ラノベは行き詰ってる
コピー戦略には批判が多い。それはパクリに対する不快感だけじゃない。変わったものを作ったほうが成功するって小説のセオリーがあるから。でもそれは漫画物語でも可能だろうか?私は使えないと思ってる。セオリーや過去の知恵は役に立つ。ただ使い方は慎重になら無いといけない。過去の小説と今のラノベじゃ大きな開きがある。
それは何か?と言うと私が他のエッセイで書いてきたラノベが頭をあまり使わない物語だから。脳を使うことをエネルギー消費で見ると、省エネこそが頭を使わない物語の面白さになる。読者のエネルギーを多大に使わせることはラノベに向いてない。それは気軽に楽しむライトであると言う定義とも一致してる。
頭を使わない物語は受けるパターンが限られてしまう。物語を複雑化できないから。漫画物語について今の時代に行き詰るを感じてるならそれは正しい見方だと思う。漫画物語は複雑化が向いてない。高度に発達した漫画物語はやがて限界が来る。ゆえに過去作られた数少ないパターンの使いまわしが多発する。
私は芸術は複雑化するのが常だと思ってる。複雑なものは受け手の脳を酷使する。大衆的と芸術的は相反する関係にあると私は見ている。現代社会の社会構造にも原因があると見ている。先進国は過去の貴族と平民のような教育格差が無い。なのに相変わらず大衆的であるのは過去とあまり変わり無い。
それは現代社会が高度な分業社会を形成してるからだと見ている。水道屋さんは水道の知識経験なら高いレベルの知性を持ってる。でもこの人も大衆として大きな枠に入ってしまうだろう。専門的な知性ならどの人も高いそれはゼネラリスト的なホワイトワーカーでもその業界の知識経験がある。特に日本人は仕事の外に出ると途端に幼稚になってしまう。大衆と低く見るように大衆が互いになってるんだと思う。
ライト物語が大衆的な文化なら複雑化の方向に行くわけが無い。ならその創作はパターンの多様化に行き詰る。それゆえに成功したパターンのコピーこそが合理的戦略になる。
以前からエッセイでラノベはブルーオーシャン戦略が使いにくいと書いたのはこれになる。ラノベは遅れてきた漫画物語なのですぐに過去の漫画物語のノウハウを吸収して創作としての行き詰まりを迎えやすいと私は見てる。賢い選択としては行き詰った創作は参入するなになる。そもそもラノベを選択するのが間違ってる。じゃ何を選択すれば良いか?ならそう簡単じゃない。
作り手の好き嫌いだけで上手く行くとは私は思わない。創作自体を好きになったほうが良い。せめて物語を好きならメディアに縛られた選択は避けたほうが良い。
創作の黎明期成長期に有効なブルーオーシャン戦略は、高度化複雑化できない大衆文化では成熟した行き詰まりを見せた時有効な戦略じゃない。
まだ他にもある。受け手が積極的に新奇性を求めるような能動的な土台が無いと新奇性が価値として認められない。読者の視点で面白い物を提供する事が重要な漫画物語では新奇性は思ったより価値にならない。例えば分かりやすい例として、詳しい人がネットで、これこれは過去のあの作品で使われていたパターンだと指摘が合ったとする。その作品はつまらないとされるか?と言うとならない。大半の人は知らないから。それが頭を使わないって事になる。もしくは知ってても忘れてるかもしれない。いちいちラノベでそんな細かい事気にしないよと私なら言うと思う。折角知らなくて楽しんでるのにつまらん水指してると思う。あなたが知ってて楽しくない気持ちなんてこっちは知らないからと私なら言いたい。
このケースの場合、知的に見た場合につまらない理由はある程度正しいが、誰しもがそう見てるのか?なら作品の価値とはどういうものなんだ?これに言及できてない。特に重箱の隅を突くようなマイナー作品持ってきて指摘するってちょっと痛々しいと感じてしまう。作品分析は出来てるけど、多くの人の面白さの分析は出来てない。
それを共有しない。それが頭をあまり使わない大衆娯楽の根幹になる。複雑化しない創作は受けるパターンが少なくなるので個性的で新奇なパターンなんて皆無。あれもやったこれもやった。そんな中でブルーオーシャンは有効じゃない。誰かが作った新しいものに追随したほうが良い。今の時代漫画物語は誰かが崖に落ちて助かるまで待ってから飛び降りたほうが良い。
この戦略を私が言ってしまうのは矛盾してる。折角崖に落ちてくれる先駆者に思いとどまらせてしまうから。それは私は別に創作での成功をあまり望んで無いから。詐欺師みたいな言い訳だけど、何故良い方法を黙っておかずに教えるのか?なら最初から儲けようという気が無いから。
以上が異世界転生転移に乗り遅れて、上手く行った人達を見て悔しがってる流行遅れの戯言です。