プラットホーム
もうすぐ正午を迎える時刻だった。緊急のアナウンスが終わると黒いスーツを着た若い男は露骨に不機嫌な表情を浮かべ、周りに聞こえるのも構わずに、フザケンナヨ!、と大きな声を出した。
「この先の踏み切りで事故があったみたい」
吉崎美代子はスマートフォンの画面を見ながらふざけて吊革にぶら下がるようにして掴まっている隣の背の高い男に話しかけた。
ミヨコ二十四歳。長い髪を耳にかけた細身の女。いくらか低い声。ベージュ色の麻のジャケットの下は胸のあたりに数枚の青い花弁がプリントされた白いTシャツ。下はグレーのフレアパンツにヒールの低い黒のパンプス。
「そうか、じゃあしょうがないな」
野村高幸はその言葉を訊いても顔色ひとつ変えず、ただじっと斜め上方にある広告を見つめていた。
タカユキ二十六歳。肘の上まで捲り上げた黒いチェックのネルシャツから筋肉質の腕が吊革へと伸びている。
ふたりを乗せた上り電車が住宅街のなかを抜ける右曲がりの大きなカーブに差し掛かったとき、もう一度車内にアナウンスが流れた。
「この先踏切事故発生のため、及び車両点検を兼ねて次の駅で十分ばかり停車いたします」
電車内は平日にもかかわらず混雑していた。アナウンスが繰り返し流されるたびに動揺が乗客のあいだに広がり、ざわめいた。
「事故といってもトラックが踏切のなかで立ち往生しているだけだって」
ミヨコは右手だけで器用にスマホを操作している。
「まあこの後の予定といっても、ふたりで昼飯食うだけだから」
そういうとタカユキは気楽な様子でHEXの「大阪ブルース」を軽くハミングしはじめた。
陽を受けて濡れたように輝く六両編成の黄色い電車はしばらく徐行を続けていたためにブレーキ音も立てず静かに駅へと滑り込んだ。
電車のドアが開くとすぐに黒いスーツ姿の若い男が飛び出してプラットホームを駆け抜けた。
「危険ですのでホームは走らないで、走らないで下さい」
駅員のいくらか怒気を含んだ声がスピーカーを通じてホームに響き渡る。堰を切ったように大勢の人が電車の外へと流れていく。十分程停車いたします、という車内放送が流れた。
「タカちゃん、さっきから何見てるの?」ミヨコはドア付近の手すりに掴まりながらタカユキの耳許に少しだけ背伸びして口を寄せた。タカユキはミヨコより二十センチ程背が高かった。
「いや、あのお婆さん・・・」タカユキはそう言ってホームにあるベンチの傍にいる老人を陽の当る窓越しに顎で示した。
「なに?」
「何してるのかなと思ってさ」
白髪で小柄な老婆は窮屈そうに腰を曲げ、ベンチの下を覗きこんでいた。
「何か探してるんじゃないかしら」ミヨコは手にしたスマホを意味もなくいじりながら興味なさそうに言った。
タカユキとミヨコは恋人同士だ。付き合いだしてもう時期一年を迎えようとしている。タカユキは南の地方にある大学を卒業すると、就職口も決まらないまま手荷物一つで何のあてもなく上京してきた。タカユキはアルバイトで生計を立てていたものの職を転々とした。それから五つ目のアルバイト先である運送会社に腰を落ち着けた頃、出先である下町の小さな機械部品工場に出向いた時にタカユキはミヨコと知り合った。ミヨコはその工場に事務員として勤めていた。去年の春の頃だった。二人の職場には若い人が少ないせいもあってか、二人は互いに惹かれ合い、すぐに交際が始まったのだった。
「俺ちょっと行ってくる」そう言うとタカユキはシューズの底を鳴らして小走りに駅へと降り立った。
空は青く、春の暖かな風が吹くとタカユキの頬を撫でた。陽の光が駅前に並ぶビルの稜角や反対側の線路の向こうにある広告板を鋭く照らしていた。予備校や化粧品の広告板が陽の光によって白く斜めに削りとられていた。ホームを行き交う人を縫ってタカユキは老婆の傍に近寄ると、膝に手を当てて中腰になって話しかけた。
「何かお探しですか」
老婆は不信そうに顔を上げた。
「ええ、まあ・・・」
「何をお探しですか?」
「髪留めをね、ここら辺りで落としたみたいなの」老婆はタカユキの顔を見ず、ベンチの下に手を入れながら言った。
「どんな?」タカユキは左右に眼を配りながら老婆に訊いた。
その時タカユキは電気に撃たれるようにして身動きがとれなくなった。前にも似たようなことがあったことをタカユキは思い出していた。そうしてタカユキは深い感慨に耽っていった。頭上から射す春の陽が暑い程だった。
「タカちゃん、何見てるの?」
自分の顔をジッと見つめるタカユキを不思議に思い、竹内真奈は訊いた。プラットホームにはタカユキとマナの二人しかいなかった。三月の終わりの強い風が吹くとマナの茶色に染めた短い髪も風に揺れた。朝日が眩しかった。タカユキはジーンズに黒いブルゾン姿で、手には青い大きなドラムバックを一つ持っていた。マナはジーンズにグレーのパーカーを合わせ、その上にタカユキとお揃いの黒いブルゾンを羽織っていた。二人は二年も連れ添ってきた恋人同士だった。
「しばらく会えなくなるから・・・」そう言うとタカユキは意識的にマナから視線を外した。線路の上を滑るように幾つかの枯葉が舞っていた。
「別れるわけじゃないんだし。それに私ゴールデンウィークになったら上京するからさ」そう言ってマナは笑った。
タカユキは傍のベンチに腰を下ろし、煙草に火を点けた。
「やだ」
マナがいきなり大きな声を上げた。
「どうした」煙草の煙を旨そうに吐き出しながらタカユキは訊いた。
「どうしよう、私財布落としたみたい」
馬鹿、そう言うとタカユキは笑いながらマナの傍へ行った。マナは今にも泣きだしそうな顔をしていた。それを見てタカユキは軽くマナの頭を撫でた。
「私あっち探してくる」
そう言い残してマナは片田舎の小さな駅の改札口に向かって一目散に走りだした。小さくなっていくその背中をしばらく見つめたあと、タカユキは辺りを見回した。明け方の太陽の光がプラットホームで跳ねている。それからさっきまで自分が座っていたベンチの下を試しに覗いてみた。するとあっけなくもそこに小さなピンク色の財布が落ちているのを見つけた。タカユキは膝を着き、手を伸ばしてその財布を拾った。
「おーい、あったぞ」タカユキはマナの走り去った方角に向かって大声で叫んだ。声が届いたのだろう、マナはゆっくりと歩いて戻ってきた。なかばふてくされるようにして、その瞳に涙を浮かべながら。
「瑠璃色の髪留めなのよ」
しかしタカユキの耳には届かなかった。タカユキは思い出していた。マナがゴールデンウィークに上京してこなかった日のことを。二人は遠距離恋愛という形になってからどちらから切り出すともなく自然消滅的に別れることになってしまった。あれからもう四年の月日が流れていた。
怪訝に思ったものの、老婆はもう一度タカユキに呼びかけた。
「なんですか」慌ててタカユキは応えた。
「だから、亡くなった主人がくれた想い出の品なんです。私が探しているのは綺麗な瑠璃色をした髪留めなんです」
それを聞いてタカユキは少し躊躇してから問い直した。
「すいません、瑠璃色ってどんな色でしょうか」
老婆はビックリした表情を浮かべたあと、口許を手で抑え笑いだした。
「あら、ごめんなさい。今の若い人にはわからないかしら。瑠璃色っていうのは、何と言えばいいのかしら、紫がかった青というか、そんな色のことよ」
「そうですか」
タカユキはそれを聞いて顔を赤らめた。その恥ずかしさを隠すようにタカユキは立ち上がり、反対側のベンチや少し離れた場所にあるベンチの下を隈なく探してみた。老婆はあいかわらず同じベンチの下を覗きこんでいる。停まっている電車の窓から二人の様子を怪訝な顔つきで見ている者もいた。その中にはミヨコの姿もあった。ミヨコはドアから身を乗り出してタカユキを呼んだ。しかしタカユキは耳を貸さず、あてどもなく瑠璃色の髪留めを探した。
「タカちゃん、もうすぐ時間だよ」
ミヨコは再度呼びかけた。発車のベルが構内に響いた。それを聞いて仕方なくミヨコもプラットホームへと降り、タカユキの傍へ寄った。
タカユキは膝を着き、白いチノパンを汚しながら地べたに顔をつけ自動販売機の下を覗きこんでいた。ミヨコは呆れながら訊いた。
「で、何を探してるの?」
タカユキはその時陰になった奥の方に鈍く紺色に輝いているものを見つけた。あれかも知れない、そう思ったタカユキは着ていたネルシャツを脱ぎ捨て、Vネックの白いTシャツ一枚になると、自動販売機の下へと手を伸ばした。
「ねえ、聞いてる?」
「ああ、聞こえてるよ、あれは想い出さ」タカユキは身を捩りながら手を伸ばし、そう応えた。額に浮かんだ汗が光っている。
「想い出?」
「そう、想い出さ」
ベルが鳴り止むと、タカユキとミヨコの乗っていた電車のドアが閉まった。電車は次の駅へ向けてゆっくりと動きだした。