袋晄司、自己救済のための回想:土曜日
土曜日は雨だった。俺は数日ぶりに一人で下校していた。案の定傘を忘れ、雨に打たれて帰ったのを覚えている。
寂れた商店街を通っていた時である。道の先に黒い塊が見えて、俺は目を凝らした。二人の大柄な黒服が横に並んで歩道を塞ぎ、その前に小さな女の子が一人立っている。喪服のようなゴスロリ衣装で、黒くて大きなこうもり傘で頭上を覆っている。顔は見えないが、背格好から俺はその人物を特定できた。
「どうしたんです、ざらめさん」
ざらめの部下がいる時は、俺は未だに敬語を使うことにしている。ヤクザとの接触は異文化交流だ。何が気に障るかなんて我々には推し量れない。
「あぁ、コージ、待っていたぞ」
俺に向けられるざらめの視線は何だかいつもと違っていた。普段は服についたケチャップを見るように煙たげにしているざらめが、まっすぐな眼差しを向けている。ここ数日募っていたイライラもそこにはなく、ただ真剣さだけが感じられた。真意は掴めないが嫌な目つきだな、と思った。俺にはそれがトラブルの予兆に感じられたのだ。
思えば、部下の視線もおかしかった。彼らの場合はざらめとも少し違い、なんというか、不安感のようなものが滲み出ていた。
「実は今日は貴様に話があってな」とざらめが言った。
「明日なんだが、貴様に家に来てもらうことになったから」
「?」
なんだ改まって。そんなのいつものことじゃないか。今までだって何度も急に家に呼び出されては、倉庫掃除を手伝えだの、パソコンが壊れた、インターネットがなくなっただの、散々良いようにこき使われてきたぞ。帰りには部下の人たちに肩を組まれて導かれ、回る方の寿司を奢ってもらったりしたし、瑪瑙さんと二人で風呂に入ったこともある(これはざらめには秘密にしてくれ)。ざらめが俺を招くなんて、最早有り触れた日常の一コマのはずだ。それを何故ことさらに取り沙汰して、わざわざ俺を外で待ち伏せて、儀式めいた口上で伝えてきたんだ。そんなのは――
嫌な予感しかしないじゃないか。逃げるべきか、と俺は思った。今すぐこの場を立ち去って、これから放たれるざらめの一言を、それがもたらす厄介事を回避するべきか。しかし部下の目もあるし、下手に動いても状況がよくなるとは限らないぞ。
「ああ、死ぬことになるかもしれないから、身内には行き先を伝えずに来い」
逃げればよかった、と俺は思った。しかし後悔はいつだって取り返しがつかなくなってからやって来る。俺は頭を切り替えて、彼女の発言が訂正されないか努力してみることにした。
「聞き間違いかな、今俺が死ぬと聞こえた気が」
「そうだな。ほぼ死ぬな」
「・・・ざらめさんは俺が死ぬと思うと?」
む、とざらめが何かを察した顔になって歯を見せた。
「安心しろ。貴様が私のためなら命をも捨てる男だということは、重々承知している」
そんな信頼は求めていない、と俺は頭を掻き毟りたくなった。取り巻き二人に視線をやるが、彼らは先ほどと同じ目で、変わらず俺を見返すだけだ。彼女たちの間では、既に共通の結論があるようだった。それはつまり、俺が何を言っても覆らない結論のようである。
そんな無茶苦茶な話、当然認めるわけにはいかない。
言うだけ言って満足したざらめが去ったすぐ後、彼女の車を見送りながら、俺はある人物に電話をかけた。白丈宮にかけられれば良かったのだが、あの野郎は連絡先を渡すような気の利いたことはしていない。だからアイツではない。もっと信頼のある人物だ。
さて、わかってもらえただろうか。
何って、金曜日の話の続きだよ。「信頼回復」と、ざらめの言った言葉の話だ。
順を追って話したほうが良いだろうから、回想からピックアップしてみる。
まず月曜日、俺はざらめからお守り袋をもらった。彼女たち御曹司連中が部下へ何かを渡すというのは、暗に主従契約に関連してくる事柄らしい。重要なのはその場面が衆目に晒されていた点だ。その場には白丈宮もいた。瑪瑙さんも送迎に来ていた。だからこの日のことはすぐにでもざらめの部下たちに伝わったことだろう。
そしてこの日を境に瑪瑙さんはざらめの送迎をしなくなる。火曜日は部下が四人、水曜と木曜は俺、金曜は分からないが、土曜は部下が二人だった。事実だけを見れば、ざらめの周りから部下の影が減っているように感じる。俺はここに着眼し、仮説を立てた。
月曜の件がきっかけで、今まで抱えていた主従の不満がついに表面化し、それが態度に示された結果が今回の送迎の変遷なのでは、というのがその仮説だ。
仮説は、大城川原後輩から齎された黒丈門内部確執の情報に依拠している。
あの時語られた物騒なワードは、ざらめ一派の内情に関連していたのではないか。放課後時分に学校の周りで聞いた黒丈門の噂というなら、それはざらめに関連すると考えるのが自然だろう。
『黒丈門一家が荒れてる』『内側の問題』
荒れているのは黒丈門ざらめの周辺であり、一派の内側で問題が起きていたということではないか。そして問題が起きるとしたら、問題児であるざらめと、彼女に振り回される部下たちとの信頼と忠誠に集約するのでは。ざらめが部下の信頼を裏切るような行動をしているから、軋轢が生まれているのではないか。瑪瑙さんたちは不満を持っている。だから送迎が日に日に減っていった。土曜日に二人しか一緒にいなかったのは、要するに、もう二人しか残っていないことを意味しているのでは。
ざらめ一派は、分解の危機にあるのではないか。
もちろんこれはあくまで仮定である。しかし理由のない仮定ではない。前後の物語が見えない妄言ではないから、俺としては無視できない。
前後の物語――要するに、ざらめ一派が分解する原因となった物語に、俺は心当たりがあるのだ。
そうだ。俺だ。
俺がいるのだ。春から今まで、ざらめの隣にはいつだって部外者の俺がいる。組とは関係ないくせに、ざらめという黒丈門秘蔵の核の近くに、組長の検閲も忠誠心もなくするりと滑り込んで居座り続けている。厳しい環境で選りすぐられた彼らからすれば、そんな無茶苦茶な話はない。
今まで考えもしなかったが、組側の視点に立ったなら俺は間違いなく異分子で、排除すべき存在なのだ。むしろ俺に対して排斥行動がなかったことがおかしいぐらいだ。しかし、逆に言えば、その事実は彼らの忠誠心を表していたとも言える。頭であるざらめは絶対。彼女が決めたことならば、自分たちはそれに従う。その思いで瑪瑙や部下たちは彼女についてきた。けれども、それもいよいよ限界がやってきたということだ。
『どうして上手くいかんのだ・・・』
きっかけは分からない。ここ数日のざらめのイライラを見ても、お守り袋だけが引き金になったとは考えにくい。
『戦争』『強運』『余所者』『内側の問題』
強運な余所者が内々の情勢を戦争状態になるまでややこしくした過程は、少なからず想像がつく。ソイツへの不満は、夏になっていつの間にか茂る木々や起きだす虫達のように、知らず知らず膨らんだ挙句一斉に顕在化したに違いない。そうして組は分解を始めた。
『私は貴様のこともこれから信頼してやるつもりでいるぞ』
黒丈門ざらめはその危機に、恐らくごく最近気がついた。しかし気づいたは良いが、原因を知らない彼女はどうすればそれを止められるのか分からなかった。だから俺に媚びを売ってみたり、送迎を俺に任せて部下を休ませたりなどしていたのだが、しかし部下からしてみれば、俺が送迎に選ばれることは逆効果にしかならず、結局ざらめの信頼を更に下げることに繋がった。
木曜に見た、『我々の未来』である黒い玉を作らされたのは、たぶん一派の皆だろう。あれはざらめと彼らを繋ぐ何らかのアイテムだった。だからあのタイミングで失くした時、彼女はあれほどまでに焦った。絆が失われたように思えたのかもしれない。
『組の外側の人間なのに若にここまで信頼される腹心やってるんだから』
相庭の言葉には皮肉が混じっていたのかもしれない。
『家臣にも真贋を選ぶ権利がある』
白丈宮が俺にだけ声をかけているとは考えにくい。
瑪瑙の向かったという義兄弟のところ、というのも、想像するに別の組組織に移動したということを指しているように思える。
ざらめは孤立してしまったのだ。気づいたら部下から信頼されなくなり、どうしようもなくなってしまった。彼女に残された道は、忠誠心を損ねたきっかけの特定と、その排除しかない。
その道の先に俺がいた。
『貴様が私のためなら命をも捨てる男だということは――』
さあ、日曜日だ。黒丈門ざらめ、信頼回復のための一世一代の見世物ショーと、俺の人生最大のギャンブルが行われる当日である。




