エピローグ
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8月 31日
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俺が目を覚ますと、そこにはなんの変哲もない天井が広がっていた。かすかに潮の香りが混じった風が吹き、風鈴を揺らしている。これも今日で回収しなければいけない。
──あの日以降、どれだけ夢想世界で待っていても、セラは来なかった。
何があったのか。手術は成功したのか、失敗したのか。それすらも分からないまま、八月三一日──俺の退院の日を迎えた。リハビリにちゃんと取り組んだおかげか、俺は松葉杖で歩ける程度まで回復していた。
最悪の想像だけは、絶対にしなかった。彼女が現れない理由としてそれ以上ないほどにふさわしいものがあると分かっていて、しかしそれだけは決して考えようとはしなかった。
きっと連絡手段がなくて困っているだけ。彼女らしいおっちょこちょいだ。
その時ふと、あのメッセージが視界に入った。
──『負けないで。きっとあなたなら、前に進めるから』。
梨架さんが書いたと思われるそのメッセージは、俺の背中を優しく押してくれたものだ。
だがなぜか、そのメッセージがやけに気になった。
『負けないで』? 弱い己に負けるな、ということだろうか? 理由の分からない違和感があるが、別にこの文言自体におかしなところはない。
ただ、なんというか──この言葉の向こう側に浮かぶ顔が、梨架さんではなく……。
そんな形容できない違和感に襲われた時だった。
「────?」
視界の隅に、昨日まではなかったはずのものが写り込んだ。
風に吹かれてパタパタと揺れる、白い封筒。風で飛ばないように、黒猫の置物で押さえられたそれは、確かに昨日まではなかったものだ。退院を間近に控え、荷物は全て昨日のうちにまとめてある。その時までは絶対に、こんなものはなかった。
背筋にゾワリと何かが走り抜けていくのを、俺は確かに感じた。
『名前も知らないキミへ』──裏面に可愛らしい文字で、そう書かれている。
嫌な予感がした。
寒くもないのに震えが走って、全身が硬直し、その封筒に視線が釘付けになる。
抗いようのない衝動に従って、俺は震える手で封筒を取った────
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名前も知らないキミへ
初めまして。初めましてでいいのかな。いや、初めましてだね。
突然の手紙を許してください。こんな手紙をもらってもキミが嬉しくもなんともないこと、分かっていてこれを書いています。
私の名前は、夢ヶ崎聖良と言います。
ゆめがさき、せら。もう分かったかな?
あの世界でセラと呼ばれていたのが、私です。
早速だけど、前にキミの隣のベッドにいた人、覚えていますか?
覚えてるよね。だって私も、キミからその人のことを聞いたんだから。
あれ、私です。
びっくりした?びっくりしてくれたなら、してやったりという感じです。私もとっても驚いたんだよ。
そう。キミに殺されて目を覚ましたら、キミが隣にいたんだよ。びっくりどころの騒ぎじゃないよ。
時間がズレているのは分かってたけど、まさかそんな偶然があるなんてね。
いや、きっと偶然じゃないんだと思う。キミが隣にいてくれたおかげで、私は前に進めたんだから。
ということで、私は今八月二十日の世界で、この手紙を書いています。キミは八月三一日だよね。梨架さんに、その日に渡してくださいと頼んでおきました。
もう、気づいているかもしれないけど、一応書いておくね。
キミがこの手紙を読んでいるということは、私はもう、この世にはいません。
もしもの時のために、この手紙を書き残しています。後ろ向きなことを考えてたら、またキミに怒られちゃうかな。
でも、どうしても、私のことを救ってくれたキミにだけは、結果を伝えておきたかったんだ。
私がここで生きたんだ、という証明を残したかった。
これを聞いて、キミは悲しんでくれるのかな。もし悲しんでくれるなら……辛い思いをさせて、ごめんね。でも、私の本当の気持ちを知ってほしかった。
私は、自分の意思で手術を選んで、前に進みます。
お願いだから、自分を責めないでね。私はキミに背中を押されたこと、心の底から感謝しています。
キミがいてくれなかったら、私はずっとあの世界に一人きりでした。前を向けずに、膝を抱えてうずくまっていたと思います。
そんな私を、あなたが変えてくれました。
第一印象は最悪でした。だって、よく分からないけど必死に追いかけてくるんだもん! 恐怖だよ! ストーカーだよ!
でもきっと、そんなしつこいキミだからこそ、強情でいじっぱりな私を殻を壊してくれたんだね。
落とし穴掘るわ、石投げてくるわ、挙句の果てには水をかけてくるし。もう、意味分からないよ。ホントあの時は、今では想像できないほどにキミのことが大嫌いでした。
そりゃ、殺しまくったのは悪いと思ってるよ! 怒るのも無理ないと思う。でも、私も必死だったんだ。強くならないといけなかった。弱いままでは、誰かに殺されてしまうかもしれなかったから。
実際、ギルドの人たちが私を狙い始めて、もう無理だと諦めました。私はここで、決断もできないままに明日を迎えるんだろうって、そう思いました。
だけどやっぱり、キミがいてくれた。ずっと隣にいて、私を見ていてくれた。
私が前に進めたのは、キミがいてくれたからなんだよ。
キミのおかげで、私は明日に希望をもてたんだよ。
全部、全部、キミのおかげ。
ありがとう。
そう。こういう時は「ありがとう」なんだよね。これもキミに教えてもらったこと。
感謝してもしきれません。本当は直接伝えたかったけど……どうやら無理だったみたい。
でもね。
キミには、前を見て進んでほしい。私にそう教えてくれたように、後ろを振り返らずに、進んでほしい。
私のこと、好きって言ってくれたよね。でも、ごめん。どうやら、その気持ちに応えることはできないみたい。だから、いつか私のことも忘れて、新たな恋を見つけてくれたら嬉しいです。
でも、全部忘れられちゃうのは悲しいから、一年に一回でいいのでお墓参りにきてくれたら嬉しいです。
今、私の病室からは花火が見えています。
もしかして、これもキミがしてくれたことなのかな?
久しぶりに見る花火は、とても綺麗で、最後の最後のためらいを消してくれました。
……いつか、キミの中の私も、思い出になってしまうと思います。それは夢のように、花火のように、一瞬で消えてしまう幻想なのかもしれません。
でもそんな幻想が、私とキミを繋いでくれたんだよ。そのことだけは、忘れずにいてほしい。
……長くなっちゃったね。
それじゃあ。
キミが再び甲子園の舞台に立てること、空のどこかから見守っています。
たくさんの思い出を、ありがとう。
さようなら。
最後に。
私も、あなたのことが好きでした。
夢ヶ崎聖良より
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「────……………」
俺は言葉を失った。
どういう、ことだ?
セラが……あの、お隣さん?
黒髪ロングで、セラとは似ても似つかないような薄幸の少女。あれが、現実のセラ──いや、聖良だというのか?
何度か言葉を交わしたことがあるくらいの、名前も知らないお隣さん。俺が本を読んで馬鹿みたいに泣いているのを見て、目に涙を浮かべながら笑っていたあの子が……?
思い返せば確かにそのヒントはあった。彼女が制服を着たいと言った時、生み出されたのは俺の通う高校の制服だった。
それに何より、そもそもこの近辺にある大きな病院はここだけだ。リスポーン地点が病院周辺だった時点で気がつくべきだったのだ。彼女も、この病院に入院しているということを。でも──
「待て、待ってくれ。どういうことだ──?」
八月、八日。
俺が初めて夢想世界に行き、帰ってきた日。その日に俺はあの本を読んで泣き、お隣さんにそれを見られている。
夢想世界から帰ってきた聖良が俺をアオトだと認識したのもその日だとしたら──。
俺が何度も現実と往復している間も、聖良は八月八日にとどまり続けていて。八月二一日に俺が初めて聖良を殺したことで、彼女は何も知らない俺がいる八月八日の世界へと帰還した、ということか?
「嘘、だろ……?」
だって。
ということは。
俺の愛した少女は、ついこの間まで、すぐ隣にいて。
なのに、今は──もう。
──『キミがこの手紙を読んでいるということは、私はもう、この世にはいません』。
彼女は──聖良は。
「ぁ……」
衝撃が抜けていくと同時に襲いかかってくるのは、深い絶望と虚無感だった。
「あああああああああぁぁ…………っ」
涙すらも出てこない。まるで呼吸ができなくなったかのような息苦しさ。慟哭が、嗚咽とともに漏れ出るだけ。
四割という数字。覚悟をしていないわけではなかった。考えないようにしていただけで、その数字が持つ意味は心のどこかでちゃんと理解していた。
でもきっと、奇跡が起きてくれて。セラは助かるのだと信じていた。必ずこの現実世界で会えると信じていた。だけど──
現実と夢は、違う。
都合のいい奇跡はそう簡単に起こらない。何でも叶えてくれる夢の世界は、ここにはない。星に願おうと、天に祈ろうと、届かないものは届かない。確率は残酷に、されど正確にその仕事を果たしたというだけ。
突如として襲いかかってきた現実感に、俺は呼吸が止まりそうになった。
思いだけじゃどうにもならないことだってある──それはかつて、聖良が言った言葉だ。その通りだった。
俺は……間違っていたのだろうか。だってこれじゃ、聖良を殺したのは俺じゃないか。
ワガママを口にして。彼女を振り回して。自分勝手に聖良の思いを踏みにじって、挙げ句の果てにその命まで奪って。
綺麗事を口にして、聖良をその気にして──殺した。
「ごめん……ごめん……聖良ぁ……っ」
吐きそうだった。こんな苦しみを味わうくらいなら、いっそ俺も────そんな思考に陥りかけたとき。
思い出すのは、彼女の言葉。
──…………簡単に、死ぬなんて言わないでっ。
そう言って、俺を怒った聖良。あの日の怒った聖良の顔を、俺は今でもよく覚えている。
今思えば、最悪だ。俺の何倍も苦しんでいるはずの聖良に、あんなことを言わせるなんて……。
もう二度とあんなことを思っちゃダメだ。きっとまた、聖良に怒られてしまう。
だって────後ろを向くなと言ったのは、俺じゃないか。
だから今も、前に向かないと。
──お願いだから、自分を責めないでね。
その言葉が、救いだった。
──私はキミに背中を押されたこと、心の底から感謝しています。
それはこっちの台詞だよ、聖良。
──キミがいてくれなかったら、私はずっとあの世界に一人きりでした。前を向けずに、膝を抱えてうずくまっていたと思います。
俺の方こそ、聖良がいなかったらずっといじけたままだった。
──だけどやっぱり、キミがいてくれた。ずっと隣にいて、私を見ていてくれた。
違う。
──私が前に進めたのは、キミがいてくれたからなんだよ。
違うんだよ、聖良。
──キミのおかげで、私は明日に希望をもてたんだよ。
聖良、俺はお前がいたから前に進めたんだ。
──全部、全部、キミのおかげ。
だから。
──ありがとう。
その言葉を言うべきは、俺の方なんだよ。
ごめんじゃなくて、ありがとう。それは体感時間で一年近く前、現実時間ではたった半月ほど前に俺が口にしたことだった。
まさか、聖良に教えられるとはな。
回り回って自分に返ってきたその言葉を、俺は噛み締めた。
俺が彼女に言うべきは、「ありがとう」だ。
──キミには、前を見て進んでほしい。私にそう教えてくれたように、後ろを振り返らずに、進んでほしい。
手紙に書かれた聖良の思いをなぞるように、俺は便箋に手を当てた。手術前の彼女が遺した嘘偽らざる気持ちが、溶け込むように俺の心に染み渡っていく。
でも、でもさ。聖良。
──いつか私のことも忘れて、新たな恋を見つけてくれたら嬉しいです。
それは、無理だよ。
俺はお前を忘れることなんてできない。一筋の流星のように、俺の脳内にお前の顔が焼き付いて離れないんだ。
──……いつか、キミの中の私も、思い出になってしまうと思います。それは夢のように、花火のように、一瞬で消えてしまう幻想なのかもしれません。
そんなことはない。確かに俺たちの出会いは夢の中だった。その世界は、目覚めれば消えてしまう泡沫の如き幻想かもしれない。
けど、そこで生きた俺たちの物語は、紡がれた絆は、この胸に宿る愛は、本物だ。決して色褪せない記憶として、俺の胸に刻み込まれている。
そして手紙はこう締めくくられている。
──私も、あなたのことが好きでした。
……。
ズルいぞ、お前。最後にそんなこと言っていくなんて。
せっかく告白の返事をもらったのに、俺はその感謝を直接伝えることもできない。どれだけ手を伸ばしても、もう聖良には届かない。彼女は遠い、遠い世界へと旅立ってしまったのだから。
「ちくしょう……」
そう思うと、切なさがこみ上げてきた。ずっと彼女は隣にいたのに。ようやく会いたいと思えた今、彼女はそこにいない。隣には、空いたベッドが物寂しく鎮座するのみ。
それでも、前に進まないと。
彼女のいない世界で、俺は生きる。
楽しいことも、辛いことも、悲しいこともあったけど──俺は彼女との思い出を胸に、この足で明日へ向かって歩き始めなければいけない。
夢ヶ崎聖良がそうしたように。
「……」
窓の向こうには、今日も今日とて青空が広がっている。
どこからやってきたのか、子供が吹いたシャボン玉の群れが、空に向かって登っていった。
割れて、弾けて、消えていく──しかし、一つだけ。
ただ一つだけは力強く、風に吹かれて天へと舞い上がっていった。
──負けないで。きっとあなたなら、前に進めるから。
ふと浮かんだその言葉が、優しく俺の背中を押したような気がした。
花瓶の花が風に吹かれて最後の花びらを落とす。俺はそれを手に取ると、風に乗せて空へと舞わせた。
飛んでいくひとひらの花びらは、すぐに見えなくなってしまった。
照りつける日差し。揺れる陽炎。セミの大合唱。青い空と入道雲。ここぞとばかりに茂った草木と、その間を駆け抜けていく夏風。
この青空を見上げるたびに、俺は思い出すのだろう。
彼女が、ここで生きたことを。
一夏の、夢のような物語を。
そして、俺が愛した──夢ヶ崎聖良の、笑顔を。
窓の向こうは、神秘的なほどに青かった。
あの日大嫌いだった青空が──今はほんの少しだけ、好きになれたような気がした。




