう思ってしまったことに。

 


 紙が怖い。

 学校に到着して山倉と別れ、テスト開始までまだ十五分程度時間があることを確認した俊二は、使いこんでぼろぼろになった英語の教科書を取り出して、出題範囲を復習する。だが、なんだか落ち着かない。胸騒ぎがする。鼓動も激しくなってきたように思う。

 これが徹夜の弊害だろうか。そうであれば、こんなもの体調不良のうちに入らない。単語帳を置き、テスト開始まで机に突っ伏して目を閉じていようかとも考えたが、それをしてしまうとそのまま眠り込んでしまうかもしれない。そうなれば今までの苦労が水の泡だ。体調の回復を諦めて、引き続き手元の英文を眺める。頭に入ってこない。復習は諦めたが何か見ていないと寝てしまいそうだ。アルファベットを必死に追う。ページをめくろうとしたその時、

「つっ」

 人差し指に鋭い痛みが走った。見ると指先に見覚えのない短い線が入り、そこからじわっと血が滲みだしているところだった。

 紙で指を切った。ただそれだけの、他愛もないささいな事故であるはずなのだが、この時の俊二は動揺した。小刻みに右手が震えだした。

 紙は切れる。紙は切れる。紙は切れる。

 当たり前の事実が頭を駆け巡った。

 まずい。

 咄嗟に瞼をギュッと強く閉じ、指から血が滴り落ちるのも構わず、眼鏡の両の弦を力いっぱい握り、鼻に当たるパッドが皮膚に食い込まんばかりに押し込んだ。

 今朝ガードレールを見て脳裏に浮かんだような、目を傷つけられる妄想が始まる前に、その前兆を払拭してしまわねば。

 一限目のテストの開始五分前に問題用紙の配布が始まり、前の席に座る藤野に「おい」と声をかけられるまで、俊二はずっと眼鏡を押さえて固まっていた。



 地獄だ。

 俊二は思った。

 ヤマが外れたとか覚えたはずの公式が思い出せなかったなどテストの内容自体の問題ではない。

とにかく、怖いのだ。

 紙が。

 振り返った際に俊二の右手の人差し指が切れていることに気付いた藤野は、所属する剣道部の練習の際に頻繁に使うため常備しているという絆創膏を無言で寄越した。俊二は小さく礼を言って、それを指に巻こうとするが、そこでも鋭い痛みのイメージが脳裏をかすめた。

絆創膏の裏面に添付されている紙が怖い。

頭からその妄想を振り払おうとするも、一度浮かんでしまったものはなかなか頭から消え去ってくれない。血がぼたぼたと人差し指から流れ落ち、問題用紙を濡らす。早く巻かなきゃ。だが指が動かない。やがてテストが開始して数分経過しても問題用紙をめくろうとせず絆創膏を手に硬直している俊二の姿をテストの監督教員である物理の高城が見つけ、呆れたように瞬時の指に絆創膏を巻き、血まみれになった問題用紙を新しいものと交換して、教卓に去っていった。なんら信仰する宗教を持たない俊二にすら神の存在を信じさせた場面であったが、高城が立ち去って机に目を落とした瞬間、希望は一瞬で消え失せた。「ヒッ」と小さく声をあげてしまった。藤野が反射的に振り返ったがカンニングの恐れを感じたのか、すぐに答案用紙に向き直った。問題用紙が裏返しなのだ。解答用紙も同じく裏返しのまま重ねられている。

テストが始まっているのになぜ表に向けて行かない!

 胸の中に怒りがふつふつと沸き起こったが、時間を浪費している場合ではない。テスト中だ。用紙の端をつまむ行為は、どうしても切られるイメージに繋がる恐れがある。俊二はなるべく音を立てないように注意しながらも、息を大きく吸い込み、意を決した。両手の平を問題用紙に押し付け、ゲームセンターにあるクレーンゲームの要領で用紙を挟んで持ち上げ、ひっくり返した。二枚の用紙は皺だらけになりながらも、はらはらと手からこぼれ落ち、どちらも表面を向けて着地した。

「やった」

「松江、うるさい。」

 おもわず歓喜の声をあげてしまった俊二を、教壇から高城が睨んでいた。

「・・・失礼しました。」

 用紙を裏面にして置いていったお前が悪いんじゃないか。

 納得いかない気持ちを押さえ込んで、俊二は問題用紙に向きあった。時計を見るとテスト開始から既に六分は経過していた。落ち着けと、自分に言い聞かせる。六分なんてまだまだ取り戻せる時間だ。落ち着け。慌てて名前を記入しようとシャープペンシルの先を記名欄に持っていく。

 だがしかし。そこでまた手が止まった。

「・・・・・・。」

 名前を書く欄として囲われた黒い縁取りの長方形の、直角部分が、迫ってくるような恐怖を感じた。

 こめかみに一筋の汗が流れた。

 角が怖い。



 その日受けたテストの自己採点結果は散々だった。

 結局、名前欄を囲う黒い線が作る直角に怯え、名前はテスト終了のチャイムの十秒前に殴り書きした。それまでのテストでは、どんなに時間が足りなくても、判読出来るか疑われるような文字を書いて解答用紙を汚すようなみっともないことはしなかった。しかし、今回はどうしても出来なかった。震えを抑えようとする手に力が入ってしまい、用紙に穴が空いてしまう始末だった。指を使わずに手のひらで後ろの席の生徒の解答用紙の束を受け取り、前の藤野に渡す。そうしながら、俊二は、なにかがおかしい、と自分でも感じていた。不安になった。だがしかし、疲れていることを認めたくはなかった。二宮金次郎は薪を背負いながら教科書を読んでいた。北野武は夜間、街灯の下で勉強していた。父こと松江尚史は高校一年生時に三年生までの教科書を書店で取り寄せて一字一句丸暗記した。山倉帆乃香に至っては「授業時間は睡眠時間」などと豪語するくせに部活が強制的に休みになるテスト前の七日間だけの勉強で一部の科目は俊二よりも抜群にいい点数を取る。毎日四時間の予習復習を欠かさない俊二よりも、だ。

 疲れている。その言葉を認めようとすると、頭の中で二宮金次郎が睨んでくる気がする、北野武が怒鳴り込んでくるような気がする、松江尚史が鞄を投げつけてくるような気がする、山倉帆乃香が高笑いをしながら見下ろしてくる気がする。実際には二宮金次郎はすでにこの世のものではないのだから睨んでくる術はないし、北野武に出会う人脈筋など持ち合わせていないし、松江尚史は浮気相手の元から帰ってくる気配はない。ありうるとすれば山倉帆乃香のケースである。山倉は中学生の時からバレーボール部に所属しているだけあって身長が高く、俊二が山倉と目を合わそうとすると、どうしても俊二が上目遣いにならなければならない。山倉側から見たそんな情けない姿の自分を想像すると吐き気がするので、彼女と話す時はできるだけ横並びになるロケーションを選ぶようにしている。そうすれば、こちらがあまり目を合わそうとしなくても、不審がられない。

 翌週の月曜日の二限目に返却された英語はそれでも元々得意教科であったこともあって八五点、三限の現代国語は問題が易しかったことが幸いで八十点。満足はできないものの赤点でないことに安堵した俊二であったが、翌日の一限目に返却された世界史は三十点。

 点数を見た時、俊二は明らかな逆恨みの、だが確かな憎悪の感情が自身の心の中に芽生えるのがわかった。

高い高い山の頂上から、山倉がいつもの微笑を浮かべてこちらを見ているような気がした。



5.

「俊くん、世界史のテストどうだった?」

 テスト週間の翌々週の日曜日、二週間に一度設けられている女子バレーボール部の休日に、俊二は山倉からデートの誘いを受け、山倉が以前から行きたがっていたカフェのテーブル席に向かい合って座っている。

「・・・別に。」

 訊いて来るってことは、お前は良かったんだろう。

 そんな暴言をぶつけてしまいそうになるが、こらえる。もしも彼女にそんな言葉を浴びせかけた直後苦笑などされてしまえば、僻みと捉えられたと反射的に激昂してしまいかねない。

 英語のテストの日、二限目世界史には、三限目は現代国語のテストがあり、何事もないように装って、普通にテストを受けた。だが、やはり紙や角への恐怖心は収まらず、そればかりか、シャープペンシルの芯、消しゴムの角、消しかすの尖端、ついには現代国語という並びの【現】の字の【八】の字に似た部分の、はねている先端部分が、目を直撃してくるように思えてしまい、俊二はその度に瞼を閉じてイメージが過ぎ去っていくのを待っているしかなかった。そのため、幾度も幾度も集中が中断され、思考を最初からやり直さねばならなくなった。

 フォークでショートケーキを丁寧に切り分けて、自らの口に運ぶ。山倉帆乃香の可憐なその動作を間近で見られる立場すらも、同じクラスの男子生徒には羨望の眼差しを向けられていると理解はしているものの、やはり鬱陶しい。山倉の存在はもちろんのこと、その手に光るフォークが、俊二を一層嫌な気にさせる。近頃は箸の先端を直視するだけでも身震いしてしまう俊二には、フォークを器用に扱う山倉の前に座らされているという現状は拷問にすら思えた。

カフェで席についてから、山倉はひとしきりなにか話しているが、俊二は適当に相槌を打ちながらも話の内容は全く聞いていない。代わりに、無言でスマートフォンにデータで落とした参考書の文面を目で追う。

 あのテストの日から、紙への恐怖心は薄れることなく、むしろ日に日に強まっている。そのため、それまで使っていた教科書や参考書などを忌避するようになった。出来る限り参考書のデータをタブレット端末に移しそれを使って勉強をしている。授業中、一度頭の固い年配の教師に、紙の教科書を使わないとは何事かと怒鳴られてからはできるだけ教科書を開いてはいるものの、やはり教科書の中身ではなく表面への苦痛の概念が迫ってくるイメージは拭えす、机の下にタブレット端末を隠し、それを見ながらほとんどの授業を受けている。

 当然ながら、その恐怖心について、誰にも打ち明けてはいない。二年前から帰宅しない父や、父に実質捨てられてからあまり深い話をしなくなった母にも、内申点で争っているクラスメイトにも。勿論、山倉帆乃香にも、である。女になど話してしまえば、どこからに伝わってしまうかわかったものではない。万が一噂が巡り巡って親や担任に知れ渡り、神経科や心療内科への通院など進められてしまったものなら、と妄想を巡らせて、俊二はひとりでぞっとする。

「はい、あーん」

 勝手に一人でケラケラ笑っている声が、急に猫なで声に変わったのに気づき、山倉の方を振り向くと、切り分けられたショートケーキをフォークに載せて、山倉が俊二の眼前に差し出していた。

「ぎゃっ」

 おもわずその手を振り落としていた。カランという、金属製のフォークが床に落ちる音が聞こえた。木製の椅子が倒れる音がした。反射的に椅子を蹴飛ばして後ずさりしていた。

 フォークが怖い。

 眼球が刺される。

 椅子の足が怖い。

 眼球が潰される。

 山倉の驚いた表情を見て我に返り、周りを見渡すと、カフェの客全員が、山倉と同じような表情でこちらに視線を向けており、なかにはひそひそと話をしている者もいた。

 視線が怖い。

 目が射抜かれる。

「ちゃんと寝てる?」

 心配そうに目を覗き込む山倉の態度にも、苛立たされる。

「寝てるよ。」

 ぶっきらぼうに返す。

「本当?何時間?」

「六時間くらい。」

 実際のところはその半分寝れているかも怪しい。

「みじかっ。人間最低八時間は寝ないと身体壊しちゃうんだよ。」

「受験生がそんなに寝られるかよ。」

 お前だけだ。受験生のくせに家で八時間寝てさらに授業時間も睡眠にあてて部活のためだけに生きているなんて奴は。

 柔和な笑みを浮かべ、諭すような口調で俊二に尋ねる、山倉。

「最近、俊くんずっと眼鏡かけてるよね。」

 触れられたくないことを訊かれて、俊二は山倉を睨む。

「なにか悪い?」

 眼鏡を常用していた小学生の時にガリ勉とあだ名をつけられていじめを受けていたせいで、中学校にあがってからは出来る限り裸眼で通し、目を酷使した直後くらいにしか用いなかったものである。しかし目に映るものに次々と恐怖心を煽られるようになった現在、防護用としてかけている。

「前までは、長い時間本読んだ後とか、目が疲れた時しかかけてなかったじゃん。」

「勉強のしすぎで見えづらくなったんだよ。」

「やっぱり!勉強のしすぎで身体壊すなんて、良くない証拠だよ。」

俊二はこれみよがしに「はあ」と大きく息を吐く。

良くない証拠なんて、どういう理論だよ、それ。

真剣に取り合うのをやめ、落ち着きを取り戻した風を装って椅子を立て直し、着席を試みる。だが出来ない。足が動かない。両足が細かく震えている。仕方なくその場に立ったままの姿勢で話を続ける。

早く着席しなければ。そうでなければこの視線から逃れられない。

怖い。

怖い。

怖い。

山倉は、俊二のため息を「ばれたか」という降参した意で受け取ったらしい。

「よし。俊くん。一緒に健康になろう。」

 そう言って、突然俊二の腕をとって立ち上がった。

「な、なにすんだよ。」

 山倉の手を振り払おうとするも、女子であるとはいえ毎日筋力トレーニングを欠かさない山倉の腕力は相当なもので、授業の体育以外では全く運動をしない俊二はその力に抗えなかった。



6.

 カフェを出た俊二は、うつむいて目を閉じたまま、山倉に半ば引きづられるようにしてついていった。

 女子に、しかも心の中で蔑んでいる恋人にされるがままになっている現状は、俊二の高い自尊心を自ら虐げているようなものであったが、顔を上げて姿勢を立て直そうとすれば何かが視界に入る。

 ガードレール、岩、交通標識、標識の明朝体の角、ガラス製の扉。

 擦れる、剃られる、擦り切られる、突かれる、刺される。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

「着いたよ!」

 腕を引かれるままについてきた俊二は元気な報告によって我に返った。随分歩かされたように思う。坂を越え、降り、タクシーに押し込まれ、引きずり降ろされ、また歩き、ドアをくぐって、エレベーターに乗り、扉を開け、入った。

「準備してくるから、待っててね!」

そう言って、俊二を残して山倉は消えた。

しばらくうつむいたまま直立不動で、しかし目はしっかりと閉じたまま立ち尽くしていた俊二であった。

「お待たせ!」

帰ってきたと思われる山倉の気配がする方向に向き直った。自分のみっともない姿を晒してしまった憂さ晴らしに、罵倒してやろうと思った。こんな勢い任せの馬鹿女これっきりだ。そんな言葉を投げつけてやろうと思った。

意を決して、目を開いた。

山倉は、全裸だった。

場所は、ラブホテルの個室だった。

沸き起こった感情は、悔しい、ではない。

恥ずかしい、でもない。

俊二は、まともに直視してしまった。

バレーボールで鍛えて無駄な脂肪のない、その体を。

筋肉質ではあるものの、肋骨や鎖骨、腰骨が浮き出た痩せたその体を。

ごつごつと骨の浮き出た、その身体を。

「・・・・・・。」

 尖っている。

 身体のあちこちが、尖っている。

 肩が、肘が、指が、腰が、膝が、足が。

 尖っている。

 刺さる。

 俊二は絶句した。

 脈拍が早くなる。鼓動の音が大きくなる。息が上がってくる。

苦しい。

だが、それより。

「・・・怖い。」

「俊くん?見とれちゃった?」

 俊二が震えているのにも気づかず、はにかんだ笑みを浮かべて、山倉が俊二の方に一歩踏み出した。

 俊二より背の高い山倉は、姿勢をかがめて、迫る。

 ピンク色の健康的な唇が、俊二の青白い唇に、迫る。

 だが、俊二にはそうは捉えられなかった。

 接近してくるのは、唇ではない。

 針だ。

針の山だ。

全身のあらゆる部位に様々な種類の針が搭載された、人の形をした、凶器だ。

 刺される。

 刺し殺される。

 メッタ刺しにされる。

綺麗に切り揃えられた山倉帆乃香のベリーショートの頭は、恐怖にとらわれた俊二にとって、快活な少女を形作る装飾品ではなく、ただの凶器そのものであった。

俊二は目を剥いた。

絶叫した。



走った。

走った。

走った。

山倉帆乃香を突き飛ばして部屋を出て、エレベーターのボタンを壊れんばかりに拳で何度も何度も殴り、到着したエレベーターの壁を何度も何度も殴った。エレベーターが一階到着して扉が開くと同時に正面でじゃれあっていたカップルを突き飛ばし、全速力でホテルから脱出した。

どこをどう行っているかわからない。四方八方に走る。止まったら襲われる。何にかはわからない。ただ、傷つけられる。

助けを求めたい。

だが、言葉が出ない。

「殺して。」

大声でそう口にしそうになり、慌てて両手で口を塞ぎ、喉元に押し返す。

「殺してください。」

 頭に浮かぶのはその一言のみで、それは本当に今俊二が求めている施しではない。

「殺して。」

 今切実に求めているものを表す語彙が、どうしてだかわからないが頭に浮かばない。

「殺してくれ。」

この世のものでない何かに憑かれているのか。

そう思い、ショーウィンドウに映る自分の姿を確認しようとしたが、ガラスに目を向けた瞬間、ガラスが破裂して襲いかかってくるイメージに全身の毛が逆立つ。すぐに前に向き直る。

ふと一瞬力が抜けて、民家からゴミ出しに出てきた中年の女性と目が合った。

 手にしたあのゴミ袋の中には包丁が詰まっている。

 公園から飛び出してきた子供と目が合った。

 手にしたあのボールには短いカッターナイフの刃が幾つも仕込まれている。

 後頭部の禿げた老人と目が合った。

 あのだぶついたももひきのポケットには果物ナイフが入っている。

 老人に手綱を握られた犬と目が合った。

 首輪の金具は鋭い縫い針の集合で作られている。

「殺して。」「殺して。」「殺して。」「殺して。」「殺して。」

腹の底から這い出てくる感情は、もはや両手で口を塞ぐ程度では抑えきれなくなってきた。手の位置を下げ、今度は喉仏を押さえ込む。

そうか。

自分で自分の首を絞めながら走って、ようやく俊二は思い至る。

この恐怖からは死ぬことでしか逃げられない。

「―――――――――――――――!!!」

叫ぶ。

しかしやはり声は出ない。

 しばらく口や喉に手を回していたため、眼鏡がずれてきた。弦を両手で押さえる。鼻パッドが皮膚に食い込んで痛むが、眼球が傷つけられるよりかは何十倍もましだ。力一杯精一杯押さえる。

 眼鏡を押さえて眼球を防護し、意に反する殺害の請願の言葉を遮断するために喉仏を締め上げる動作を繰り返しながら、俊二は四方八方に当ても無く走る。

 そうしているうちに、『松江』の字が目に入った。見慣れた俊二の自宅の表札だ。

 すぐにドアノブに左手を伸ばした。【松】の片仮名の【ム】の部分二画の接合部が形作る角が目に飛び込んできたので、その角度が目を刺してくる前に、ドアノブに飛びついた。。

 目が。目が。目が。

 右手は眼鏡の弦を強く握っている。

 ドアは開かない。

 鍵を開けるという概念を忘れて、一心にドアノブを何度も何度も引っ張る。

すると一分も経たないうちに、母が「ちょっと何ごとー?」と気だるげにドアに近づいてきたのがわかった。それでも意識が恐怖で埋め尽くされている俊二にはドアノブから手を離すという発想が浮かばない。何度も何度もドアノブを引っ張るものであるから、母の開錠作業もうまくいかない。

数分後、やっとのことでドアが開いた。

母を無視して二階の自室へと階段を駆け上る。

乱暴にドアを開け、入り、閉める。その衝撃で本棚にある参考書が床に落ちたが拾わない。拾えない。敷きっぱなしにしてあった布団に倒れこむ。倒れ込んだ布団と俊二の身体に挟まれた眼鏡のレンズがその拍子に割れた。

パリンと、音がしたのを聞いた。

「えあいぎあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 やっと、声が出た。

 しかし声は布団に吸収され、大した音量にはならなかった。

 眠りに落ちていく中で、俊二はドア越しに母がノックする音と、

「俊二、体調悪いの?言ってくれなきゃわからないでしょー?」

 と間延びした母の声を聞いた。



7.

俊二が山倉とのデートから半狂乱の状態で帰宅した七月一週目の日曜日から、六ヶ月が経過した。

半年間、俊二は家から一歩も外に出ていない。

精神的な防御壁になっていた眼鏡のレンズは割れて着用不可能になってしまった。目に映るものすべてに傷つけられる恐怖を抱くようになってしまった俊二には、通学はおろか一切の外出ができなくなってしまった。


      *


自室に飛び込んで気を失って、目が覚めると日当たりの良いはずの部屋は真っ暗になっていた。一体何時間寝てしまっていたのか確認したいが、意志に反して身体は動かない。掛け布団の上に横たわったままの状態で、身体のどの部位にも力が入らない。力の入れ方がわからない。なんとか思考をフルに活用して指の扱い方を思い出し、ボケットに入れていたはずのスマートフォンを引っ張り出そうと志す。太もものあたりを弄る。自分の手であるというのに、まるで百足が這い回っているようなうねうねとした気味の悪い生物に這いずり回られているような感触がし、軽く吐き気を催すが我慢する。ようやくポケットのスマートフォンに行き着く。そうだ、本体を掴んで、目の高さまで引き揚げるんだ。心の中で強く命令する。しかし、自らの指がスマートフォンの角に当たった瞬間に、俊二は硬直した。

角は角だけど、まるみを帯びた角じゃないか。こんななもの角のうちにも入らない。

 冷静に自らに何度も言い聞かせるが、身体は言う事を聞かない。次第に汗がじわじわと湧いてきた。

「なんなんだよ・・・。」

 俊二は布団に倒れ込んだそのままの姿勢で眠ることもできず、それから起床時間になっても起きてこない息子を心配した母が声をかけに来るまで、六時間を過ごしたのだった。


     *


 俊二は起きている時間のほとんどを、布団の中で過ごしている。

俗に言う、ひきこもりである。

 目が覚めると、長年の習慣から、最初に枕元に置いてあるスマートフォンに無意識に手を伸ばすが、前述のとおり、本体の角を意識してしまい、まず身体が硬直する。次に、窓の外の明るさに自然と視線が移動するが、突如ガラスが炸裂し、破片が歯向かってきそうなイメージが頭の中に広がり、全身の毛穴が開く。最後には、母がノックしてからドアを開け、心配そうに声をかけながら朝食替わりのおにぎりやパンと、水の入ったコップ、薬を置いてできるだけ物音を立てないようにして出て行く。俊二が部屋にひきこもり始めた一日目、二日目は勉強疲れでも出たのだろうと解釈してほうっておいた母も、三日目には息子になんらかの異変が起きていると勘づいた。ここは親の手腕が問われている。最初に叱咤して息子に現実を思い知らせ、直後に優しい声に変え、思春期の息子の相談にでも乗ってやろうと画策した。意気揚々とノックなしで「あんたなにだらけてんの!」などと大声で部屋に突撃し、その謀略は瞬間、失敗に終わった。俊二には、二日ぶりに見る愛情あふれる母の姿よりも先に、その女性が左手に持ったお盆の上に載った、おにぎりを二つ載せた陶器製の白い皿が目に入った。

 割れる。砕ける。刺さる。

 妄想が瞬く間に膨らむ。

 自分の悲鳴を聞いて、声が出るようになったことに安堵した記憶はある。それから夕暮れ時に布団の上で仰向けの状態で目を覚ますまでの数時間何があったのかもしくはなかったのか、俊二には全く思い出せない。その日の晩、今度は何も持たずに部屋を再訪した母に、記憶から抜け落ちた数時間の間に自分は何かしなかったかを尋ねたが、母は「ごめんね」と涙ぐんで逃げるように部屋を後にした。母の小さな背中を見送った後、尿意を感じ、便所へ行こうと立ち上がって布団の敷いてあるスペースから一歩踏み出すと、足の裏に鋭い痛みを感じた。見ると、靴下越しに足の裏を刺した小さな白い破片が見えた。そこでまた記憶が途切れている。

   *

 朝七時、俊二の母である松江良美が部屋の扉をノックし、生活必需品を置いていく。息子の気持ちを落ち着けるために、母は思考に思考を重ねた。息子の部屋に持っていくためだけに、割れる可能性が皆無とはいえないが少なくとも陶器やガラスよりは破損の恐れが少ないプラスチック製の食器を数組購入した。さらにそれらに三重にラップを巻いて使用する。コップも同様である。朝食の時間帯に持ち込む食料は決まっておにぎりか、包装をを除いたクリームパンである。昼は勤めに出ているため毎日おにぎりを準備するのは手間がかかるが、食べられる物の種類が極端に限られてしまった息子に出来るだけ栄養を摂らせたいと思えば、無理難題ではなかった。俊二の様子や時折彼がこぼす僅かな情報によると、俊二は尖ったものが全く受け付けなくなってしまったようだった。それも一般人が一目見ただけでは尖っていると認識出来ないようなものにまでその鋭さを誰よりも早く察知し、恐れを抱くようになってしまったようであった。そのため、ナイフを使うことができないのは言うまでもなくフォーク、箸といった先の尖ったもの、果てはスプーンの先が眼球に擦れるとまで言って頭を抱えた。だから、お茶碗に炊きたての白飯をついでやることは出来ない。飽きるだろうかと一度食パンに変えてみたら、食パンの耳を指差し、「端が、端が」と言って目を押さえて布団を被ってしまった。おにぎりの種類にも気を遣う。おにぎりの外側に一枚だけ海苔を巻いて献上したところ、嫌なものを見たようにすぐ視線を布団に落とし、「かど・・・」と言って白飯と黒い海苔の境目を指さされた際には「あてつけか」「お母さんだって忙しいのに」などと反射的に返してしまいそうになったが、息子のその絞り出したような声と指が震えているのに気づき、「ごめんね。うっかりしてたわ。」と返すにとどめた。その時は一旦部屋を出て扉を閉め、おにぎりから海苔を丁寧にはがしながらも喉元までこみあげるものを必死にこらえたものだった。梅干の種は先端が尖っている。胡麻も同様だ。昆布は直角を有している・・・言い始めれば切りがないが、その内容だけ聞いていれば飲食店の店員にいちゃもんを付けている客、あるいは二年前に職場の同僚と駆け落ちして以来音信不通の夫が夕食につけてきた文句を彷彿とさせたが、息子の姿は、それらとはまるで違った。父の暴言に必死に耐え、失踪後もその心理的負担に押しつぶされずに有名大学への受験勉強に励む、動きは緩慢だが眼光が鋭く生命力にあふれた以前の姿とは、百八十度異なる。俊二は、七月の一週目に家を出るときに着ていた薄手のシャツとチノパンツの格好のままで、何を見ても「さき」「はし」「こわい」「こわい」と怯える精神を冒された少年に変貌してしまった。

 良美は時折台所で、愛する息子の将来を悲観し、声を殺して泣いた。

   *

 部下が病気で急遽出勤しないといけなくなったからと今日はこれで我慢してねと、毎朝のおにぎりの代わりに母が置いていったアンパンを一口齧り、中身の餡の皮を目にしてしまった瞬間嘔吐して気を失い、再び目が覚めて自分の吐瀉物を目にして何が起こったのかを思い出して、俊二は落胆した。

 僕は、どうしてしまったんだ。

 今が十二月であるということだけは最近母から訊いたが、何日の何曜日であるのかはわからない。擦り切られそうな気がしてカレンダーの紙そのもの怖いのだ。参考書も教科書もノートも全く触れなくなってしまった。気分転換を図り、母に頼んで以前なら絶対に目にしなかったファンタジーノベルや週刊誌、エロ本と呼ばれる類の書物も用意してもらったが、全て徒労に終わった。紙に接触するのは完全に断念して、数日感はタブレット端末のみを頼りに受験勉強に励んでいたが、そのうち画面に映る明朝体の、習字でいう【ハネ】の先や、ゴシック体の端を凝視してしまい戦慄し、一週間でタブレット端末とも別離することになった。いつだったかは覚えてはいないが先日、もしかしたら『先端恐怖症』というのではないかという憶測を母から聞かされた。だから一度そういう病院に行ってみよう、と。

 冗談じゃない。

 布団にくるまったまま、俊二は怒りを滾らせる。

 なんで自分が心療内科や精神科などという類の医療機関に世話にならなければいけないのだ。母が毎日置いていく睡眠導入剤の錠剤の服用も拒否しているというのに。毎晩眠って尖っているものにしか注目がいかないこの意識を飛ばしてしまいたくて気が狂いそうなのに眠れなくて、そのような中でも薬などに頼らず必死に耐え忍んでいるというのに。なぜその苦労を無に帰そうとするのか。だがその怒りも母には訴えない。母の方が苦労している。疲れている。大人だから。気を抜くとぶつけてしまいそうになる罵声も無理矢理体内に押し込める。歯を食いしばる。奥歯が噛み合わさるギチギチという音が聞こえる。これはいけない。自分の歯が尖っていることを認識してしまう前に、シーツを噛む。半年以上日干しされていないシーツは若干湿っており、口の中に嫌な風味が広がる。「おえ」という擬音とともにようやく歯ぎしりが収まる。

 疲れが溜まってストレスが溜まって、はじめて精神は冒されるというのが、若くて青くて学の浅い俊二の持論だった。

 高校三年生の今、ガキではないが子供だ。一文すら稼げない子供。価値のない子供。子供が勉強のために数日睡眠時間を削ったくらいで用いていいような安い言葉ではない。

「僕は疲れてない。僕は疲れていない。」

 凍てつく冬の空気の中、夏用布団にくるまって俊二は呟いた。

 それはもう、祈りであった。



その日、俊二は、ノックの音で目を覚ました。

その音には聞き覚えが無かった。毎朝母が自室の扉を叩く音とは違っていた。

「母さん?」

 一応声をかけてみたものの、規則正しい音が止む気配はない。

 俊二の部屋は二階にある。まさかとは思ったが、意を決して、腹に力を込めて「よし」と小さく気合を入れ、もう数ヶ月見ていない、ガラス製の窓を振り返った。そこには、恋人である山倉帆乃香がいた。一階の突き出した屋根部分に身体を載せ、窓に両手をついて俊二を真っ直ぐに見ていた。怯える俊二とは対照的に、俊二と目を合わせると、にたあと白い歯を見せて笑った。

「あーけーてー」

 声は聞こえないが、窓のクレセント錠を指差して、そう口が言っているのが読めた。俊二は突然のことに腰が抜けて扉まで後ずさりし、ブンブンと大きく首を横に振る。山倉は大げさに首を傾げて、

「なんでぇー?」

 と口を動かす。「なんでじゃないよばか」と言いたいが数日ぶりに他人の姿を見たためうまく声が出ず、口をパクパクと動かすだけである。そのうち、開けてもらえないとわかったようで海外ドラマの出演者のような動作でおお振りに肩をすくめてため息をつく仕草をした。これで諦めて帰ってくれるか、と俊二が安堵し、一旦視線を落とし、再度何気なく視線を山倉に戻した瞬間、俊二は、山倉が革製の通学鞄をこちら側に向かってぶつけようとしている姿が目に飛び込んできた。

「やめろ」

と、ガラスが盛大に割れる音が響いた。



 ガラスに開けられた大穴から、ガラス片が身体に刺さらないように慎重に部屋に侵入した山倉は、

「お久しぶり、ダーリン。」

と、耳障りないつものはしゃいだ声で言った。

「会えなくて寂しかったよ。俊くん元気してた?」

「・・・元気に見えるのかよ」

 やっと出た声で、俊二は忌々しく吐き捨てた。

「見えないね。ふふふ。」

 何がおかしいんだ。全く。

 こいつはいつも呑気そうで、何も変わらない。

 僕は、これだけ変わってしまったというのに。

 風呂に入れず、淦で黒ずみ匂う、自らの手のひらに目を落とす。

「なんだよ。侵入罪だぞ。」

 正確な罪名を思い出せない。悔しい。

「不法侵入罪だね。ついでに器物損壊。あはは。私、俊くんより物知り!」

 自分より馬鹿だと思っていた山倉より知識がないと思われるのが癪だ。そんなに自分は劣ってしまったのか。

「疲れてると、言葉出なくなる時ってあるからね。」

「疲れてない。」

 即座に返す。

「僕は疲れてない。」

 それまで、やはりガラスの破片が怖くてうつむきがちに喋っていた俊二であったが、その言葉を聞いて、山倉をきっと睨んだ。

「うそぉ。疲れて」

「疲れてない。」

「そうだね。俊くんは優しいからね。」

押し問答になるかと予想していたが、その予想は覆された。

 一瞬呆気にとられていた俊二であったが、

「・・・優しいってどういうことだよ。」

俊二を好きになった理由を尋ねると、いつもいつも『優しいから』としか答えない。

「バカじゃないのか?」

 僕より成績良いくせに。頭良いくせに。バカのふりしてんじゃねえよ。

「バカじゃないよ。だって俊くんが優しいってこと、わかるもん。」

 笑顔のまま、高い声のトーンを落とさずに軽やかに、告げる。

「だって、私のこと嫌いなのに、付き合ってくれてるじゃない。」



9.

図星を突かれて、俊二は愕然とした。

「優しいから、断れなかったんだもん。幼稚園からの付き合いの女の子の必死の告白を前にして、断れなかったんだもん。スポーツ万能で成績も悪くはないけどキャンキャン騒ぐだけの女子生徒からの、一世一代の男女交際の申し出を、断れなかったんだもん。」

 見抜かれていた。やはりこいつはバカじゃない。

 俊二は目を剥いて正面の山倉を見る。

「だから、私頑張ったの。」

 にこにこ笑いながら明るい声で独白を続ける。

「毎日毎日神社に通ってお百度参りしたら、俊くんが私のことを好きになってくれますようにって神様に願ったら、俊くんは私のこと好きになってくれると思って」

「やっぱバカだ。」

 吐き捨てた。

「バカじゃないよ。だって疲れてるって認めないのも、俊くんが優しいからじゃない。」

「は?」

 またわけのわからないことを言い始めた。いつもの『天然』トークだ。うんざりする。

「自分が疲れてるって認めちゃったら、周りの人に暴力振るってしまいそうだから、だから疲れてるって認めないんでしょう。」

「違う!」

 俊二は否定する。

「違わないよ。前に言ってたじゃん。小学三年生の時に、疲れてるお父さんの前にカブトムシ出しちゃってて、潰されたことがあるって。」

「・・・・・・」

 そんな他愛もない失敗談を山倉なんかに聞かせていたのか。誰にも聞かせたくなかった僕の失敗談。

一体いつだ?

記憶をひっくり返して考える。

思い出せない。

頭を掻きむしって考える。

やはり思い出せない。

うっかり、口に出してしまっていたのか。

この僕が。

それはきっと、

その時、きっと。

「疲れてない!」

だが、認めない。

ハア、ハアと息を切らせる俊二。

「認めたら、お父さんと一緒になっちゃうもんね。大事なカブトムシを潰せる理由が、自分の中にもできちゃうもんね。周りの人を傷つけていい理由が、できちゃうもんね。」

「違う!僕は疲れてない!」

悲鳴にも似た声で怒鳴る。

「優しいね。」

山倉は動じずに言う。

「でもね。そろそろ認めないと。自分の中のもの、認めないと。」

「うるさい!僕は疲れてない!」

「自分のこと、周りのこと、見ないと。」

「うるさいうるさい!」

「あんまりしっかり見過ぎたらまた疲れちゃうから、周りだけぼんやり見ればいいんだよ。」

「疲れてない!」

ここ一年で、最大の声量で叫んだ。

それでも山倉は、全く動じなかった。学校の人気者の、明るい笑顔で、

「大好きな俊くん、じゃあね。」

そう言って振り返り、先ほど割った窓の枠に右足から順に身体をくぐらせ、慎重に退散した。

数分経って寒気を感じ、頭が冴えてきた俊二は、せめてドアから帰れよ、と心の中で呟いた。

足元には、先ほど掻きむしった時に抜け落ちた毛髪が落ちていた。いつもならそれらにすら全身を震わす俊二であったが、不思議と恐怖心は湧いてこなかった。次に少し期待して大破した窓ガラスの破片に目をやったが、やはりそれらの視覚への威力は凄まじく、俊二は泡を吹いて気絶した。


9.

山倉帆乃香による器物損壊及び不法侵入事件が起こった三日後の昼過ぎに、俊二は母から、山倉帆乃香が死んだと聞かされた。

聞いた瞬間、三日前に自分の前に現れたあれは幽霊だったのかと戦慄したが、山倉は昨夜、飲酒運転の車にはねられたことによる事故死とのことだった。現に、二日前に母が部屋を訪ねてきた時に派手に破壊された窓を見て絶句していたし、寒波の厳しい十二月半ばの空気を遮断する窓無しで夏布団にくるまって耐え忍んだ三日間が、夢だったとは決して思えない。

「お通夜、何時から?」

無意識に、訊いていた。

母は、一瞬驚いた様子であったが、二人が恋仲であったのを思いだされ

「六時からだって。」

と、努めて平静に答えた。

「そう。学生服でいいのかな。」

「数珠とハンカチ、用意しとくから、五時半に迎えに来るわね。」

「うん。ありがとう。」

母が出て行った後、閉められた扉の前で、嗚咽する声が聞こえた。


 

 度々視覚を刺激する金属に息を飲みながらも、なんとか六ヶ月ぶりに制服を着ることに成功した。布と布の継ぎ目や裾に対する恐怖心が、少し和らいでいる気がした。結局風呂に入る勇気は出なかったので身だしなみは気になるが、鏡を見ることを考えると身体が硬直してしまうのでやめておいた。

 筋力が落ちてしまったためゆっくりとしか歩けなかったが、アイマスクをつけた状態で、母に手を引かれて家を出て、葬式場へ向かった。

 鼻を刺す線香の独特な匂いで式場についた事を察知した。記帳を母に頼み、式場の椅子に座るよう促され、着席し、アイマスクを取った。

 そこは、山倉の遺影と真正面に向かい合う席であった。

 色とりどりの花で囲まれた遺影の彼女は女子バレーボール部のユニフォームを着て満面の笑みを浮かべていた。

 だが、アイマスクを取って、目に入った俊二の目に映ったのは、細められた瞳ではなく、短く切り揃えられたベリーショートの頭。

 毛の一本一本を見て、刺さる刺さるとあれほど恐れた針の山。

 否。それは針の山ではなかった。

 スポーツ万能なひとりの少女を形作る、ただの髪型だった。

「自分のこと、周りのこと、見ないと。」

 山倉帆乃香の言葉が再度聞こえたような気がした。

 ああ。確かに僕は見ていなかった。

 目の前の怖いものしか見ていなくて、自分のことも、周りのこともきちんと見ていなかった。

 僕のことをいつもちゃんと見ていてくれた女の子のことすら、目に入っていなかった。

 山倉帆乃香の遺影を見て、俊二はぽつりと呟いた。

 満面の笑みを浮かべるその全体像を、直視した。

 夏休みまえの休日、俊二に見せてくれた、浅い記憶に刻まれた、二つの乳房を思い浮かべた。



「まるい」



一次選考落ち。

誤字脱字も目立ちます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ