袋晄司、自己救済のための回想:水曜日
花岡澄美という先輩について俺の知る限りを話そう。
「おうい、晄司君。調子はどう?元気に水曜日を乗りこなしているかな」
まず、この挨拶からも分かる通り、彼女は後輩に対して実にフランクである。あっけらかんとしていて、奥手極まる俺のような男子高校生でも接しやすい先輩だ。彼女は別に俺に対してだけこんな調子というわけではなく、誰にでも分け隔てなく声を掛け接している。そこには後輩に対して良き先輩であろうとする意識的な努力が窺える。まるで戦場で部下を気遣う良き指揮官のようだ。
「僕はいつだって万全のコンディションですよ」
「さすが晄司君、万全少年の晄司君だ」
「妙なあだ名をつけるあたり、花岡先輩も万全そうで良かったです」
彼女のこのような振る舞いには理由がある。
花岡澄美という人は、どうやら昔から少女漫画の世界に憧れて生きてきたらしい。それも、「お姉様」と呼ばれる非実在存在に特に憧憬の念を持っていたそうだ。彼女は齢一桁の時から年上の同性へ恋慕に近い愛情を向けて過ごしてきた(過ごすよう自覚的に努めてきた)。高校一年時代は、生徒会に属する三年生達に執心していたみたいだ。俺が入学する前の話なので詳しくないが、福地先輩とか、枇々木先輩とか、そういった美形の人たちが当校には在籍していたらしい。その頃はまだ目移りも多かったようだが、高校二年に上がった頃には花岡先輩はすっかり桐ヶ谷先輩一筋になっていた(俺の見たところ、だけど。そうそう、桐ヶ谷先輩に関しては俺も一年の頃見かけたことがある。確かに綺麗な先輩だった)。
こんな具合に、彼女は今まで自分のことを「お姉様に憧れるヒロイン」と定義して生きてきた。しかし今年、最高学年になった彼女は頼れるお姉様を全員失ってしまった。後輩の役を続投することが出来なくなってしまったのだ。そこで花岡澄美は新学期開始を契機に「可憐な妹」から「魅力的なお姉様」として生まれ変わり、自分の培った世界を守るため向こう一年間自らがお姉様となることを決意したわけである(これも俺の見たところ、だけど。でもたぶん大体合ってるんじゃないかな)。
そして現在の彼女が出来た。伝えようがないんだけど、去年までは喋り方も全然違ったんだよ。
「万全か・・・ふふ。私の万全はこんなものじゃないよ。もっとすごいことになる」
「すごいこと」
「いやらしいことになる」
「いやらしいこと」
ただ、花岡先輩が女子の後輩に愛想を振りまくだけでなく、男子にも分け隔てないのは、たぶん今まで名前を挙げた先輩方とは別の先輩を参考にしてのことだと思う。万人に愛され、万人を満たす。そういう神様じみた先輩が去年までこの学校にはいたのだ。ちなみにその先輩はいやらしさの欠片もなかった。
身内しか分からない話にそろそろついてくるのが大変になる頃合いだろうから、話題のハードルを下げようと思う。もっと誰もが理解可能な、朝食の目玉焼きみたいな話題だ。
「例えばそうだな、こう、まず、帯をとってだね」
「朝っぱらから日本の武道を汚さないでください」とベルトを引っ張る先輩の手を叩く。
ちょうどいい、柔道なら誰でも知っている。良い話題だ。
彼女は柔道家としての側面も持っている。家が柔道場だったため、小さい頃はわけも分からず柔道に邁進していたようだ。何より、花岡先輩には柔道の才能があった。中学時代までは全国大会の常連で、界隈では「東の花熊」として恐れられていたらしい。
まぁ、きっとそういった過去が彼女を反動的に女の花園へと駆り立ててしまったのだと思う。自分以外全員男の家に生まれ、家は柔道場、門下生も男ばかりで、何処を向いても花の岡とは程遠く、澄んでいなければ美しくもない。そりゃこたえる。俺だって逃げる。
そんなこんなで高校生になった花岡澄美は柔道とはすっかり縁を切り、部活も女子バスケ部に入っている。
「で、何の用です?わざわざ二年教室の前をうろついてたってことは、何か用があって来たんですよね」
「話が早くて助かる。実は君に頼み事があるんだ」
身を翻した俺のベルトを、先輩は今度は力強く握りしめた。
「とりあえず話を聞いてくれ。とても大事なお願いなんだよ」
「なんでしょう」
「駅前に新しいスイーツショップがオープンしてね・・・こら、逃げるんじゃない!」
花岡先輩は甘いものが大好きだ。病の一種なのではないかと本気で心配するほど愛好している。道端で出会う時はいつだって片手に何か持っているし、その何かが加糖されていなかったケースは少ない。そのストイックなまでの習慣的糖分摂取行為には、将来を見据えた壮大な計画を裏に感じることもある。無論、ドーナッツも麦チョコもタイ焼きも、彼女はただ好きで頬張っているだけである。
とはいえ、彼女は昔は甘党ではなかったらしい。先輩を変えたのはやはり「理想の少女像」だったようだ。お姉様に憧れる少女漫画のヒロインは何故か総じて甘いものが好きなのだ。まったく。一人の少女の嗜好を狂わせた漫画家諸氏はもっと事態を重く見て、主人公に健康な食生活を義務づけるべきだと思う。貴方たちのせいで俺は毎週のようにパシリにされているんだぞ。
「・・・そこの数量限定のお菓子が食べたいけど、自分は部活で後輩の面倒を見なきゃいけない。そこで俺の出番だと。話は大体分かりました。何て名前の店ですか」
「お菓子工房ベリーサンド・ウィッチ」
「サンドイッチ?」
「伯爵じゃない、魔女だよ。そんな可愛げのない名前に変換しないでくれ」
パンより魔女の方が可愛げがない気がするけど、そこは特に言及しないことにした。俺はかわいいという概念に無学だ。ついでに言えば洋菓子にも興味がない。パンケーキとかクレープとかシュークリームとか、全く美味く思えないのだ。まず生地の存在が理解出来ない。和菓子と違い、ふにゃふにゃしてこくがない。
「とにかく、そういうことだから頼んだよ」
「善処します」
「ちなみに昨日は部活がなかったので放課後すぐ向かったが、既に売り切れていた」
「・・・学校を早退しろと?」
花岡澄美先輩については、こんなところだろうか。どうだろう。とても聡明で有徳な人物であることを理解してもらえたかと思う。こんな先輩をもって俺は実に幸福だ。
この日の回想を一見意味のない身内話で費やしたのにはもちろん理由がある。この遣り取りのせいで翌日、俺は厄介事に巻き込まれるのだ。