袋晄司、自己救済のための回想:月曜日
始業式が終わって数日が経った。教室が変わったことで首をもたげたドラマチックな幻想も何処かへ消え失せ、平凡な高校生である俺たちは平凡な日常に戻りつつある。席替えもクラス替えも、つまるところドミノ板の配置換えみたいなもので、板同士で場所が多少入れ替わることはあっても、倒れた時の完成図は同じなのだ。俺たちは学年が上がったからって鳥や、竜や、宇宙船になれるわけでもなく、あくまでドミノ板としてドミノ倒しに巻き込まれるのを待つしかない。
ちなみに俺はドミノ板は好きだ。レゴブロックと違って踏んでも痛くない。足の裏への深い敬意を感じる。
「じゃあ先行くぞ、晄司」
「ああ」
休み時間も終わりが近づき、級友達は教室に戻っていく。俺は窓枠に持たれたまま手持ち無沙汰に指をトントンとやり、教室の中に目を向けて溜息をついた。変わらないものが人生の他にもう一つあったことを思い出したのだ。
それは黒丈門ざらめの席の位置である。
黒丈門ざらめは、高校二年を迎えても一番後ろの窓際の席だった。席決めはくじ引きで決まるというのに、彼女は一年の頃からずっとそのポジションをキープし続けている。これは彼女の恵まれたくじ運によるものかもしれないし、あるいは魔術的な作用が働いているからなのかもしれないが、とにかく彼女は何らかの加護の下に教室で人目のつかない最高の立地を保っているのだった。
もちろんクラスメイトは誰もがその奇怪な事実に気がついていた。しかしながら彼女にそのことを言及した人間はそこまで多くないし、問題視する声もなかった。何故か。それは触れるべきではないと皆が思っているからである。黒丈門ざらめがこの千代田区一帯に根を下ろした極道・黒丈門組の血筋の者であることを、知っている人は知っているということである。何せ珍しい苗字だ。その事実に思い至ること自体はさほど難しくはないだろう。
彼女の正体を知っている者の中には、更に詳しいことを知っている者もいる。例えば自殺者の統計だ。東京の他の区域と同様、この地区にも自殺者は一定数存在するが、しかしどういうわけか黒丈門の手の届く範囲は銃や刀で自殺する人間の割合が高くなっている。千代田区なのに入水自殺も数字があるし、コンクリ自殺などというものも見たことがある。そういった事例を知っている人間は、自分がその数字に変換されたくないなと思うものである。だから誰も窓際の玉座に対し言及しない。無論、例外も一定数いるのだろうが、少なくともそれは俺ではない。
とにかく黒丈門ざらめは、所謂本物であるし、彼女に目をつけられたら問題は冗談では済まなくなる。この学校で高校生活を送る以上、これだけは心しておかねばならない。
「やあ、晄司君。高二ライフを満喫しているかしら」
「花岡先輩」
花岡澄美先輩についてはその内話す機会もあると思うのでこの場では割愛しようと思う。一言で言うなら、少し変わった先輩だ。けれども俺は人が変わっていることに関して問題にする気はない。「変わっている」は「違っている」ということだ。自分と違う人間なのだから、少なからず変わっていて当然なのである。
「そうだろ?俺何か間違ったこと言ってるかな」
「誰に向かって話してるの?」
「いや、気にしないで下さい」
無駄口をきかず回想に戻ろう。
「何見てるの・・・ああ、ざらめちゃん。また同じクラスなのね」
「残念ながら。しかも俺はまた彼女の前の席です」
「んー、顔が暗い」
ざらめの顔も暗いが、俺の顔も暗い。どちらのことを言っているのか図りかねる。
「やっぱりショックみたいね、お従兄さんが卒業しちゃったこと」
「そう、松任谷先輩」
黒丈門ざらめには松任谷理一という名の二つ上の従兄がいた。抜き身の刃のような彼女が唯一心を許していると言っても良いような特別な相手だ。彼女は去年、露骨にその従兄目当てという様子で入学し、一年を通してベタベタと付き纏っていた。同時に、大好きな従兄に嫌われないように、なるべく角の立たない人物であるよう努めていたようだった。級友と問題は起こさないよう自分の本性を頑張って抑えていたのだ。しかし卒業の時は誰にも必ずやってくる(例外についての議論は避けたい。我が人生に留年の是非を語る余裕は残されていない)。松任谷理一氏も三年を過ごし、今年の三月に優良な成績を収め無事卒業、華々しく当校を去った。そして今の不機嫌な黒丈門ざらめが出来上がったのである。
だから俺は席に戻れずにいるのだ。背中に刺さる視線が痛くて、休み時間はギリギリまで廊下で待機しているのである。
「でも私、ざらめちゃんの気持ち分かるわ」
花岡先輩が語る。
「私だって、今もこうして先輩との思い出の品を買って名残惜しんでるんだもの」
先輩が冬の寒空を見上げるような顔をし、揚げバナナを頬張った。確かに最近、先輩は学食で揚げバナナばかり買っている気がする。
「あまり冷たくしないであげてね、晄司君。人にはね、こういう時こそ愛が必要なものなのよ」
「愛ですか」
「そう。それか甘いもの」
「太りますよ」
俺は改めてざらめを見た。黒丈門ざらめという少女は、端的に言って美しかった。長い黒髪に色白の肌、赤褐色に光が跳ねる切れ長の目。まさに人形の如く、作り物のように整った美しさがある。確かに美しい。しかしそれ以上に恐ろしさがあった。例えばあの目。蛇のように鋭い眼と視線が交差すると腹の底から感じたことのない恐怖が噴き出してきて、全身が硬直し、身動きが出来なくなる。メデューサに睨まれて石になるのだ。其処には明確な死のイメージがある。
何故そんな蛇の目を彼女が持っているのか。俺は知っている。つい先程、例まで挙げて語っている。
窓の方を見ていたざらめが、ふと廊下の方に顔を向けた。俺たちの立っている方だ。そして蛇の眼をちらつかせた後、暫くしてから舌をぺろりとやって口元を舐めた。どうやらベロまでは蛇ではないらしい。
もしかしたらこの時、既に俺は彼女のターゲットになっていたのかもしれない。何らかの恨みを買い、殺しのリストに名前が挙がった瞬間だったのかも。まさか自分を恐れて席に戻らない俺に腹を立てたのだろうか――そんなことで殺されていては、クラスメイトは半年もたずに全員失踪する羽目になるぞ。