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千歳雨  作者: 只野ひよこ
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涙の蛇口をしめて

母を亡くしたのは、小学校三年生の冬。毎晩わんわん泣いていた私に、父は「お母さんはお星様になったんだ。どれだろうなぁ、あの青い星かな? 」と、オリオン座を指差した。「そんなわけないじゃない! あれはシリウスだもん! お母さんが死ぬ前からずっとお空にあったもん!」そう言ってもっともっと大きな声で泣く。私は、そんな子供だった。


あの日困った顔で私の頭を撫で続けてくれた父が、過労で死んだ。母を亡くして、8年目の冬だった。


最期まで、あの日と同じ顔で、同じように、ごめんな、遥ごめんな、と呟いて死んでいった。父はいつだって、何も悪くなかったのに。




ひとりぼっちになってしまった。




父の遺影を抱える手に力を込める。足は地面に根をはり、瞬き一つできやしない。身体のどこか一箇所でも緩めてしまうと、涙がとめどなく溢れてくるということを、私は知っているから。しっかり、しなければ。悲しくても、悔しくても、寂しくても、私は生きて行かなければならないのだから。


「遥ちゃん」


俯いた目線の先に、黒のパンプスが映り込む。靴をはみ出す足首の太さから、叔母であることがわかった。父の実の妹なのに、見舞いにも来なかった人。母が死んだ時、父に金の無心ばかりしてきた人。ただただ醜いという感情ばかりが溢れてきて、睨みつけたい気持ちを足元へと集中させる。


「この度は本当に……大変だったわね。兄さんたら、遥ちゃんを残して過労死だなんて……」


「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


張り詰めた糸が切れないよう、小さく、けれど力強く答えた。


「そう……それでね、これからのことなんだけど、まだあなたは17歳なんだし、どこかのお家でお世話してもらった方がいいと思うのね? おばちゃんのところには3人も子供がいて遥ちゃんも落ち着かないだろうし、おじさんのところも今大変みたいだし、母方のどなたかーー」


実の兄が死んだというのに、事務的に自己保身へと走る叔母。私の父が死んだというのに、自己保身に必死な叔母。大人というのはこういうものなのか。子供じゃない、と自分のことを思っていたが、どう考えてもこの人と自分がかけ離れていて、自分のポジションがいかに曖昧なものなのかを思い知る。

これ以上彼女の言葉を聞きたくなくて、強く遮った。


「大丈夫です!」


この人はいつだってそうだった。同情しているふりばかり上手くて、本心では自分のことしか考えてない。

誰があんたなんかの世話になるか。喉元まで出かかったその言葉を飲み込み、さらに力強く、自分に言い聞かせるように、言い放つ。



「私は、一人で生きて行きます」









****







バスと電車を乗り継いで2時間。私が降り立ったのは、母が幼い頃に過ごした場所だった。自分以外の気配がまったく感じられない無人駅。元いた家も決して都会とは言えない場所にあったが、ここは比にならないほどの田舎だ。周りを見渡すと、山、川、田んぼ。スーパーもコンビニも、もちろん大きなビルも何も見当たらない。あるのは自然と、ポツポツ佇む民家だけ。これからの生活に少しの不安を感じた。


……いや、これでいい。これくらいでちょうどいい。何もない私は、何もないこの町で、一人で生きて行くんだ。

肺いっぱいに空気を吸い込むと、ほんのりと春の香りがした。季節の移ろいを感じられるのは、田舎だからこそなのだろうか。


一人暮らしを決めた私を見てホッとしたのは、叔母だけではなかったようだった。高校の転入手続きや、家の売買など、″大人″が必要なことは、父方の親戚がすべて解決してくれた。


これから住む、家のことも。



30分ほど歩いただろうか。うっすらと見覚えのある平屋が見えてきた。なんだかとても、懐かしく思える。それもそのはずだ。私がここ、祖母の家を訪れたのは、母が亡くなる直前以来なのだから。およそ8年ぶりに見るその家は、昔よりも少し小さく思えた。


鍵を開けて恐る恐る引き戸を開けると、年季の入った軋む音がした。玄関に足を踏み入れ、深呼吸してみる。母方の親戚がこまめに掃除をしていたおかげか、あまり埃っぽさは感じず、どこまでも懐かしい匂いがした。


ここは居間、ここは寝室、ここはトイレで、ああそうそう、ここはお風呂場だ。ある程度室内を探検して、荷ほどきをはじめることにした。ほんの少しばかりの荷物を居間で整理している時。ふと縁側の方から物音を感じた。


……ただの軋み? それとも泥棒?


足音を立てないように、そっと移動する。障子に隠れてこっそり縁側を見ると、そこには一匹の黒猫がいた。



「ニャア」


「なんだ、猫かぁ」


かがんで手招きしてやると、臆せずにこちらにきて喉を鳴らす。ずいぶん人慣れしているようだ。もともとおばあちゃんが世話してた野良猫なのかな? 首輪は付いていないものの、毛艶も良いし、肉付きも健康的だ。くすみのない漆黒で、腰から伸びた2本の尻尾は、しなやかに天を向いている。そう、2本ともーー


「……って、2本?!!」


思わず声をあげて、少し後ずさる。私の知っている猫に、尻尾は2本もない! 開いた口がふさがらない私などお構い無しに、二尾の黒猫はゴロゴロと喉を鳴らしながらすり寄ってくる。まるで私に自分の匂いを擦り付けているかのようだ。


「えぇ……ええええ……」


何か問題でも? とでも言いたげに、こちらに顔を向けてゆっくりと瞬きする黒猫。それは猫にとって、親愛の証なんだとテレビで見たことがある。越してきたばかりの私を歓迎してくれてるみたいだ。


「変わった尻尾だねぇ……真っ二つに分かれてる……昔悪い人にイタズラされちゃったのかな……」


善人とそうじゃない人なんて、都会も田舎も関係ない。都会だからこう、田舎だからこう、なんて、ない。どこにでも、悪い人間というのはいるだ。

勝手な私の憶測だが、途端にこの猫がかわいそうに思えて、同情ゆえかもしれないが、愛おしさも湧き上がってきた。


「私ね、一人になっちゃったの。これからここで暮らすんだ。君がいるならさみしくないね」


「ニャア」


まるで私の言葉に応えるかのように凛と鳴いて、なんだか満足げにどこかへと行ってしまった。

不思議な猫との新しい生活も、悪くないかもしれない。いつ遊びに来ても大丈夫なように、猫用の餌でも買っておこう。


思い出すと涙が出るようなことには、蓋をしてしまおう。忘れるのではない。開けられる日が来た時に開ければいいんだ。今はとにかく、自分のこれからと向き合わなければ。悔やんで悔やんで悔やんでも、どれだけ会いたくても、どれだけ泣いても、帰ってこない時間を想うことが生産性のないことだと、私は知っているから。

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