袋晄司、自己救済のための回想:日曜日 前篇
日曜早朝。寝ぼけた世界と裏腹に、凛と彼女は現れた。
「つまり、私は君のために時間稼ぎをすれば良いわけだね」
「話が早くて助かります、花岡先輩」
土曜日に電話をし、俺が呼んだ助っ人は、花岡澄美先輩だった。同校に通う三年生である彼女は、中学時代は「東の花熊」と呼ばれ柔道で名を馳せていた専門家だ。たしか最高成績は中三の頃の全国二位だったはずである。彼女なら相手がヤクザだろうと十分張り合えるだろうし、何より護身が出来る。また、花岡先輩は春に起きた俺とざらめの一件を知っているので、話を通しやすいというのもあった。この朝、俺を支えてもらうのに彼女以上に適した人材は考えられなかった。
「しかし本当に来てくれるとは思いませんでした。事情は事前に伝えていたので、流石に躊躇されるかと」
「まさか!後輩に頼られて私が駆け付けないわけないだろう!私は後輩のためなら命だって賭ける女だよ!晄司君は何も気に病むことはないし、むしろ私は、私に頼ってくれたことを感謝しているぐらいだ」
そうなのだ。この人は後輩に頼られて断るわけがない。だからこそ俺はこの人を呼んだのだ。俺は汚い男なので、彼女の美徳を利用したわけである。
もちろん花岡先輩は馬鹿ではないから、俺の打算には間違いなく気づいている。気づいた上で、何の迷いもなく駆けつけてくれる人なのである。仮に俺が「貴方を打算で呼び出した」と彼女に伝えたとしても、返ってくる答えは大体予想がつく。
『打算と見破られていると確信があっても、なお頼ってくれる。それほど嬉しい信頼はないじゃないか。先輩冥利に尽きるというものだよ』
ざらめの家へ向かう黒塗りの車は、宣言通り午前十時ぴったりにやってきた。我が家の前に停車して、二人の黒服が降りてくる。俺は上京組で、東京にある親族の持ち家で一人暮らしだ。家族に迷惑がかかる心配はない。チャイムが鳴らされるのを聞きながら、俺と先輩は玄関口へ向かった。相手が二人だというなら”逃げる”以外に”不意をつく”という選択が出来る。玄関から入ってきたところを先手必勝で先輩に片付けてもらえれば、次の追手が差し向けられるまでかなりの時間的アドバンテージを期待できる。
「開いてるじゃないか」
扉の向こうで声がした。当たり前だ。下手に鍵を閉めて壊されでもしたら困る。高校生には修理代を捻出する余裕はないのだ。
男の影がドアに嵌めこまれたすりガラス越しに揺らぎ、ドアが引かれる音が響く。俺たちは息を殺して一瞬を待つ。敷居をまたぐ男の足を確認した瞬間、先輩が相手に跳びかかった。男は先輩に足をかけられ、最小の動作で綺麗に転ばされた。速い。まるでスイッチを押すように軽い挙動だ。俺は呆気にとられそうになるのをこらえ、花岡先輩に転がされた男へ両腕を固定するように馬乗りになり、包丁をつきつける。先輩はこちらを振り返らず、もう一人の男の方へ技をかけようとドアの向こうへ身構えた。身構えて、そのままの姿勢で停止した。
「先輩?」
背中越しに花岡澄美の向こうを覗くと、彼女と対峙する男の手元が見えた。男は拳銃を突き付けていた。
「あんちゃんは何かしてくるという瑪瑙様の言葉通りになったな、まったく。心構えがなかったら危なかったぞ」
先輩の表情は窺い知れないが、視線が拳銃を向いているのは間違いないだろう。銃にはサイレンサーが取り付けられていた。サイレンサーは恐ろしい。「見せかけではない。本気で発砲する」という明確な意思表示になるからだ。彼らはこの場での殺しも厭わないという考えでここに来ている。もし今抵抗しようものなら、すぐにお陀仏だ。
「・・・・・・」
「・・・先輩。手を挙げて、膝を地面につけて、そのまま四つん這いになってください。早く」
俺は包丁を派手な音が鳴るように玄関へ放って、立ち上がった。
「早く」
花岡澄美という人物は後輩を見捨てたりしない。先ほど自分でも言っていたが、命だって平気で賭けてしまう。この場で何より優先すべきは先輩の牽制に他ならなかった。俺が先輩と黒服たちに行動の隙を与えないように降伏を捲し立てる。
やがて「君がそれで良いなら」と先輩は膝をついてくれた。
「それじゃ、行きますか」
先ほど転がされた男は、何事もなかったかのように俺と肩を組んできた。サイレンサーの男は後部座席のドアを開けている。俺は観念したように肩をすくめ、そちらへ歩き出す。
「私もついていこうか?」
「いや、大丈夫ですよ」
「そうはいってもね」
「前回だってパッと帰ってこられたのを、先輩は知ってるじゃないですか。今回もすぐに土産話を持って戻ってくるので、信じて俺の家で茶でもしばいててください」
後輩に信じろと言われたらな、と先輩は苦く笑い、「甘いお菓子はどの棚にあるかな」と尋ねた。
「今から貴様には命を賭けてもらう」
それからは誰もが知るところである。車で搬送された俺が連れてこられたのは、小型のコンサートホールのような広間だった。ホールというよりは、サーカステントといったところだろうか。以前拉致されたざらめの部屋より広く、洋風で、正面の階段から二階席へ上がれるようになっている。俺が立つ中央から上を見上げると、こちらを見下ろす数名の人々と目が合い、見世物にでもなった気分になる。いや、実際に見世物なのだろう。俺は彼らの視線に少なからず萎縮した。露天に並ぶ干しブドウのように体を丸め、山へ帰りたくてしょうがなくなった。
「こちらとしてもよく話し合ったのだ。ギロンを重ねて、難しい顔もたくさんした。その結果の答えだ。受け入れてくれ」
黒丈門ざらめはその席の中央に居た。正確には正面に二席あり、左の席にざらめ、一席分距離を空けて右の席に白丈宮優雅が座っている。その周囲、あるいは隣席に彼女らの側近が数名という配置だ。
ざらめはまだしも、何故白丈宮がいるのだろう。
「貴様はこれで死ぬだろうが、しかし無駄死にするわけじゃないんだ。我らがざらめ組にとって利のある賭け金となるんだからな。喜んでくれて良いぞ」
さて、ここからが本番である。
一週間の回想を経て俺は一つの仮定を導き出した。ざらめが俺という人間を側に置くことで部下からの信頼を損ね、組織を保つのが危うい状態になってしまった――というのがその仮定だ。だからざらめは俺を見せしめにし、彼らの前で吊るし上げることで排除し、今一度内輪だけの空間を創りだそうとしている。「見せしめ殺人」なんてレアケースもいいところだ。
そして恐らくこの仮定は合っている、と俺は辺りを見回す。見世物のような空間。ざらめの脇に立ち並ぶ、久々に見る多くの側近たち。白丈宮は、謂わば主従の信頼回復を見届ける調停役として外部から招かれたと考えれば、ここにいるのも理解できる。儀式事の仲介人ということだ。
一番の懸念であった”殺される理由”の仮定は立った。ならば後はそれを回避する方法だ。無数の可能性未来の中で、俺が生き延びるルートはあるのか。それを考える上で大事な違いがある。
そう、今回は前回殺されかけた時とは状況がだいぶ違う。
前回、俺を殺そうとするざらめには明確な殺意があった。俺を殺すべくして殺そうとしていた。しかし今回は、言うなれば仕方なく殺そうとしている。本当は殺したくはないが、信頼回復のため他の手段がないから、俺に生け贄になるよう乞うているのだ。
「どうだ、貴様。ギャンブルは嫌いか?」
「まさか。ギャンブル大好きです」
今回のギャンブルという形式も、俺を救済する道を残すためのもののように思える。俺が負けたら計画通りだし、仮にもし俺が賭けに勝って解放されても、ざらめとは縁が切れ部下の溜飲も下がる。そういう仕組のゲームなのではなかろうか。彼女は俺を生かすために最大限の譲歩を見せてくれているんじゃないか。
この状況なら、俺にだって勝ちの目はあるはずだ。
「よし、では早速始めようか。この日のためにマホガニーのルーレットを用意した。不正の疑いをもたれたくないため、製作は白丈宮に任せてある」
もちろんルーレット以前の勝ちの目だ。
「勝負は一回。無論ルールは一点賭けだ」
ざらめが席から立ち上がり、大仰に宣言すると、黒服を二人引き連れて降りてくる。一人は瑪瑙で、もう一人は白丈宮の付き人である、燕尾服を着た執事風の老紳士だ。
「これからルーレットを回す。回すのは貴様だ、コージ。何と言っても命を賭けているのだからな、命運を人に委ねたくはないだろう。そこは私だって、便宜を図ってやるぐらいの優しさはあるわけだぞ」
ありがとうございます、と俺は心にもないことを言った。少女は階段を降りきるとそこで立ち止まる。
「しかし不正があってもいかん。お前はそこそこ賢い。事前に準備をし、何か隠し持っているとも限らんからな。そこで今から身体検査をする」
「ご自由に」
ざらめが頷いたのを合図に、瑪瑙と老紳士が俺の脇へやってきた。とりあえず両手を上げてみると、二人の検査官が俺の体を上から順に機械で調べ始める。磁気探知機のようである。本格的だ。探知音が鳴ったポケットをひっくり返し、携帯電話やら財布やらを取り出してはその辺に放る。俺の体を含め、もっと丁寧に扱って欲しいものである。股間も当然のように検査された。老紳士の後に続き、瑪瑙もズボンの中に手を突っ込んでくる。俺はそのことよりも、目の前の少女から興味深げな視線が投げかけられていることが気になって仕方なかった。ざらめは口を一文字に結び、何処とも言えぬところを凝視してくる。休日にクラスメイトに見られるシーンとしては最悪のシーンに該当するように思える。下手したら卒業まで語り継がれる珍事だ。ざらめに友達がいなくて本当に良かった。
「よし、準備完了だな。これでコージも晴れてディーラーの資格を得たわけだ」
身体検査が終わったところで、二人の検査官が上階へ戻っていき、入れ違いでざらめが近づいてくる。
「その、それでだな、えっと・・・最後に一つ良いか、コージ」
ざらめが真面目な顔になる。何か一家言あるといったような、この時を待っていたかのような顔だった。珍しく気が合ったな。俺もだ。俺もこの瞬間を待っていた。
彼女の言葉を聞きながら、絶好のタイミングが訪れるのを待つ。
「あの、私としては心残りがあってだな・・・貴様との主従の契約をゲームの前に済ませたいのだ・・・貴様がそういうの嫌なのは知ってるけど、最後なのだし、構わないだろう?」
何だか台詞が片言である。まるで用意した言葉を読み上げているようだ。
「それで、お互いのものを交換出来ればよいなと思ってたんだけど、でも身体検査終わっちゃったから、怪しまれずに交換出来るものってあるかなと、悩んでてて、いるのだ」
「なるほど」
ざらめが緊張するように俺の顔をちらちらと何度も見てくる。
「それならコインがありますが・・・」と俺は磁気探知を潜り抜けて残っていたお守り袋を出す。ざらめが口を開こうとしたが、言葉を被せて防いだ。まだ話を進ませるわけにはいかない。
「しかし、奇遇ですね」
ここだ。最後の最後で、最高のタイミングが奇しくも向こうから飛び込んできた。
「俺も同じことを考えていたんです。その話をしたいって」
少女が眉を寄せる。
「ざらめさん、前にこのお守りの話になった時こう言いましたよね。『これは盃みたいなものだ』って」
ざらめが頷く。
「俺は結果としてその盃を受け取ったわけですけど、でもあの時の俺はその言葉を否定しました。それというのも、主従契約のようなものを交わすにはあの場はあまりに唐突で、心の準備が出来ていなかったからです」
「あの時はちょっとだけ腹が立ったが、まぁ許してやる」
二階の連中も俺が何か大切な話をしようとしていることに気づいたようで、俄に静かになった。
「でも、今は違う」と俺は言った。予想外の言葉にざらめは目を丸くしているが、俺は構わず続ける。
「心の中ではずっと思ってたんですよ。俺はすごく中途半端な立ち位置にいるなって。ざらめさんを好きだというくせに、黒丈門の内側には入らず、一線を引き続けている。にもかかわらず日中は学校でざらめさんと行動を共にすることも多い。一家の方々には余計な気苦労をかけているに違いない、と頭を悩ませていました」
俺は心底申し訳無さそうな顔をした。ここ五年で一番申し訳ない顔だ。
「そこで考えたんです」
(要するに)
ざらめが俺を殺す必要がない状況に事態を修正できれば良いのだ。
(彼女が組外の人間と懇意にしてさえいなければ組織の軋轢は解消される)
「だったら俺が」
だったら俺の。
俺の意思表示一つで、この裁判は全てが解決する。
「黒丈門一家に正式に加われば良いじゃないかって」
言ってしまった、と俺は思った。
この意思表示は俺の一生を縛る呪いだ。修羅道の鎖だ。同時に、生き延びるための希望の一言だった。
「そうすれば上下も肩書もはっきりして、ざらめさんも皆さんもずっと俺を扱いやすくなる。俺も一番の新人として、気兼ねなく関わっていける」
口に出した以上、もう後には引けない。俺に出来ることは、事の成り行きを見守ることだけだ。
「俺はまだ未成年です。家族には迷惑かけられないし、孝行のため進学も決めています。だから迷っていました。でももう迷わない。俺はざらめさんの部下になりたい。貴方を好きでいるために、まず形から近づいて学んでいきたい」
俺は最大限の熱意をもって語った。普段の俺からは考えられない熱量だ。そこには生きるためのエネルギーが含まれていたように思う。
「俺の方からもお願いします。ざらめさん。俺と盃を交わしてください」
ホールは静寂に包まれた。耳が痛いくらい静かだ。やりきった俺は、誰かの反応をただ待った。
「そ・・・そうか!」
口を開いたのはざらめだった。
「いやあ、はは、そうかそうか!うむ!貴様は今日から私のものだ!」
ざらめは心から愉快そうに言った。屈託のない彼女の笑顔は久しぶりに見る。
このざらめの反応は予想の範疇である。当然だ、彼女からしてみれば、問題の種が向こうから歩み寄り、消えてなくなると言ってくれているのだから。
問題は彼女の部下たちである。瑪瑙筆頭、ざらめ一派が、この俺の宣言にどう反応するか。最下位の立場を明示し地に伏す俺を受け入れ、全てを水に流して関係を修復してくれるのか、あるいはそうはならないのか。結局焦点はざらめとの信頼関係なのだ。俺は彼らの軋轢のきっかけでしかないから、ざらめではなく俺が謝罪を態度で示したところで、彼らの心が動くとは限らない。よくて五分五分といったところだと思う。
「・・・・・・」
俺はツバを飲み込んだ。嚥下の音が響く。果たして歓迎してもらえるだろうか――。
「よく言ったああ!!」
「うおお!それでこそ男だ!晄司君!」
「今日は祭りだ!酒を持って来い!」
大歓迎だった。
「いやーこんなに嬉しいことはねぇな!あんちゃん!」
あまりに想定とは違う反応に、俺は呆然と立ち尽くしていた。いったい何が起きているんだ。俺を裁くかのような先程までのムードは何処に消えてしまったんだ。くるくる回るざらめと、微笑む瑪瑙。本当に酒を持ち込もうとする相庭の頭を叩く番場。白丈宮ですら笑っていた。何かがおかしい。もしかして俺はまた、何かとんでもない勘違いをしていたのではないか。
「下っ端なんてとんでもねぇ!兄貴と呼ばせてくれ!」
「いや、いやいやいや」と俺が言葉を返す。「兄貴はおかしいでしょう。だって俺は家の外から若頭に贔屓にされていたクソ野郎で・・・」
「クソ野郎だあ!」と強面が声を荒げる。「誰だそんなこと言った奴ぁ!ぶっ殺してやる!」
「あんちゃんがクソ野郎なんてあり得ねえ。だってその年で若のために率先して死ぬ覚悟があるんだぜ」
「命捨てるなんてガキの頃にはそうできん」
「そうだ。そんな人間が俺らが護衛できない時間に若の近くにいてくれるんだ。これほど有り難いことはない」
「感謝こそすれど、晄司君を悪く言う人間など、ざらめ組にはいないよ」と瑪瑙が言った。
「これは冗談ではなく、君は側近と言っていい活躍をしている」
「瑪瑙様が右腕で、晄司の兄貴が左腕だな!」
「ふん。いい気になるなよ、コージ」
この頃には流石の俺も理解が追いついてきていた。現状から消去法で判断していけば事態はより明確になるだろう。
まず前提として、ざらめの部下たちは俺を恨んでなどいなかった。この分だとざらめとの間に軋轢もなさそうである。組内の関係は良好で、組織は安泰だ。瑪瑙も部下も偶然いなかっただけで、こういう大きな行事にはちゃんと集まってくる。いや、恐らく部下の皆はいたのだが、別の作業をしていた。木曜にざらめが言っていた「徹夜作業」だ。もちろん、このギャンブル絡みの。
ではいったい彼らは何をしていたのか。大城川原後輩の言っていた裏切りとは何だったのか。ざらめのイライラは何が原因だったのか。そんなの、残す終着点は一つしかない。俺は白丈宮を見た。彼はにこやかに俺に手を振り返した。
アイツだ。この物語はざらめと俺じゃなく、アイツに集約する物語だったのだ。
『僕は彼女に親愛の情をもって挨拶にきたんだよ』
白丈宮優雅。彼が今週のはじめ、突然学校に乗り込んできたのは偶然ではない。あるはずがない。だって彼は、その時ざらめから既にギャンブルの話を持ちかけられていたのだから。
『マホガニーのルーレットを用意した。不正のないよう、製作は白丈宮に任せてある』
恐らく白丈宮は、ルーレットに不正を仕掛けなかったざらめが何処に不正を仕掛けてくるのか探りに来たのだ。そこで彼女と接触し、俺のお守り袋に興味を持った。
ではそもそも、どうして二人はギャンブルをやることになったのか。
『私とアイツとは幼少期から因縁の関係なのだ。年に数回の潰し合いを切り抜け続けてきた間柄なのだぞ』
その「潰し合い」こそが答えに違いない。ざらめと白丈宮は今年も何かのきっかけで衝突し、白黒つけるために潰し合いをすることにした。戦争である。
『戦争』『強運』『余所者』『内側の問題』
覚えているだろうか。大城川原後輩の聞いた言葉だ。これはざらめ一派の内部問題を表したものではない。ざらめと白丈宮の戦争を表した会話だった。だってそもそも、これはざらめ本人が発した言葉なのだ。
大城川原はこう言っていた。「月曜の放課後ぐらいの時分」「組の関係者の話を聞いた」と。その時分といったら、まさにざらめと白丈宮が会っていた時間だ。つまり彼女はざらめと白丈宮の会話を聞いて、それを組の会話として俺に伝えたのだ。
戦争の内容がギャンブルに決まり、きっとざらめはこんな喧嘩文句を言ったのだ。
『生憎こちらには殺そうとも殺しきれない強運の部下がいる』
そして、『しかし彼は余所者だろう。巻き込んではまずいんじゃないかな』という白丈宮の正論に『それは内側の問題だ、口出しするな』とでも返したのだ。破壊工作はなんだろうな、ルーレット製作関係じゃないか。とにかく言葉は無限に姿を変える。それに翻弄されるべきではなかった。一つだけ確かなのは、ギャンブル開始時点で俺がキーマンになることは決定事項だっただろうことだけだ。
『ざらめ以外にも会いたい人間がいたからわざわざここに来たんだ』
『若にここまで信頼される腹心やってるんだから』
『私は貴様のこともこれから信頼してやるつもりでいるぞ』
皆、何か見えない前提を踏まえながら、俺に対して話をしていた。今だから分かるが、当時察しろと言っても無理な話である。
恐らくざらめは”部下の命を賭ける”というコストを条件に”ルーレットを身内が回す権利”を得た。そしてそのコストに適した人間として俺を選んだのだ。信頼があり、事前情報を持たない公平性があり、戦力として失っても痛くない。理由はこんなところだろう。
「・・・・・・」
俺はまずギャンブルの定義を考えるべきだったのだ。それが何よりのミスである。
「・・・・・・」
殺す理由も何もない。前回の経験を引きずり過ぎた。そうとは限らないのに、誰かを殺すのに必ず理由があると先入観を持ってしまっていた。
初めにざらめが言った通り、俺はただの『賭け金』に過ぎなかったのだ。
他に理由などなかった。俺は、ただ、死ぬのだ。
「よーし、ではコージ!」
ざらめの笑顔に八重歯が光る。
「改めて死んでこい!」
何よりも問題なのは、今の茶番を経ても状況が何一つ変わっていないということだ。たったいま俺が社会的に死ぬ程の決断があったにもかかわらず、現実の俺は未だに死のルーレットから逃れていない。ギャンブルは行われる。人生を捨てただけだ。むしろ悪くなっていると言える。
「貴様にとって組員としての初仕事だ。ルーレットを回して、私に勝利をもたらせ」
「正直、私や優雅氏は乗り気ではなかったのです」と瑪瑙が言う。「一般人の命をやり取りする賭け事など道理に反すると。しかし今や晄司君はウチの組員。何の気兼ねもなく勝負が出来る」
俺はもう何も言うことが出来なかった。
「さっきはお前に言葉を遮られたが、ここで改めて主の最後の言葉だ」とざらめが俺の目を真っ直ぐ見つめる。
「・・・・・・」
「私は貴様を信じるぞ、コージ。だから見事私の信頼に応えてみせろ」
私の信頼に応えろ。応えて、生きてみせろ。私の言う信頼とは、裏切られるなど微塵も思わないことだ。言い換えるとこうだ。
“裏切り者には死を”
俺は歯を食いしばり、唇を噛みちぎった。くそ、どうしてこうなっちまうんだ。今回は絶対に上手くいくはずだったのに、またもや思い込みをして結果が裏目に出てしまった。口は災いの元とはまったく恐ろしい諺だ。状況を打開しようと言葉を発する度に、悉く状況が悪くなる。さっきまで拉致られた普通の男子高校生だった俺が、今じゃヤクザの下っ端のディーラーだ。しかも数分後には死ぬらしい。頭がおかしくなりそうだ。
もうルーレットに賭けるしかない。一点賭けの無謀なギャンブルをして命を繋ぐしかない。しかしながらそんなことをやったところで、結果は明らかじゃないか。確率は絶対だ。現実は漫画や小説とは違う。天賦の豪運を引き寄せて、主人公が勝つなんてことは数学が許さないのだ。勝ちは負けの上にある。負けなければ勝てない。いきなり勝つような奇跡も裏技も存在しない。
もう駄目だ。手詰まりだ。袋小路だ。




