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私は興奮した。
私はおかしくはなかったのだ。
ケルシーとは別の名前を持つ記憶が鮮明にあることは、何らおかしくなかったのだ。
私は確かに存在した。
私は確かに、日本の一軒家で、日本の両親に育てられ、この部屋で過ごした軌跡を持っていた。
まるで何かを誰かに認められたような嬉しさを感じて、思わず笑顔がこぼれる。
“私”はケルシーが生み出した妄想ではなかった!
元の世界だ!
姿はどうであれ、慣れ親しんだ私の知っている世界だ!
『シラー様も私と同じ体験をしてる人なの?』
ある日突然、別の人として人生を歩んだひとなの?
期待を込めてシラー様の方を振り返る。咄嗟に出てきたのは日本語だった。
『それとも私をこんな風にした張本人?』
勉強机の棚にあるアルバムを手に取る。ページをめくれば、高校の頃の部活仲間がピースサインをして写真におさまっていた。もちろん友だちの横には、二つくくりをした若くて垢ぬけない私も笑っている。
懐かしすぎて禿げそう。
一人舞い上がる私とは真逆で、なぜかシラー様は何も言わない。
私の部屋に入ってから一歩も動かずに、部屋の隅で幽霊のように佇んでいる。
『もしかしてシラー様の魔法でこんな風になったとか?』
だとしたら許さないという言葉は飲みこんで、意地悪く笑ってみる。
もちろん反応はない。もしかしたら反応が薄いだけかもしれない。
けれどそんなことはどうでもいい私は笑顔が止まらない。口角が上がって仕方がない。
そしてそのまま視線を廊下へと繋がるドアへと遣る。
お母さんはびっくりするだろうか。
お父さんはこの姿をみて私と分かってくれるだろうか。
妹は今何をしているんだろう。
私がいなくなって仕事先はどうなっただろう。
「君の名前は?」
早く家族に会いたい気持ちと、ケルシーの姿として五年以上を生きてきた不安が入り混じって何とも言えない気持ちになる私に、シラー様が静かに声をかけた。
鼓膜に届く言語は、日本語ではない。
『井伊谷あすか』
ケルシーとは違う、私の名前は、井伊谷あすか。日本の両親がつけてくれた名前。
「……何歳?」
『ケルシーの分も合わせれば……三十二歳』
二十七歳のある日、私は突然ケルシーとして生きることになった。
本当に頑張って来たと思う。
子どもは経験を持っていないから子どもでいられるのだ。
中途半端に生きた記憶のある私には実に生きにくい毎日だった。
感慨に浸る私の視界の端で、シラー様は、どういうことだ、と零した。
その呟きが、まるで水の中に絵の具を垂らしたように私のこころを奇妙に染めていく。
何だかシラー様の様子がおかしい。
今まで美しいと見つめていた宝石が実はプラスチックのガラクタなのではないかと疑わしく感じはじめたときのように、急に気持ちが冷えてゆらゆらと不安定になる。
『お母さんたちに会いに行っていい?』
不穏な空気が漂い出したこの場所から逃げたくて、思わずドアを指さす。
けれど私が行動に移すよりも早く、シラー様はこう言った。
「イイノヤアスカ、君が先ほどから何語を話しているのか分からない」
「……え?」
無意識に唇へ触れる。
私が話していたのは、日本語だ。
「それと、その扉の先には行けない。ここは私が作った空間で、“最初に足を踏み入れた者が一番好む場所”を作り出す魔法の一つだ」
「え?」
「イイノヤアスカ。時間と、君に聞きたいことは山ほどある。付き合ってくれるね?」
絶句。
どうやらシラー様は人を上げて落とすタイプの人間らしい。
◆
私は最近習っている言葉を駆使して、コトノイキサツというものをシラー様にできるかぎり細かく説明した。根掘り葉掘り聞かれたとも言える。
「それで君の年齢はいくつになるんだ?」
「五歳とも三十二歳とも言えます」
「そこをもっと詳しく」
私はベッドへ座って、シラー様は勉強机の椅子に座って。幼女と大人が神妙な顔を突き合わせているというのは、何とも奇妙なものだと思う。
「それでは君は、見た目は子どもだが中身は大人というわけだ」
「そういうことになるんでしょうかね」
そういう表現をされると、薬で体を縮められた高校生探偵を想像してしまうのは私だけだろうか。
「君が普通の子どもではないということは、ジャックとケリー、あー、君の両親から聞いていたが、不思議なこともあるもんだ」
「お父様とお母様が……」
目線は床に落ちたまま、顔をあげる気にもなれない。
「君の乳母も、時々変な呪文を話すと。その、先ほどの言語……」
「日本語と言います」
「ニホンゴは乳母の前で頻繁に使うのか?」
「いえ、独りごとで……つい……」
「なるほど、そうか」
「はい……」
そして訪れる沈黙。永い前髪で良く見えないけれどシラー様は何かを考えている様子だ。
それにしても両親からそんな話をされていたとは。予想通りなのに少しショックなのは何故だろう。
やっぱりシラー様の目的は私にあったらしい。
乳母に関しても、優しく接してくれていたのに実は気味悪がっていたのかと思うと地味に傷つく。
今からシラー様が私をどうするつもりかは分からないけれど、この時間が終わって乳母や両親と会うのが億劫になってしまった。手持無沙汰な指先をくせ毛に絡めて、ため息を吐く。
壁のコルクボードに張り付けられた写真の中の私の笑顔がまぶしい。あなたは十五年後、こんなことになっているんだよと伝えてあげたい。
「ああ、一応伝えるが、今日は私から頼んで君に会いに来たんだ。両親や使用人からの依頼ではない。あの男たちは私の部下だが私とは関係ない要件で来ている」
落ち込む私に、希望と不安をあおる言葉が落ちてきた。
どういうことですかと問えば、シラー様は、私を何者だと思うかと問い返してくる。
知らないし。あなたの性別さえ知らないし。
「ウィザードですか」
「予言者だ。私の得意な魔法の一つは、その者の綴る物語が見えるというものでね。ある日君の父親に会った時に困った未来が見えたんだよ」
「困った未来?」
「あくまで分岐の一つとして見えたものだが。知りたいか?」
この人は私にここまで話しておいて続きを知りたくないと言うとでも思っているんだろうか、と考えながらハイと返事をする。
するとシラー様は、今のところ大きく2つの未来が見える、と指を二本立てた。
「一つは、多少のトラブルはあれど君の母親と仲睦ましく暮らし、穏やかな老後を迎える未来だ」
指が一つ折りたたまれた。
「それからもう一つは、地位も名誉も失って、君の母親は精神を病んで先に死に、君の兄や姉は虐げられ、荒んだ小さな家で一人静かに早死にする未来だ」
そして諸悪の根源に、君の姿が見える。
シラー様は確かにそう言った。
その抑揚のない声で。
「え?」
信じられなくて、私は思わず笑うしかない。
私が原因で? 家族が、そんなことになるの?
「そして諸悪の根源の横に、私の姿も見えた」
え?
それって、家族の不幸にシラー様も一枚かんでいるということ?
人差し指を立てたままの目の前の人物はこう続ける。
「ところで君は、ケルシー・ルーテアリタスとイイノヤアスカ、どちらで生きていきたい?」
戸惑ってしまう。
話が見えない。
「ケルシーとして生きるなら、イイノヤアスカは封印してこの世界を生きる覚悟を決めなければならない。イイノヤアスカとして生きたいなら、本来のケルシーを演じなければならない」
ただし、とシラー様は続ける。
「イイノヤアスカを選べば、君の両親の未来は暗い」
どういうこと。
ちょっと五歳児でもわかる説明を誰か。
「ケルシーとして生きれば家族は幸せでいられるんですか?」
「そうだが、その場合、君はイイノヤアスカの身体を取り戻すチャンスを失うことになる」
ええ?
もうほんとどういうこと?
「私が元に戻れる可能性があるということですか?」
そう問えば、絶対ではない、と人差し指を鼻先まで突き出された。びっくりするからヤメテ。
「ちなみに、どうすれば元に戻れるんですか?」
「君がケルシーとしての役割を全うすれば戻れる可能性はある」
「えっと……?」
どうやらシラー様は教師には向いていないらしい。人に物事を教えるのが驚くほど下手だ。
全力でクエスチョンマークを作って、さらに詳しい説明を求めれば、目の前の人物は人差し指を眉間に寄せて目を閉じ、難しい顔で唸りだした。
「つまり……私は説明が下手なんだが……」
それはわかる。
「未来と言うのは、いくつも枝分かれしていて、その時々のタイミングでたどり着く未来がコロコロと変わる。あー……例えば、君がイイノヤアスカの記憶がなく純粋にケルシーとして生まれたなら、君の家族がたどり着く未来は大方不幸なものだったが……えー……君にイイノヤアスカの記憶がある時点でそのルートは消えたわけだ」
そこ。そこからよくわからない。え? ルート?
「……あー、それで、その、君がケルシーとして生きるなら、君はイイノヤアスカの人生、家族、世界を捨ててケルシーが身を置く世界で生きなければならなくなる。でも、イイノヤアスカとして生きてきた性格は今さら変えられない。イイノヤアスカの性格のまま、ケルシーとして生きるんだ。その場合、君の家族は平穏に過ごすことができる」
つまりどういうことだ。
「……で、もしも君が」
難しそうな表情のシラー様は、私のクエスチョンマークを無視して話を先に進めた。
「イイノヤアスカとして元の世界に戻りたいなら、君はケルシーを演じて役割を全うする必要がある。……しかし君の家族がたどり着く未来は不幸だ」
そこが一番よくわからない。
「そこで私が登場する。私は君の両親にとても返しがたい恩がある。だから君の両親を不幸にしないように、監督役を勤めようと思う。」
「かんとくやく」
「君がどう役割を全うすればいいか、どう動けばいいか、予言者である私が指示すると言うことさ」
「ほう」
「ただし」
「ただし」
「失敗すれば君の家族は不幸に陥る」
よく考えてくれればいい。答えはまた会った時に聞かせてくれればいい。
そう言ってシラー様は立てっぱなしだった人差し指を下へおろした。
写真の中で私が笑っている。手元にお母さんが作ってくれたお弁当を抱えながら。
ぎゅっと握りしめていたせいで、ワインレッドのスカートにしわができる。五歳の誕生日にお父さんが買ってきてくれたものだ。
何もかもが飲み込めないでいるけれど、どうやら私はケルシー・ルーテアリタスか、井伊谷あすかか、どちらかを選ばなければならないらしい。