袋晄司、自己救済のための回想:火曜日
黒丈門ざらめはサーファーのようなポーズをとった。足を前後に開き、片手を前に、もう片方を後ろに伸ばすその姿は、まさに波乗りをするためバランスをとる海の猛者である。背景に水飛沫と日焼け止めクリームを撒き散らしながら、陽気なBGMでズンチャカやっていてもおかしくない。ただその、一つだけサーファーと違う点もあるのだ。彼女が相対しているのが波ではなく俺だという点だ。俺は壁を背にした状態で、前に出された彼女の膝に股の間を固定され、同じく片腕で首元を掴まれている。身長差があるので、俺が彼女に掲げ持たれているような大変恥ずかしい格好となっている。ズンチャカやられても笑うに笑えないので出来ればやめてもらいたい。
「そう、君だよ!共に回想を追っている君に言ってるんだ!頼むからそのBGMを止めてくれ!ちくしょう!」
事の発端は校舎裏にあった。そう、物語はいつだって校舎裏から始まる。恋も別れもイジメも煙草も必ず校舎裏でやっているじゃないか。皆校舎裏が大好きなのだ。表の校庭が好きな連中なんて、喧しい運動部かミステリーサークルぐらいだ。
話を戻そう。この日、俺は部活動に向かう友人と別れ、たまたま裏道を通り校門に行こうとしていた。モンシロチョウの生態なんかを思い浮かべながら何の気なしに春を掻いていたのだ。ふと壁がくぼんで奥まっている場所に人影を発見した。隙間に隠れるように誰かが立っている。俺は生来の旺盛な好奇心を我慢させるべきか迷ったが、共に人生を歩んだ友を裏切ることも出来ず、影に向かって近づいた。好奇心は身を滅ぼす。ホラー・サスペンスの常識であるが、残念なことに俺はその鉄則を守ることが出来なかった。まさか自分の人生がホラー・サスペンスだとは思いもしなかったのだ。
そこには黒丈門ざらめの姿があった。彼女は一人で笑っていた。小さな手には些か持て余すスマートフォンの画面を何度も確認しながら、頬を上気させ、たまらずといった様子でパタパタと足踏みしている。ついには携帯端末を掲げ持つ始末だ。その浮かれた仕草があまりに可愛すぎて、初め俺はそれがざらめだと分からなかったぐらいだ。だからこそ、自分の目を確かめるために更に一歩近づかなければならなかったのだ。決して俺が迂闊だったわけではない。
案の定、落ちていた枝を踏み割った俺は少女に見つかってしまう。ざらめは電動歯ブラシのように一瞬で首を回し俺の方を見ると、目を月見が出来るほど丸くし、次に自分の浮き足だったポーズを確認して顔を真っ赤にした。そして携帯を掲げた両腕をゆっくりと下ろす。この間三秒足らずだが、その頃には彼女の表情はいつも通りの凍てついたそれに戻っており、頬の赤みも引っ込んで、体中から誰でも気づくような殺意が滲み出ていた。俺はこの間ずっと何も出来ずに棒立ちしていた。唯一、「なんて顔に出る女の子なんだろう」という感想だけが頭の中に浮かんでいた。
「げほっごほっ」
そういうわけで俺は、一瞬のうちに懐に飛び込んで来た蛇女に無抵抗のまま捕縛され、凄い力で襟を捻られながら壁際に追いやられて、拷問されかけたわけである。
「いいだろう。見逃してやる」
俺がどうやって解放されたかは、さして面白い描写でもないのでカットしようと思う。簡単に言えば・・・ああ、いや言いたくない。先に進もう。
「・・・だからお前も見逃せ。分かったな」
「何のことでしょう。・・・いやいやいや!つまり先程のことはもう何も覚えていないということですよ!全部忘れました!」
「ならいい」
俺はふぅ、と安堵の息を吐き、ざらめもまた同じような息を吐いていたのを覚えている。思えばこの時こそが俺が恨まれる最大の要因だったような気もする。実際殺されかけているわけだし、可能性は高いだろう。では仮にこの一件が動機として、いったい何がそこまで彼女の癪に障ったのかというと、まず間違いなく携帯画面にあった情報が鍵になるわけだが、生憎俺はその内容を確認していないのだ。異性の携帯画面を覗き見る文化は(そしてタイミングも)残念ながら男子高校生には滅多にないのだ。だから考察するにも限界がある。
「ところでお前、何故私の名前を知っている」
これにはリアクションの低い俺も驚いた。まさか過去一年の間に何度も前の席に座っていたクラスメイトの顔を微塵も覚えていないとは予想していなかったのである。
「俺のこと知らない?」
「著名な人物なのか?」
「あーいや、クラスメイトなんだけど、まぁいいや。じゃあ改めて自己紹介するよ。俺の名前は袋晄司。君と同じ二年B組の仲間だ」
俺の名前を聞いて、少女は何やら考えるような仕草をした。俺について思い出してくれたのだろうか。
「フクロコージ・・・袋小路か!面白い名前だな。早死にしそうだ」
「ああ。うん。俺も気に入ってるよ」
俺は痛む首元をさすり、ざらめの爪が食い込んだ痕から当たり前のように血が流れていることを知って、思わず黙した。その沈黙の間を埋めるようにざらめが言葉を繋ぐ。
「あー、次は私の番だよな。私の自己紹介・・・」
少女の声が少し小さくなった。
「私は・・・黒丈門ざらめだ。それで、えっと、えっと・・・」
ざらめは途端にまごつき始めた。少し俯いて両手を組み、指をこねている。
「自己紹介など滅多にしないから分からんぞ・・・」
だったら自己紹介などやめてさっさと帰って下さい、とは口が裂けても言えない俺である。
「殺した数でも言えば良いのか?」
「大丈夫。俺は何も聞いてませんから」
「聴け。馬鹿にしておるのか」
「じゃあどう言えば良かったんだ、と今でも思うよ。殺した数を明示する行為が社会的にいつ必要になるのか、執拗に問い詰めれば良かったのか?ハードボイルドにもほどがあるぜ。この話は俺の回想なんだから、もっと俺らしい堅実な物語であってもらわなくちゃ困る」
「おい、誰に向かって話しているのだ」
実はざらめが歓喜していた携帯画面に関して、思い当たる節がないわけではないのだ。彼女が喜ぶことなんて限られているからである。いや、俺の知る限り、学校にいるざらめが顔をほころばせている瞬間など一つしか知らない。そう、松任谷理一だ。実は後に分かることだが、松任谷先輩が刑事生活の合間をぬって、近々地元に帰ってくる予定になっている。恐らくざらめはこの時、その報を受けたのではないだろうか。断定は危険だが、やはりそう考えるのが一番自然な気がする。
ただ、そうなるとますます俺が殺される理由が分からなくなるのだけれども。