五
鳥はさえずり、空は快晴。
刺すような陽光もなく、実に心地の良い午後のひと時。
そして私の目の前でいがみ合う両親。
「私は反対です」
「私は賛成だ」
二人の声は固い。
「ケルシーのためならお願いするべきだと思うわ」
「なにもそこまでしなくてもいいと僕は思う」
お母さんの隣にはお兄ちゃんが、お父さんの隣にはお姉ちゃんが、それぞれ真剣な顔をして意見を述べた。
そんな四人を誕生日席で見守る私は、お父さんとお姉ちゃんの意見が通ることを願っている。
◆
きっかけはシラー様からの一通の手紙だった。
晩夏とも初秋とも言えるような、そろそろ涼しくなりかけたころのことだ。というか昨日のことだ。
使用人から手紙を受け取ったお父さんは、その内容を見て、静かにお母さんを呼んだ。
何事かという顔をして近づいた彼女は、お父さんの手元を覗きこみ、そして時間をおいて仰天した。
「ケルシーを養子にってどういうこと!」
そこからはひたすら会議である。
シラー様が私を養子にしたいと言っている。その申し出を受けるかどうか。
お父さんは、偉大なるウィザードのもとで魔法を学べるのであればこれほどありがたいことはないと主張し、養子に出すべきだと言った。
一方お母さんは、魔法を学ぶだけなら養子に出す必要はなく、実の子をヨソにやるのは耐えられないと反対した。
話し合いは平行線をたどり、そして翌日の今日、お姉ちゃんとお兄ちゃんも交え、改めて家族会議をしている。
「別に永遠の別れってわけじゃないのよ、お母さま」
「永遠の別れなんてそれこそするものですか。でも何も養子に出さなくってもいいじゃあありませんか」
「君たちの感情を優先して、シラー様の下で学ぶ機会をつぶしてはいけないよ」
「別に名前を変えなくたってシラー様の下で学ぶ機会はいくらでもあると思うよ、お父さま。現に僕は授業でシラー様に教えていただいているわけだし」
「ただの生徒のコリーとは違うの。ケルシーはシラー様の弟子になるのよ」
「弟子になるのに名前を変える必要なんてどこにもないわよジュリア」
「お嫁に入るのと一緒よお母さま」
「いや、まだ嫁には早いだろう」
「そうだよお姉さま。嫁に行くなら僕の友人のところがいいけど、まだ目星をつけてるところなんだ」
「コリーそんなことをやっているのか? 父さんにも審査を通すんだぞ」
「ややこしくなるから二人は黙っていてくださいな。ねぇ、お母さま、ケルシーを養子に出してもあなたの娘であることには変わりないのよ。そこが一番大切よ」
「でも養子に出してしまったらもう一緒には住めないのよ。ああ、シラー様に会わせなければよかったわ。あなたのせいよ」
「会わせて良かったじゃないか。見初められたんだぞ? こんなに光栄なことはない」
「お父さまはケルシーを手放すのですか?」
「そんなことは言っていないでしょう、コリー」
飛び交う言葉を追うのに目が忙しい。
侍女は涼しい顔をして立っているけれど、指先がエプロンを弄り倒しているので、この不穏な空気に気まずさを感じているのは確かだ。
とりあえず居心地が悪いので紅茶をその場しのぎ的に飲んでいる。
ロイ王子連れまわし事件のあと、何も音沙汰がないと思っていたのに、シラー様も一体何を考えているのやら。
でもまさか養子に迎え入れたいだなんて話が自分に来るとは、あすかの人生なら考えられなかっただろうな。はあ、クッキーおいしい。
「それで肝心のケルシーはどう思っているの?」
お姉ちゃんの一言で、クッキーを頬張る私に四対の視線が集中した。
突然話題を振られるとびっくりする。
慌てて紅茶をのどへ流し込んだ。
コホンと一度小さく咳払い。
「ジュリア、この子はまだ七歳よ。この子に聞いたって……」
お母さんがしりすぼみな言葉を放って、私にすがるような目線を寄こした。そんな目でみないでほしい。
お父さんも、期待に満ちた表情で私にプレッシャーをかけないでほしい。
賑やかな沈黙がこころに痛く、とても居心地が悪い。
「あの……申し出を受けたい」
控えめに、そして謙虚なしぐさで、私はそっと意思を述べた。
そのときの、お母さんとお兄ちゃんの絶望的な顔、お父さんとお姉ちゃんのほっとしたような表情と言ったら。面白いほど対極だ。
「シラー様が教えてくれたの。夢をかなえるには、やらなければならないことがあるって。みんなと離れるのは悲しいけれど、でも、私には必要なことなんだと思うの。シラー様は意味のないことはしないと思うの」
言葉遣いは気をつけたものの、これが私の本心である。
養子だなんてかなり大きなイベントだ。きっとこれは、私が井伊谷あすかに戻るために、そして両親を不幸にしないために必要なことなのだと思う。
「お願い、お手紙はたくさん書くわ」
甘えた声を出して四人を見つめる。
交わる視線。
私と同じ、深い緑のお母さんの瞳。
その綺麗な目に、みるみるうちに涙がたまって行くのが見えた。
お母さま、と声をかけるよりも早く、しずくが頬を伝う。
そして音もなく席を立った彼女は、私たちをその場に残したまま、駆けるようにして自室のほうへと消えて行ってしまった。
◆
ケルシーは家族から愛されている。
それはとてもありがたいことで、とても喜ばしいことだ。
目の前には重たく閉ざされたドア。その奥から物音は一切しない。
結局そのあと、お母さんは一度も私たちのもとへ顔を出さなかった。
お父さんはお母さんが出ていった方を見つめてため息をつき、お姉ちゃんは私の頭を撫でた。お兄ちゃんは落ち込みさえしていたけれど、定期的に手紙を必ず送ると約束すれば、ずいぶん気分は落ち着いたようだった。
子どもらしい小さな手で、ノックを三回。ちなみに二回はトイレのノックなのだそうで、これはあすかの頃の就職活動で学んだ。
「お母さま、ケルシーだけど、入っ、あ」
最後まで言い終わる前に扉はひらく。
部屋の主は誰かの訪れを待っていたらしい。
どうぞと部屋へ招き入れてくれた彼女の目元は赤く、かなり泣いたようだ。
「ホットミルクよ。何も食べてないんでしょう?」
入室してすぐに侍女に持たせてもらったカップを渡す。
お母さんは大きなベッドに腰掛け、しばらく私の顔を見つめてから、ありがとうとカップを受け取って口をつけた。
「おいしい?」
「ええ……ありがとう」
ホットミルクがベッドサイドにあるアンティークのランプのそばへと置かれる。
そしてしばらく沈黙になったあと、お母さんはぎゅっと顔を歪めて「だめ、あなたの……顔を、見ると……涙がでる」と声を漏らした。
それなりに広い部屋に、すすり泣く声だけが響く。
お母さんの目の前に立ちつくしたままの私はどうすればいいのかわからない。
「お母さま、聞いて?」
頭を撫でるように手を差し出せば、触れた髪の毛はいつも通り柔らかく、美しかった。
「私、あなたの娘をやめるわけじゃないのよ」
――見てあなた。ケルシーが今私に笑いかけたわ
今の私は、ケリー・ルーテアリタスのお腹から生まれた。
――ケルシー、だっこしてあげよう。おいで
今の私の父はジャック・ルーテアリタス。
井伊谷悟と和子も確かに私の両親だけど、この七年を通して、私はジャックとケリーの娘にもなった。
細い指先も、頼りない繊細な横顔も、緑の宝石のような瞳も。
お母さんは、私の母と言うにはあまりにも不自然で受け入れ難かった。
ミルクティー色の髪も、長い脚も、爽やかな笑顔も。
この美しい人は本当に私の父なのだろうかと疑ってしまった。
――ケルシー、おいで。
きょうだいは私のことをそんな風に呼ばないとどこか一歩引いたところにいる自分がいた。
でも、出窓に肘をつきながらふと思う夜があるのだ。
私はこの家族を捨ててまであすかに戻りたいのだろうかと。
いつの間にかケルシーと呼ばれるのに慣れ、優しく鈴を転がしたような音を母の声だと思うようになり、エメラルドグリーンを父の目だと思うようになり、手を差し出せば迷わず手をつないでくれる彼女らをきょうだいと思うようになった。
私は愛されている。
そしてその愛を私は享受し、その愛は七年の歳月をかけて私をルーテアリタス家の娘へと変えていった。
私は井伊谷家の娘でありながら、ルーテアリタス家の娘でもあるのだ。
――ケルシー・ルーテアリタスとイイノヤアスカ、どちらで生きていきたい?
かけがえのない家族を捨ててまで、私はあすかに戻りたいのだろうか。
心は葛藤する。
私はどうすればいいのだろうか。
「私はあなたの娘でいたい」
見つめる先、緑の美しい瞳から大粒の涙が落ちるのが見える。
「名前が変わる私を拒絶しないで」
それは本心から出た言葉だった。
拒絶しないでなんて、七歳の子どもじゃなかなか使わない単語だ。
音もなく抱きしめられる。
優しくて強い力にそっと目をとじれば、なんだか胸が苦しくなってきた。
ねえ、お母さん。
泣いている彼女につられて、心がぐらぐらする。
答えを出せずに進む私を見捨てないで。
◆
「ケルシーが決めたことだから応援しますけれど、でもこの子に何かあったらただじゃおきませんからね」
「お母さま、ウィザードの前だよ。口を慎んで」
「そうよお母さま、コリーの先生でもあるんだから物騒なことは言わないで」
「大丈夫だ、シラー様は実は私たちの後輩だからね。娘を頼んだよ。本当、少しでも何かあったら連絡をくれ。飛んでいく。そして君の首も飛んでいく」
「首が飛ぶのは困りますね。あなたたちの子ですから、ちょっとやそっとのことは大丈夫ですよ。まあ、大切にしますよ」
なんだろうこの会話は。
お母さんが何か釘をさすのは予想がついたけれど、お父さんまで。
今はルーテアリタス家の玄関ホール。
両親ときょうだい、使用人がお見送りをしてくれている。
「なかなか会えなくなるかもしれないけれど、暇があれば会いに行くね」
ありがたいことにロイ王子も見送りに来てくれている。
実はあの連れまわしの件以降、父親同士の付き合いで顔を合わせる機会が多かったのだ。今ではすっかり幼なじみである。
「僕にもお手紙ちょうだいね」
「うん」
「約束ね」
「うん」
一国を担う王の息子と手紙交換なんて、文法間違いとかがありそうだしおこがましくて恐れ多いので、これはたぶん口約束になりそうだ。
「君たちはいつの間に仲が良くなっていたんだ」
握手をする私たちの間をシラー様が平坦な声が割り込んできた。
それには具体的には答えずににこにことシラー様を見上げると、まあいい、とため息が帰ってくる。
「そろそろ行こう。最後に家族と挨拶をして」
お父さん、お母さん、お姉ちゃん、お兄ちゃん、乳母、仲良くしてくれた侍女、といった順にハグをする。
それぞれが声援をくれるのがくすぐったくてうれしい。
「それでは、陣の場所へ」
「それじゃあみんな、またね」
地面に書かれた魔法陣が青白く光りはじめた。
寂しさはある。
でも“さようなら”ではないので、胸が裂けそうな悲しさはない。
「また……」
手を振る。
まだ。
まだ、さようならではない。
でもいつか、私はどちらかの家族と別れを決めなければならない。
いつか、どちらかとさようならをしなければならない。
陣が強く光り、どこからともなく風が吹く。
目の前が白く光る直前に見えたのは、お母さんのやさしげな笑顔だった。