ⅳ
私には、産みの親が二人いる。井伊谷和子とケリー・ルーテアリタスだ。
小柄でたくましい母親と、白く華奢で儚い母親。似ても似つかない二人だけれど、彼女たちはたしかに私の産みの親なのである。
「まあお嬢様、明かりもつけずにそんなところでぼうっとなさって。窓もあけっぱなしじゃあありませんか」
窓際にある二人掛けのソファに身体を横たえていると、乳母がお小言をこぼしながら入室してきた。
ケルシーの場合は彼女も育ての親に入る。
「ところでシラー様、お嬢様のことをとてもお気に召したそうですよ」
乳母の手によって窓が閉められた。
頬を撫でていた風が止む。
訪れるのは静寂だ。
「どうかされましたか?」
私を気遣うような声。穏やかで落ち着いた、優しい乳母の声。
何でも話してごらんなさい、と待ち受ける彼女に、なんでもないのと小さく返す。
どこまでを話せばいいのか、話して理解してもらえるものなのかもわからないから、自分がよくのみ込めていない話を他人にするのは難しい。
聞くとしたら一つだ。
「ねえ、私は普通の子とは違うと思う?」
独り言に日本語を話していたけど、気味がわるかっただろうか。他の子の遊びに混じりはしても何も話さない私をどう見ていたのだろうか。
不安とも恐れとも言い難い、複雑な感情が押し寄せる。
けれどそんな私を見つめた乳母は、びっくりしたような顔をしてからくすりと笑った。
「そうですね、私の息子や今まで見てきた子とは違う、何か不思議なものがありますけどね。たまに何を話しているのかとは思いますけれど。でも、私も、もちろん奥様や旦那様も、お嬢様のごきょうだいも、使用人たちも、お嬢様をとても愛していますし、お嬢様が幸せでいられることを心から願っていますよ」
シラー様から何を言われたのか知りませんが、と付け足して、乳母は私の頭をそっと撫でる。顔を上げれば、薄藤色の和やかな瞳と目が合った。
「さあお嬢様。もうお休みの時間ですよ」
この世界は私に甘い。言われるがまま素直にベッドに寝転んだら、いつものように乳母はふわりと布団をかけてくれる。
「おやすみなさい。良い夢を」
「おやすみなさい、マム」
私は甘やかされている。
――地位も名誉も失って、君の母親は精神を病んで先に死に、君の兄や姉は虐げられ、荒んだ小さな家で一人静かに早死にする未来だ
あすかの人生を選んだときに訪れるかもしれない、お父さんの未来。一家離散の悲惨な結末。
話題には上がらなかったけれど、乳母や使用人たちもきっと酷い目に遭うのだろう。
私のせいで。
私は、私を愛してくれる人を犠牲にしてまで井伊谷あすかに戻りたいのだろうか。
でも、井伊谷あすかとして生きてきた二十七年間で、私はかけがえのないものをたくさん得たのは確かだった。
庭いじりが好きな父親に、どんくさい母親、彼氏の話しかしない妹。
結婚できない同盟を組んでいた友だちは元気だろうか。
不器用で押しに弱い先輩は、仕事を頑張っているだろうか。
確かにケルシーの世界は刺激に満ちている。目に映る全てが新鮮で驚きに満ちている。
それに比べればあすかの世界は、変化なんて些細なものしかなくて、輝くものもほとんどなかった。
けれど私はあすかが生きる現実も愛していた。
あすかが生きる居心地のいい世界を気に入っていた。
失って初めて気付くものは大きい。
ケルシーとして生き続けるなら、私はあすかの大切なものと決別しなければならないのだろう。
全てを傷つけるリスクを負ってまであすかに戻る可能性にかけるか、過去の自分を切り捨ててケルシーの人生を歩むか。
葛藤。
私はどうすればいいのだろう。
誰もいなくなった薄暗い部屋でひとり、はあっと息を吐いて目元を両腕で覆う。
何も考えたくないし、何を考えるべきかもわからない。
◆
シラー様との再会は、案外すぐに果たされた。
国王も参加する大々的なパーティーに、シラー様は招待客として、私は両親に連れられて、姿を現したのだった。
「ピピのジュースだ。甘酸っぱいのは好きか?」
「ああ、はい、ありがとうございます。あの、シラー様は王様たちにご挨拶はしなくてもいいのですか?」
「あらかたもう済ませた。君の父親と違って私はそういう窮屈な社交辞令の時間はあまり意味をなさないんだよ」
要するにあまり挨拶まわりをする必要がない仕事についているらしい。
この人の表現はどうも回りくどくて面倒臭い。
そうですか、と返事をしてピピのジュースを一口いただく。やっぱり酸っぱい。
「そのお化けみたいな髪で王様に会って大丈夫だったんですか?」
「問題ない。皆この姿を見慣れているからね」
「片方によけるか切ればいいと思いますよ、そのほうがあなたの瞳がよく見えますもの」
「小言は後でいい」
「そんなつもりで言ったわけじゃないんですよ」
「そうか」
今、私たちは庭にある花園の木陰にいる。
会は始まって間もないので、庭に出ている人は私たちか警備の人しかいない。
両親はよほどシラー様を信頼しているのか、私たちが二人だけで外に出ることを二つ返事で了承した。
「それで、君は私に話したいことがあるんじゃないのか?」
西洋風に象られた左右対称の庭木に視線を向けたまま、「ええ」とだけ返事をする。唇をペロリとなめれば、僅かにピピの実の酸っぱい味がした。
ふう、とため息をついて姿勢を正す。
「……決めたんです、これからどうしたいか」
まっすぐにシラー様を見つめると、シラー様はそのしわがれた声で続きを抑揚なく促した。
「正直に申し上げますと――」
そして私は懺悔を始める。
「――ケルシーとしてのほぼ六年、ずっと現実感がありませんでした。性別こそ変わりませんが、鏡に映る顔は黒髪でも黒目でもなくて、肌の色は白いし、身長も縮んで幼く、約四半世紀生きてきた容姿とは全く別のもので……」
思っていることを言葉にするというのは、今まで曖昧にしておいたものに明白な形を与える作業に等しい。誤魔化していた感情を認めるこの行為は、多少の勇気がいる。それに、言葉の凶器が誰かを傷つけやしないだろうかとハラハラもする。
「お母様と触れあうたびに思いました。私のお母さんはもっと指が太くってガサツだと。お父様と話すたびに思いました。私のお父さんはもっと口数が少なくて、友だちなんか本当に少なそうだったし、不器用だって。お兄様やお姉様と遊んでもらうたびに、私には妹がいるはずなのにって思って」
けれど話しはじめれば止まらなかった。溢れだした思いが口からこぼれ落ちていく。
「不満があるわけじゃないんです。いつもみんなは私を愛してくれました。それはもうとびっきりに。末っ子っていうのもあるんでしょうね。使用人でさえ私に甘くて。それで、みんなの口の動きひとつひとつ、指先の動きひとつひとつが私に愛情を伝えるんです」
花開くのを待つ柔らかいつぼみが、私の言葉を吸いとっているかのように思えるほど、ここはとても静かだった。
「けれど私にはあの家は大きすぎて、部屋にあるものは高価すぎて……世界は平和で私をすくすく育てますけど、スマホはないし、聞き慣れない言語が使われているし、何が常識で何が非常識か分からないし」
思った以上に私は不満を溜めていたらしい。声になるよりも先に次々と言葉が浮かんでしまって上手に話せない。
「今もこうやって話していますけど、日本語を忘れたらどうしようって怖いんです。親のことをオトウサマ、オカアサマなんて、何そのお嬢様言葉って思って、冷静な私が後ろの方で私を嘲笑うように見ているんです。早く元に戻らないと自分の居場所がなくなっちゃうんじゃないかって焦るんです。私は今どうなってるんだろうって心配で仕方がないんです」
シラー様に会うまでの間、私はずっとこれからどうしたいのかを自分へ問いかけてきた。
考えているせいでいつもよりさらに大人しくなったからか、家族や使用人たちは心配してくれたけれど、取り繕えないくらいにはかなりの長い間を悩んで過ごした。
そして出した結論がこれである。
「……あすかに戻りたいです」
元の姿で、元の世界に戻って、井伊谷あすかの家族と大切な人たちに会いたい。
上手くいったとして、ケルシーはどうなるのか、ケルシーの周りの人はどうなるかを考えなかったわけではない。
「全てを天秤にかけて……それで、私はあすかに戻りたいと思ったんです」
ごめんなさい、みんな、と心のなかで謝罪を繰り返す。
庭の先の建物からは賑やかな音楽が聞こえるけれど、ここは全く静かだ。
シラー様はただ黙って耳を傾けていたけれど、一通り私が喋り終わるのを見て「そうか」といつも通りの相槌を打った。
「君がそう選ぶならそれでいい。私は全力で君の親が不幸にならないように仕掛けるだけだ」
何も言わなくなった私に、シラー様の声が落ちてくる。
「落ち込むことはない。君がどちらを選んでもそれは正解だ」
それは珍しく感情の乗った声だった。
まるで決断を下した私を褒めるかのような声色。
「あとは、イイノヤアスカとしての自分を忘れずに、本来のケルシーの役割を全うするだけだ」
透明な空気が庭園を抜けていき、それにあわせて私のスカートが微かに揺れた。
胸元をおさえて、ああ、と思った。
どうやら私は傷つくかもしれないと身構えていたらしい。正直に今の気持ちを吐露して、咎められるのではないかと考えていたことに気づいた。
だって、私をそのまま受け入れてくれたシラー様に、なんだか無性に安心してしまったのだから。
◆
だからといって聞いてない。
ケルシーとしての役割が早速あることを。
――それでは早速だが、王子を連れまわしなさい
なにそれ。
――できるだけ強引に
連れまわすってどういうこと?
お父さんと一緒に国王のもとへ挨拶をしに行った時に見た、アッシュグレーの髪の少年を探す。
気分はよくない。
不敬罪で罰せられたりしませんかと問えば、子どもにそこまでしないとシラー様は答えたけれど、王子の嫌がることをして両親が謝るはめになったりしないだろうかと心配になる。
「いた。ロイ王子」
そうこうしているうちに、広い広い会場の片隅のきらびやかな花飾りが溢れる華やかな空間で、多くのお友達に囲まれてにこにこと笑っている少年を見つけた。
明るいアッシュグレーの絹のような髪に、なめらかな雪肌、杏色の唇、深い青の大きな瞳。
私もまあまあ美少女の類なのではと思うけれど、王子は恐ろしいほどの美少年だ。
あまり男性と縁がなかったあすかの人生経験が邪魔をして、あの超絶美少年に接するのが躊躇われる。
大丈夫、相手は七歳、私は三十路の女。こんな小さな子どもに苦手意識を発揮してどうするんだ。
それにしても本来のケルシーの役割とは一体何なのか。
あすかに戻る決意を表明したばかりの私は、今さら後に引けない気持ちをひきずって人だかりにそっと近づく。
ロイ王子に気を取られて気にしていなかったけれど、周りの子どもたちもみんな可愛い。まるで天使の集まりのようだ。
やりにくい。
あすかに比べてケルシーの容姿がグレードアップしたからと言って、この集団に入って行くのはやっぱり気おくれがするのだ。
いや大丈夫、相手は七歳、私は三十路の女。
天使たちの間を縫って、王子へとそろそろと近づいていく。
王子のそばで控えている執事に、警戒を示した様子は見られない。子どもだから油断しているのだろうか。すみません、いまからこの人を無理矢理連れまわします。
するとこちらへまっすぐ向かってくる子どもに気付いたのか、王子がそのロイヤルブルーの透きとおった瞳をこちらへとまっすぐ向けた。
視線が絡む。
彼の瞳が、私をその場へ縫い付ける。
ああ。なんて美しいんだろう。それはまるで、森の奥深く、月光から落ちた露によって育てられるという夢幻花よう。
その美しさは罪だ。彼はこの先、一体どれほどの人の心を乱して生きていくのだろう。
「ケルシー?」
愛らしい声に名前を呼ばれてはっとする。
いけないいけない。正気に戻らなきゃ。
こんな綺麗な子なのだ。攫われないように国王たちは気をつけた方がいいと思う。
「どうしたの、ケルシー?」
社交界の場に慣れているからなのか、彼は私の名前をしっかり覚えておいてくれたらしい。
周りの子も突然やってきた私に不思議そうな視線を向けている。
天使よ、私の未来のために、この少年を連れまわすことを許してください。
こっちへおいで、と王子が声をかけてくれる前に、私は彼の華奢な腕をむんずとつかんだ。
おや、と執事が顔色を変えるけれどもう遅い。
私は彼を半ば引き摺るような形で、走り出したのだった。
◆
心臓が止まるかと思った。
相手は一国を担う王の息子である。
とりあえずシラー様は彼を強引に連れまわせと言っていたので、彼の腕を手放さずに走りまくった。大人たちの足元を潜り抜けながら。
執事は追ってはこなかった。代わりに道行く先々の警備の人が、顔だけで私たちを追いかけては胸元の花飾りに何かを報告していた。
どうやらこの引き摺りまわしの刑を見張っているらしい。
ちなみに天使たちの中では追いかけてくる者もいたけれど、人ごみを潜り抜けている間に意図せず撒いてしまったようだ。
そして二人きりになったわけだけれど、連れまわすのにどうすればいいか分からなかった私は、とりあえずケーキバイキングの場所へ行ってスイーツを彼の口へ放り込み、テラスへダッシュしてスカートを翻しまくり、庭を駆け回ってコリャの花を押し付け、カーテンへ潜りこみ、つるつるの廊下を滑りまくった。
この年の男女の約一歳差は大きい。
私はぜえぜえと息切れをしているけれど、王子はきょとんとして少し息を切らしているだけで疲れは見えない。
今はだだっ広い玄関ホールにいる。私たち以外にはスタッフらしい女性と警備員しかいない。大人たちはまだ挨拶回りの時間が終わっていないようだ。
「ケルシー、どうしたの?」
内面おろおろする私を、困ったような青の瞳が射抜く。
ああ、眉尻を下げた姿もお美しい。
ではなくて。
連れまわせと言われたので連れまわしています、とは言えないから、都合よく私はだんまりなケルシーを演じる。
すると彼は困ったようにふにゃりと笑って、こう言ったのだった。
「次はどこに連れていってくれるの?」
私は驚いた。この天使はまだ私の意味不明なランニングに付き合ってくれるらしい。
でもどうすればいいんだろうか。
ある程度彼を連れまわしたけれど、このくらいで“ケルシーの役割”とやらは果たされたのだろうか。
わからない。シラー様に聞かないとわからない。
とりあえずもう一度庭にでも行っておこう。それでみんなの元へ帰ろう。ああ、誰にも怒られませんように。
私はその宝石のような瞳を見つめたまま庭を指さした。
そして腕を引っ張り、目的地へ駆けだす。
突然走りだした私にロイ王子は一瞬びっくりしたようだったけれど、一瞬だけ微かに笑ってから歩調を合わせてくれた。
◆
もう一度庭に出たのが功を奏したと思ったのは噴水の前に来た時だった。
なんとなく“ケルシーの役割”が理解できたからだ。
風にアッシュグレーの髪がさらさらと揺れる。
頬を少しだけ桃色に染めて、青い瞳をキラキラと輝かせた王子。
その視線の先には、ひとり噴水を覗きこんで水をさわっている少女の姿。
その横顔は囚われのお姫様かのように儚げで柔らかく、春風のように暖かだ。
私たちと同年代のはずなのに、どこをどうしたらこんなにも惹きつけられる魅力が出るのだろうか。
私は思わず息をのむ。
人が恋に落ちる姿をはじめて見た。
子どもだから反応が素直なのかもしれない。王子は少女に釘付けだ。
そうか、私の役割はこれだったのか。
掴んでいた腕をそっと離す。
後ろへ下がろうとした足が芝生を踏んでさくりと音を立てたけれど、彼は少女に夢中で気付いた様子はない。
ふと視線を感じて横を見ると、花園の木陰にシラー様が立っていた。
――本来のケルシーの役割を全うしなければいけない
シラー様の言葉を思い出す。
そういうこと。
なるべく音をたてないようにそっとその場を離れる。
そういうことなのね。
黙ったままシラー様の足元に抱きつき、同じように陰から二人を眺める。
「シラー様、花びらを舞わせる魔法ってあるんですか?」
「ある」
「それなら、あの噴水のところにやってくれませんか?」
「どうしてだ」
「ロマンチックでしょう?」
ついそんなことを言えば、シラー様はずいぶんと余裕だなと呟いて手のひらを下から上へと一度だけ掻きあげた。
するとどうだろう。
ふわりと穏やかな風が吹いて、つぼみだった花が一斉に開きだしたのだ。
そして柔らかく舞う花弁が二人を包みこむ。
ああ、物語が始まる予感がする。
「ねえ、シラー様、ここにいても邪魔なだけですよ。だから、お母様たちのところへ連れてってください」
今度はシラー様の骨っぽい腕をつかんで引っ張れば、シラー様はそうだなといって歩みを進め始めた。
花弁が舞う。
シラー様の魔法が、この空間を包む。
――ケルシーの役割
物語が動きだす予感がする。
なるほど、あすかの世界を取り戻すためには、二人の恋のキューピッドをしなければいけないらしい。