Ⅷ
うららかな初春の昼下がり。
芽吹きの風に髪を遊ばせながら、私とヘーゼルくんは庭先のテーブルに積み木を広げてまったりと遊んでいた。
「どーん」
ヘーゼルくんが、自分でせっかく作り上げた積み木の塔を大胆に崩す。
「ケルシー、元に戻して」
「うん」
「自分の手はつかっちゃだめだよ」
「分かってる分かってる」
私の魔力を練って作った小さな半透明のモンスターが、積み木の塔の修繕作業に差し掛かる。
集中、集中。
結構これが神経を使うのだ。
「ね、ケルシー」
「まって今がんばってるから」
ヘーゼルくんが積み上げて壊して、そして私が修復する。
それがここ最近、というか私と彼が一緒に遊ぶようになってからずっと続いている遊びだ。
あれからずいぶんとここの生活に慣れた様子の弟弟子は、前とは比べ物にならないほど口数が増えた。
それに、まだ笑顔を見えることはめったにないけれど、子どもというのは正直なもので、驚いた時や泣きそうな時、機嫌が悪い時は特に分かりやすく反応するようにもなった。
部屋の隅で日がな一日ぼうっと過ごしていた以前の日々に比べると、僅かでも表情が豊かになったのは大きな進歩のように感じられる。
「ただいま」
何度繰り返したか分からない修繕作業をしていると、家の方から師匠の声がした。
集中が一瞬途切れたせいでモンスターがパチンと音を立てて消え、積み木の塔ががらがらと崩れる。ああ、とヘーゼルくんの遣る瀬ない呟きが聞こえた。
「おかえりなさい。師匠、今日はお仕事が終わるの早いんですね」
いつもより幾分か早い帰宅への感想を、私は机の下に転がってしまった積み木を拾いながら伝える。いつもなら朝に家を出て夜に帰ってくるのだ。
「また遊んでるのか。優しくするなとあれほど」
「大して影響が無いなら少しくらいいいじゃないですか。それよりも何を持ってるんですか?」
「ああ、ほら、君に手紙を預かっている」
「手紙? 両親からですか?」
「いや、ロイ王子からだ」
「今日は王子からですか」
「君を今度の祭りに誘いたいと言っていた」
「あらあらまあまあ」
師匠がいつもどこへ行っているかは知らない。
けれど、こうやって家族や王子と私の間を伝書鳩よろしく繋いでくれるから、きっと王家やその周囲と関わるお仕事をしているのは確かだ。
自らを予言者と言っていたし、国の将来を占っているのかもしれない。あくまで予想だけれど。
私たちと同じように庭の椅子へ腰掛けた師匠に、一つ余っていたブランケットを渡すと、師匠は「まだ手紙交換は続いているんだな」と淡々と感想を述べて手紙を渡した。
「ええ、つつがなく」
「無視すればいいのに」
「それをしたら師匠が咎められますよ。親からの手紙には返信があるのに、王子からの手紙だけに返事がないってなると、師匠が手紙を途中で破棄しているんじゃないかって思われちゃいますよ」
「君が王子からの手紙を嫌うと、私から一言伝えれば済む話だ」
「それを言って王子がこっちに来ようとしたのを忘れたんですか?」
「……そういえばそうだったな」
「師匠が手紙を受け取らなければいいんじゃないですか?」
「それこそ私が咎められる」
どうも師匠は私とロイ王子がまともに手紙交換をするのが気に入らないらしい。私が王子に意地悪をしたり、いやみったらしくつっかかることを好むのだ。
それがケルシーの役割を全うしやすくするためだと以前に教えてくれたけど、相手がこの国の王子となると愛想よくしておいた方がいいに越したことはない。
すんとした顔で手紙を受け取ると、師匠が「まんざらでもないくせに」と呟いた。
否定はしなかった。そりゃあ幼なじみですから、手紙をもらえればうれしいものですよ。
数少ない知人だ。大切にしたい思いが働いて、意地悪がなかなかできないのだ。
それに師匠曰く、王子との手紙交換をしているだけで私の未来が決まるわけではないらしい。それならわざわざ心苦しい思いをする必要がどこにあるのか。
さて、今日はどんなことが書いてあるのだろう。
保育士さんが子どもと手紙交換をするとき、こんな気分になるのかなと思いながら封筒を見つめる。
「ヘーゼルはまたこの遊びか。飽きないな」
「師匠、それ王子さまからのお手紙?」
「そうだ」
「ふうん……」
「わ、ヘーゼルくん嫌そう」
封蝋を切りながら視界の端に映るヘーゼルくんに、そんなに顔をしかめなくてもいいのに、と笑ってしまった。
師匠とは違う意味で、彼は私が王子と手紙交換をしているのが嫌らしい。
私が他の人と仲良くしているのが気にくわないのだ。
子どもの可愛い嫉妬。自分のおもちゃを取られて怒るのと一緒である。
控えめではあるけれど不満をあらわす彼に、封筒を開いて一枚の便箋を渡す。
「ほら、ロイ王子がヘーゼルくんにもお手紙書いてくれたよ」
そう言えば、ヘーゼルくんはさっきの表情をころりと変え、笑いはしないもののその宇宙色の瞳をキラキラとさせて便箋を受け取った。
「うれしいね、どんなことが書いてあるかな。読んでごらん」
「うん。ケルシーもいっしょによもう」
「うん、一緒に読もう」
ぽかぽかとして和ましい昼下がり。
傍からみたら私たちは姉弟に見えるだろうか。
頬を桃色に染めて手紙を読み上げるヘーゼルくんに、幼い姿の妹を重ねる。
妹ともこうやって過ごしたっけ。
そんな私たちを見て何を思ったのか、机に肘をついてこちらを見おろした師匠。そして自分宛ての手紙を読みはじめようとした私に、「君、人をいじめたことがないだろう?」とこぼした。
「突然何を……」
「いじめられている人を助けるでもなく、ただすごく遠いところで傍観しているタイプだっただろう?」
「まあ……そうですね」
確かに。いじめた経験はないけれど、いじめられっ子を助けるような人でもなかった。
「薄々気づいていると思うが、本来のケルシーは意地悪だ」
「ケルシーはいじわるなんかじゃないよ」
「そうだねヘーゼル。確かにこのケルシーは優しい。優しくて、優柔不断で度胸がなくて、人を傷つけるのをこわがり、人の指示に従順だ」
「うん? ケルシー、ゆーじゅーふだんって何? じゅーじゅんって?」
不思議そうな顔をするヘーゼルくんに、あんまり良くない言葉よ、と教える。
――本来のケルシーは意地悪だ
何となく、そうじゃないかと思ってはいた。
だって王子に嫌味な文章を送らなければいけないのだから。
だって弟弟子に優しくしてはいけないのだから。
「やっぱり、私は悪い子なんですね」
以前、師匠から指示を受けたことがあった。悪さをしたヘーゼルくんを打ち続けなさいなさいと。意地汚い姑のようになりなさいと。
何言ってるんだこの人はと思ったけれど、本来のケルシーを演じなければいけないのが分かっているのかと責められれば、分かりましたと頷くしかなかった。
そしてその話をした直後、まるで示し合わせたかのようにお皿を落として割ってしまったヘーゼルくん。
しかも私のお気に入り。
純粋にショックだった。食器の中で一番お気に入りだったのだ。
しかし一方で、まあでも子どものしたことだから仕方がないと許す自分がいた。
でもあすかに戻るためにケルシーを演じなければならないのだったら。
それなら怒って彼を罰する必要があるのかもしれない。
ヘーゼルくんのばか! と叫んで腕を振り上げる。
人を打つのがこわくて、目をギュッとつぶって勢いよく振り下ろす。
時間にしてみれば一瞬。
けれどその僅かな時間に、私はまるで走馬灯を経験しているかのように色々なことを考えた。
これは児童虐待になるのだろうかとか、ヘーゼルくん泣いちゃうだろうなとか、人を叩いたことないんだけど大丈夫かなとか、力を加減しなきゃいけないよねとか。
人を打った瞬間に何か大切なものを失うんじゃないか、とか。
そう考えたらなんだか急に身体にブレーキがかかって、まるで漫画かなと思うくらい綺麗にヘーゼルくんの頬の手前で静止した手のひら。
物影で見ていた師匠の、あきれたようなため息が聞こえた気がしたけれど、私は戸惑っていた。
ケルシーは何をする子なのだろう。
けがはない? 注意しなきゃだめでしょ、と叱りながら、彼の頬を撫でる。
彼を打つことはできない。
叱ることはできても叩くことができない。
人を傷つける勇気がないのだ。
本来のケルシーは一体どんな子なのだろう。
躊躇いはしないのだろうか。
本来のケルシーって?
私は本来のケルシーではないの?
じゃあ本来のケルシーは、どこに消えたの?
「ケルシー」
師匠の声に呼ばれてはっとする。
意識を戻せば、ヘーゼルくんが王子の手紙を持ったまま不思議そうな表情でこちらを見ていた。
「君が弱いのはわかる。けれどイイノヤアスカを選んだのは君だ。それなら今できることをしなくちゃならない。後でやりやすいように布石を打っておくにこしたことはない」
白い髪の隙間から紫の瞳が私を射抜く。
「勝手だが、先ほど君の未来を見させてもらった。このままいけば君はイイノヤアスカには戻ることはできないぞ」
春の生ぬるい風が私たちを包む。まだ固いままのつぼみが、そよりと揺れる。
「イイノヤアスカって?」
「ヘーゼルくんは気にしなくていいんだよ」
不穏な空気を察したのか不安そうな様子のヘーゼルくんに、微笑んでその栗毛を撫でた。
「……師匠、私は人を傷つけないとあすかになれないのですか?」
「ケルシーはアスカになりたいの? アスカってなに?」
「君は本来なら悪女になるはずだった」
「悪女に?」
「ねえ、師匠とケルシーは何の話をしているの?」
「君は殊の外、このことの重大さを理解していない」
「それは師匠が何も教えてくれないからでしょう?」
腕にしがみつくヘーゼルくんの頭を撫でながら、師匠を見つめる。
うららかな初春の庭先。
長い白髪の奥にある紫の瞳。
思いのほか、ここは静かだ。
だからこそ師匠のしわがれた声ははっきりと耳に届いた。
君が悪女であることがこの国の未来に大きく関わっているのだ、という師匠の言葉が。
え?
「未来に?」
意味が分からなさすぎて、思わずヘーゼルくんを撫でる手が止まってしまった。
「そうだ。歴史に犠牲は付き物とは言うが、そう、何と言えばいいか」
犠牲?
「君の悪は――ケルシーの悪は、この国の歴史に必要なのだよ」
歴史?
どういうこと?
ちょっと待って誰か翻訳を。
「君はある意味、歴史をつくるために生まれてきた」
待って。
そんな壮大な話になるなんて。
焦る。ついていけない。
「もちろん何もせずに平和に日々を送ることも選択肢の一つだ。だがその場合、イイノヤアスカにはきっと戻れないだろう」
え、待って。
本当に待って。
冷や汗がたれる。
私の巻き毛が風に揺れる。
師匠の言葉を咀嚼しようと何度も瞬きをして考える。
けれど私のことなんて気にしないかのように師匠は続ける。
「君がすべきことをすれば、元に戻れるはずだ」
日だまりを映した机。
崩れ落ちた積み木。
未読の手紙。
「生まれながらにして決められた使命に沿っていれば、君がケルシーの役割を終えたその時、君はこの舞台から降りることができるだろう」
深緑に囲まれた静けさを伴う庭で、紫の瞳の予言者ははっきりと私にそう告げた。