第七章
「また来たよお兄ちゃ──あれ?」
今日も今日とてゴスロリに身を包んだ我が妹、鈴音が騒がしく登場するも、俺はそれを無視してスマートフォンで集めた情報をバリバリノートに書き込んでいく。
「何してるの?」
「勉強」
「えええ!? なんで!?」
「驚きすぎだ」
両手に持った紙袋を取り落として口をあんぐりと開ける妹。兄のことを何だと思っているのか。
「んん? 花火?」
ノートを覗き込みながら、鈴音が首を傾げた。
ページいっぱいに書き込まれているのは、簡単な花火の作り方だ。花火の構造や仕組みについて、所狭しと情報が記されている。
「どうしたの、突然? そんなに花火好きだったの?」
「えー、あー、好きだよ。大好き。この病院からだと夏祭りの花火が見られないのが残念すぎて、花火のお勉強してる」
「……ついに頭がおかしくなっちゃったのかな」
「年中頭がおかしいお前に言われたくない」
「失礼な! 私はいつでも聡明でしょ!?」
ぷんすか起こるさまがなんだかセラと似ていて、俺はおもわず笑ってしまった。
「わ、お兄ちゃんが笑ってる……」
「あ? 俺は感情のないロボットじゃないんだから、笑うことくらいあるぞ」
「そりゃそうだけどさ」
言いたいことは分かる。俺も、脳内がぐちゃぐちゃだったところを思いっきりぶん殴られるような衝撃を受けて、真っ白に戻ってしまったというだけなのだから。
「……これ、いらないかな?」
鈴音は抱えた紙袋を示す。そこには彼女のオススメと思われる漫画などが大量に入っている。
「いや、借りるよ。ありがとう、鈴音」
「ぇ……あ、いや、うん。どういたしまして」
少し恥ずかしそうに目を逸らした鈴音は、紙袋をベッドの横に置いて、頬を紅潮させたまま言った。
「……来年は一緒に夏祭り、行こうね」
「……そうだな」
そういえば、近所で開催される夏祭りはもうすぐだったか。毎年鈴音に連れて行かれているが、今年は俺が動けないので行けそうもない。
「花火、花火か、うーん……」
鈴音は何やらブツブツと呟きながら、紙袋だけ置いて去っていった。
「……」
俺は、いつの間にか彼女の優しさにも苛立ちを覚えなくなっていることに気がついた。それがなぜなのかは、火を見るよりも明らかだ。
「セラ……」
矮小な俺の悩みを吹き飛ばしてしまうような、彼女の境遇。どうでもいいことで後ろ向きになっていた自分が恥ずかしくなってくるような、彼女の重い事情。
白い監獄にも、メッセージの書き込まれたギプスにも、窓の向こうに見える景色にも、いつの間にか清々しい気持ちで接することができるようになっている気がする。
「……?」
ふと目にとまったギプス。そこに何か、メッセージが書き込まれている。野球部のみんなのものではない。見たことのない、新たなメッセージがいつの間にかそこにあった。
『負けないで。きっとあなたなら、前に進めるから』
この言い回しは……きっと、梨架さんだ。いつこんなものを書いたんだろう。それは分からないが、俺は確かに、その言葉に背中を押された。
「……よし」
俺は再び情報収集を開始した。
明確に脳内でイメージできるように、火薬の量や仕組み、紙の材質などに至るまで念入りに調べていく。
日付が変わったことにも気づかず、消灯後も脳内でイメージができるように何度も何度も予行演習を繰り返した。そして──。
☆★☆
8月 16日──これまでの死亡回数総計 129回
☆★☆
俺が再び夢想世界へと降り立つと、そこには。
「……うわ」
黒地に花柄の浴衣を纏った少女が、立っていた。
「……どう? おかしいところ、ない?」
精緻な模様の描かれた浴衣だ。夜の闇と同化して、まるで空に浮かぶ星のように幻想的な花柄模様が浮かび上がってくる。帯は白銀色で、髪色と合わせられているようだ。髪飾りが揺れる銀髪は編み込まれており、特別な日を演出している。普段とは違い、うなじがちらりと見えるのが魅惑的だ。
足元は下駄で、からんころんと鳴る音が涼しげ。小物入れの巾着には……何やらちゃっかりダガーの柄が見えるが、見ないふりをした。
そんな夏らしさを体現した少女の変わりように、俺は思わず息を飲んだ。
「似合ってる」
「ぇ……ぁ、う……ありがとう」
恥ずかしがりながらも感謝を述べるセラは、悔しいが魅力的だ。セラは恥ずかしがっている時が一番可愛いと、俺は思う。
「お前……一年以上現実に戻ってないんだよな? よくそこまで、細かく想像できるな」
「……漫画とか、アニメの知識。実際に着たことはないから……妄想も含まれる」
「……なるほどな」
俺自身も経験したことだが、病院暮らしは退屈だ。漫画や小説、アニメといった娯楽はそんな生活を豊かにしてくれる。
「セラって、そういうの詳しいのか?」
「…………もう何年も入院してる。読む時間なら、いくらでもあった」
「へえ。じゃあ、『Abnormal Sense』ってラノベ知ってるか?」
「!」
「本当に面白くて、読んでめちゃくちゃ泣いたんだよ。そしたら、お隣さんにめちゃくちゃ笑われてさ。特に四巻なんて──」
「よ、四巻!?」
「ど、どうした?」
「私が眠る前の世界では…………四巻は、出ていなかった…………」
「……へえ?」
俺はねっちょりとした笑みを浮かべた。最高のネタを見つけた気分だ。すかさず俺は、攻撃を仕掛けた。
「実は四巻では、あのキャラが……」
「なっ、ちょっと、だめっ!」
「まさか、あんな展開になるなんて……」
「あ、あ、あ、」
「ついにヒロインと主人公が……」
「うわああああああああああ!」
ナイフ入り巾着をブンブン振り回して追いかけてくるセラから逃げる。
「信じられないっ! よくこんな仕打ちができるっ!」
「あはははは!」
頑張って追いかけてくるのだが、いかんせん浴衣に下駄なのでスピードが出ない。パタパタと足を動かすが、全然追いつけそうな気配がない。
「あ」
そしてコケた。べちょ、という鈍い音ともに、顔面から行った。ここが夢想世界でなければ鼻に大ダメージだろう。
「ぅ……うぇええ…………」
「って、また泣いてるし!」
俺は慌てて駆け戻る。助け起こして、鼻を真っ赤にするセラを宥め──
「えい」
「その手は効かねえッ!」
いつの間にか巾着から抜き出していたダガーを、俺は手の甲で払った。油断も隙もありゃしない。
「ちっ」
「お前今舌打ちしたな!? この腹黒女!」
あんな過去を話しておきながら、セラは全く気にしていないような素振りを見せる。きっとそれは、もう二度と現実世界に戻らないという諦観ゆえなのだろう。
「あー、もう。せっかくの浴衣が汚れてるじゃねえか。どんだけ俺を貶めたいんだよ」
俺が浴衣の裾を払ってやると、セラは笑った。
「楽しいから」
「ああそうかよ。俺もお前が恥ずかしがってるのを見るのが楽しい」
「……」
「……」
「ふふふ」
「ははは」
ひとしきり笑ったのち、俺は現実世界で仕入れてきた情報の成果を披露した。
「見ててくれ」
必死に暗記した情報を脳内に想起する。やがて形を成したのは、二本の線香花火だった。
「できた!」
「……すごい」
セラは目を丸くした。生み出された細い糸のような線香花火を手にとって、しげしげと眺めている。だが、
「ねえ、アオトくん」
「なんだ?」
「火は?」
「…………あ」
ライターは……流石に作れない。マッチの原材料? 知らない。
「ひ、火花だ! 武器をぶつけて火花を起こせ!」
そんな感じで、俺たちはぎゃあぎゃあと騒ぎながら夜を明かした。
好きな漫画やアニメの話は異常なほどに盛り上がった。話題は尽きることなく、いつまででも話し続けることができそうな気がした。
それはとても楽しくて、幸せな時間で。
しかし──。
☆★☆
8月 17日──これまでの死亡回数総計 129回
☆★☆
入院していてできなかったことが、セラにはたくさんあった。だから俺は、それに付き合った。
その中の一つに、こんなものがあった。
──制服で、デートがしたい。
「……何でも、向き合ってくれるんじゃなかったの?」
「い、いや、でもな……」
ジト目で詰め寄ってくるセラ。俺は後ずさりながら言い訳を探す。
「俺たち、別に付き合ってるわけじゃないし……」
「……別に、真似事でいい。相手して」
「い、いつからそんなに積極的になった?」
「積極的? ……私が?」
セラは気づいていない様子だが、明らかに前よりも、こう……グイグイと来るようになっている。あまり表情が動かないから分からないが、その内面にある感情は確かに変化を感じる。
「変わったというのなら…………それは、あなたのせい」
「お、おう……」
「いいから、はよ」
俺は急かされるままに、学校の夏服をイメージした。流石に一年以上も着ている服なので、簡単に想起できた。俺が「これでいいか」と聞くと、セラは満足げに頷いた。そして、
「ほっ」
自身も光に身を包み、制服へと変身した。夏用の薄いブラウスに、ギンガムチェック柄のプリーツスカート。見慣れた女子用制服なのに、セラという非日常の象徴がそれを着ることで不思議な感覚があった。というのも、セラは月明かりを溶かしたような美しい銀髪をしており、まるで外国人留学生のような出で立ちなのだ。
「っ、おお……」
俺がその姿に面食らっていると、セラは薄い感情でも分かる、お手本のようなドヤ顔を浮かべた。
「行こ」
「おわ、行こって、どこにっ」
「どこでもいいっ」
腕を引っ張られるようにして、俺はセラとともに夏の日差し照りつける街へと繰り出した。
☆★☆
食事も映画もないこの世界で何をやるのかと疑問を抱きながらセラについていった俺だが、結果的には大満足の一日だったように思う。
というのも、彼女と二人、制服を着て並んで歩いているというだけで、どうやら俺は楽しかったようで。
ただ人気のない街を我が物顔で闊歩するだけ。目的地もなくフラフラとどこかへ行くセラに連れられて適当に歩いているだけで、世界は新たな発見に満ち溢れていることが分かった。
何気ない路傍に咲いた花。
夏の日差しが生み出す陽炎。
道路に引かれたただの白線。
風にそよいで光る木漏れ日。
ガードレールが生み出す影。
あとは、途中で遭遇した野良プレイヤーとバトルをしたり。もちろんセラがほぼ一人で完封した。
楽しくて仕方がなかった。
大嫌いだったはずの夏が、キラキラと輝いて見えた。
なぜだろうと、理由を考えるまでもなく──それは隣で控えめな笑顔の花を咲かせる、セラがいるからだった。
「アオトくん」
一日中街を歩き回った末にたどり着いた、夕暮れの駅のホーム。ベンチに並んで座っていると、セラが話しかけてきた。
「ずっと……このままがいいね」
「……」
それは、普段弱音を吐いたりしないセラが見せた、わずかな感情だった。
「ずっと……このままだよね?」
「それは……」
俺は答えに窮した。ずっとこのまま、二人きりで終わらない夏を過ごす。それはとても魅力的な提案で──でも、俺は。
「キミは……ずっと一緒に、いてくれるんだよね?」
遠く空の向こう、沈む夕暮れが鮮やかなオレンジ色を描き出している。ふと、右の手のひらに何かが触れた。
見なくても分かる。それはセラの手の温もりだった。
「……死にたくない」
そんな心の声が、漏れ出ていた。
「死にたくない。ずっとこのままがいい。キミが隣にいると……ますます強く、そう思う」
ねえ、アオトくん──と。空を見つめるセラの横顔は、夕焼け色に照らされて、ほんの少し紅く見えて。
「死にたくないよぉ……っ」
ぎゅう、と繋がれた手に力が込められる。俺はその小さな手を握り返して──しかし。
「なあ、セラ」
同じように空を見上げながら、俺は二つの思いに板挟みにされるような気持ちで、それでも言わなければならないと、自らの想いを告げた。
「俺はさ、なんでこの終わらない夏の世界が存在するのか、ずっと考えてたんだ」
ゆっくりと、自分にも言い聞かせるように。
「心の傷を武器にして戦う、十六歳から十八歳の子供だけで構成された青い世界。この世界の存在意義はきっと──俺たちみたいな、心に傷を抱えた少年少女たちが、己の傷と向き合うために生み出された猶予期間ってことなんだと思うんだ」
「……」
「終わらない夏、現実から離れて、ゆっくりと時間をかけて見たくもない傷と向き合う。俺もさ、現実が大嫌いだったよ。でも、セラと一緒にいて、長い時間を過ごして、境遇を聞いて……このままじゃダメだって気付けた」
セラは、黙って俺の言葉を聞いていた。夕暮れに染まる街並みが目に沁みて、俺は目をこすった。
「俺、頑張るよ。リハビリ。絶対足を治して、野球やるよ。だからさ、セラ──」
「……?」
「俺のワガママを、聞いてくれないか?」
繋がれた手の温もりを確かに感じながら、しかし俺はその手を払われる覚悟で、告げた。
「俺は、お前がちゃんと学校に通っているところを見たい。夢の中のお前じゃない、現実のどこかにいるお前と、もう一度出会いたい。本物のお前と手を繋いで、今日みたいに町中を歩き回って、笑いあって、喧嘩して──同じ時間を過ごして、一緒に老いていきたい」
「ぇ……」
「お前の代わりに手術を受けてやることはできない。お前の恐怖を肩代わりしてやることはできない。でも!」
俺は立ち上がり、想いよ届けと声の限り叫んだ。
「俺がずっと隣にいてやる! 俺がお前の支えになってやる! 現実が嫌になって、怖くなっても……何度だってお前を殺して、背中を押してやる! もしお前が道を見失うというのなら、俺がお前の道標になってやるから! だから──」
目を見開いて硬直するセラをよそに、俺は言葉を締めくくった。
「前に、進もう」
それを聞いて、セラは。
「…………私、だって」
やはり静かに震えながら、俺の手を払った。
「私だって、前に進みたいよ! でも──でもっ! 思いだけじゃどうにもならないことだってあるんだよ! なんでそんなこと言うのっ!? 私は……ずっとこのまま、二人きりで夢の中に生き続けられれば、それでいいのに……っ!」
「セラ」
立ち上がり、感情をあらわにするセラ。それでも俺は引かずに、言葉を重ねた。
「夢はいつか、覚めるんだ。幸せな夢を見ると『ずっとこのまま続けばいいのに』って思うかもしれない。でも、いくらそう思おうと、夢はいつか覚めるんだ。明けない夜がないように……きっと、覚めない夢もないんだよ」
「だってっ! ……五割だよ? 半分の確率で、私は死ぬんだよ。キミは、それでいいっていうの!?」
「いいわけないだろうが!」
「じゃあ、なんで──」
「お前が好きだからだッ!」
「──────────────、」
「笑ってるお前が好きだ。むくれてるお前が好きだ。恥ずかしそうにしてるお前が好きだ。辛そうに目を伏せてるお前の横顔も好きだ。全部、好きなんだ……っ」
「ぁ……う……っ」
「お前が好きだからッ! この世界だけじゃ満足できなくなったッ! さっきも言ったろ? これは俺の、醜いワガママなんだよ」
顔を真っ赤にして、別の意味で完全に固まってしまったセラは、そのままコテン、と俺の方へ倒れてきた。
「なんで…………なんで、そんなこと言うの?」
ぎゅう、と俺の服を掴んで顔を埋める。小さく震えながら、涙声で──しかし、確かな意志を感じされる声音で言う。
「そんなこと言われたら、余計に……死にたくなくなる……っ」
「……ごめん」
セラの内心を推し量ることは、今の俺には到底できない。でもきっと、俺のせいで辛くてぐちゃぐちゃになってしまっているのだろうと思った。
でもそうして俺なんかのことで悩んでくれているのだと思うと、ほんの少しだけ嬉しく思ってしまう自分がいた。
「酷いよ……私……わたし……っ」
セラは目を充血させて、涙に濡れた顔を隠すこともなく、俺に向かって心からの叫びを口にした。
「死にたくないよぉ……っ」
俺は、そんなセラを強く、強く抱きしめた。
胸が張り裂けそうだった。俺はこれから、セラを殺すことになるかもしれないのだ。それはこの世界での死ではなく、現実世界での──不可逆の、真の意味での『死』を表している。
「……私は……まだ……どうすればいいか、分かんないよ」
「うん」
「今は、まだ……無理だよ」
「うん。ゆっくりでいい」
「ちょっとだけ……考えさせて」
「……分かった。じゃあ、今だけは……離れよう。もう一度必ず、俺はお前の元に行く。その時、全てを決めよう」
そうして俺は、俯向くセラからゆっくりと身体を離して、少女をそこに残し──夕焼けに染まる駅のホームを、去った。
苦しみの先に、本当の希望があると信じて。




