袋晄司、自己救済のための回想:水曜日
さて、水曜日となってようやく回想の原因を作った張本人の登場である。張本人というか、真犯人である。黒丈門ざらめという少女は、どこまで俺の穏やかな人生設計を狂わせれば気が済むのか。思い返すほどに腹が立ってきたが、対して当時の俺は比較的気分がよく、普段通りの温厚な態度で彼女と帰路についていた。そう、水曜の回想は下校の一コマである。
「どうして上手くいかんのだ・・・」
帰り道を行きながら、隣でざらめがブツブツ呟いた。最近のざらめは妙に機嫌が悪い。機嫌が悪いとろくな事にならないのだ。機嫌が良くてもろくな事にはならないのだが。
「そもそもくっつかないんじゃ、割合も何もないだろうが・・・」
俺は黙ってクレープ屋のチラシを見ていた。現代には色々なクレープがある。餅やエビやたこ焼きが入っているのだ。意味がわからない。
「コージ、質問が二つある」
隣を歩くざらめが唐突に言った。苛立ちの矛先が自分に向いたのを感じ、俺は身構える。
「一昨日、優雅と何を話していた」
少女はその幼い容姿とは裏腹に、今にも獲物に食らいつきそうな蛇の眼光を向けてくる。長い黒髪と白い肌が、美術を通り越してホラー映画を連想させる。性癖によってはたまらない容姿だろうが、俺からすれば畏怖を覚えるだけである。せめて早く大きくなって、普通の怖い女になって欲しい。
「他愛もないことだよ」と俺は言った。
「それを判断するのは私だ」
「ほんとだって」と俺が肩を竦める。「主にざらめちゃんって可愛いねって話をしていたさ」
ざらめにスネを蹴られて暫し蹲った。頭上から彼女の声がする。
「私とアイツとは幼少期から因縁の関係なのだ。年に数回の潰し合いを切り抜け続けてきた間柄なのだぞ。すぐに分かる冗談を言うな」
俺は謝罪を入れて、今度は白丈宮との会話を包み隠さずに公開した。特に隠すべきこともないと思ったからだ。
話を訊くとざらめは「私のものに唾をつけようとは良い度胸だ」と鼻を鳴らした。
「私のものって・・・俺はざらめの何なんだ」
「靴だな。足が汚れるのを防いでくれる。踏むと喜ぶし」
「喜んだ覚えはない」
「・・・貴様、最近ざらめちゃん大好き人間としての自覚が足りてなくないか」
本人がその呼称を使い始めたらおしまいだろ、と俺は顔をしかめる。
春の初めのことだ。俺は死の運命を回避するために、ざらめに熱を上げている哀れな男子高校生としての身分を甘んじて受け入れた。端折ってまとめると、つまり、ざらめとの間に簡単な主従契約が結ばれたわけである。当時は道化を演じるのに苦労したものだ。それから数ヶ月経って、夏になって、彼女との主従のバランスも随分と安定してきた。今ではざらめの部下たちともすっかり顔見知りになって、たまに家にお邪魔すると茶が振る舞われる。それが男子高校生にとって正しいあり方なのかは分からないけれど。
誤解のないようにこの辺りで注釈を入れておきたいのだが、俺は普段から黒丈門ざらめと下校を共にしているわけではない。最近になって時折巻き込まれるようになっただけで、今日の同行も予定にない。
普段のざらめは側近であり教育係でもある瑪瑙という長身の女性を迎えに寄越しており、彼女と二人で帰っている。もし瑪瑙が何らかの理由で送迎出来ない場合、部下の男たちが四人ほどやって来て警護しながら帰っている。俺がざらめに半ば強制され、共に帰るケースというのは、それすら叶わない状況の時のみだ。
このことから何に着眼するかは、人によってだいぶ異なるだろう。瑪瑙さんが極道男四人分の戦力と推定出来るところに着眼したくなる気持ちも分かるけど、今は俺の話をさせてもらう。即ち俺が大いに問題にしたいのは、「常に部下に守られて家に帰るざらめの構図」のその部下の末端に俺が入っているということだ。
俺はヤクザではない。先述の通り、ざらめとはせいぜい、ちょっとさし入れに実家の野菜を届ける程度の間柄であり、契りの盃など交わしていない。なのに向こうは平然と俺を身内のように扱ってくる。それは極道としてどうなのかと思う。任侠映画ではそんなアットホームな描写はないではないか。古き良き時代の死を感じるよ。
(ん、待てよ)
俺がざらめの付き人として呼び出されるのは彼女の送迎がない時に限られている――ということはつまり、部下がいない時に限られている。水曜日は彼女の部下がいなかったということになる。
『黒丈門一家が少し荒れてる』
俺は火曜日の会話を思い出し、今一度仮定した。件の荒れている組織が、ざらめ関係だった場合どうなるのかを。
黒丈門一家の数ある内部組織の中でも、ざらめ一派はとりわけ異質な集団である。設立されてからまだ二年足らずのこの集団は、元々は黒丈門組長が一人娘であるざらめを危険から守るために作った瑪瑙筆頭のボディガード・グループだった。それがいつの間にかざらめの部下という形になり、一つの派閥を形成するに至る。
ざらめという暴力的な頭目が動かす組織だ、本来ならば急進派として潰されてもおかしくないのだが、娘を溺愛する組長により、構成員を”ざらめに忠誠心を持つ人間”に厳選する代わりに保護され、今でも少しずつ拡大している。たしか現在は総勢十二名だったはずだ。
メンバーは全員がリーダーであるざらめか、あるいは幹部であり組長からの信頼も篤い豪傑・瑪瑙に心酔している人間であり、謂わば二人のカリスマによって瓦解せず保たれているグループである。仮に、もしそこで問題が起こっているというならば、それはやはりリーダーの求心力とか、部下の忠誠心とか、そういったものが要因となってくるのではないか。
忠誠にひびが入っている?
俺は唸った。それが俺の殺される理由に繋がるのか?
分からない。俺が関われるのは送迎程度だ。内側のことまでは関与出来ない。
しかし殺される以上は、そこに理由というのは必ずあるはずなのだ。もう回想も水曜日である。大まかにでも当たりをつけていかないと危うい頃合いだろう。
とりあえず今はこの疑問は保留とし、水曜日の回想を進めることにする。
「それで?二つ目の質問は何だ?」と俺がざらめに問う。
ざらめはボソボソと声を漏らした。
「その、背はどうやったら・・・」
「え?何?」
「だから、身長はだな・・・」
「なんだって?」
「お、一昨日渡したコインはちゃんと持ってるだろうな!」
「ざらめ、身長はな、伸びる人は伸びるし、伸びない人は伸びないんだ。神様が定期的に決めてることだからな、普段の行いとかで」
「ふ、ふざけるな。そんな質問はしていない。縮め。殺すぞ」
「あのな、ざらめ。殺すだなんて冗談でも言うな。世の中には言って良いことと悪いことがあるんだぜ」
俺は珍しく真面目な顔をして(普段は開いている眉を寄せて、半開きの口を閉じた)、ざらめに顔を寄せると強い口調で言った。不意をついて、社会のルールというものを世間知らずのお嬢様の心にダイレクトに届けてやろうとしたのだ。それで少しは反省というものを覚えて、俺への風当たりも改善されるようなら御の字という考えだった。
しかしざらめはポカンとしていた。初めてちくわを見たアメリカ人のように呆けた後で、今度は少し不機嫌そうに口を尖らせた。
「冗談で言ったことなど一度もないぞ」
うん。そうだよな。
俺は肩を落とし、制服の内ポケットから例のお守り袋を取り出した。
「これだろ」
ざらめが満足そうに頷く。
「持っているなら良いんだ。いーか、絶対に失くすんじゃないぞ。それは謂わば私と貴様の酌み交わした盃みたいなものなんだからな」
「・・・おいおい、初耳だぞ」
言ってないからな、とざらめが顎を上げる。
「それってつまり、勝手にやくざ者にさせられたようなものじゃないか」
俺はかなり腹が立っていた。ざらめもそれに気が付き、冗談をやめる。
「正式に執り行ったわけじゃないから気にする程のことじゃない。私のような立場となると、仲人の前で交わすものだし」
「・・・まさか、白丈宮にはわざと見せたのか?」
「だから、正式じゃないと言ってるだろ。何ムキになってるのだ」
「ムキにもなるだろ」と俺は少し声を荒げた。「俺の人生かかってるんだぞ。お前の勝手な気分で軽々しく決めようとするな」
「だって、コージは、私・・・」
少女は何やら反論しようとしたが、結局言葉を切り、口を閉じてむくれた。
「・・・気分が悪い!帰る!」
吐き捨てると、ざらめは早歩きでズンズンと道の先へ行ってしまう。すぐ拗ねるのは彼女の悪いところだ。腹の立ち方によっては人をも殺すのだからなおタチが悪い。俺はアイツから食い物を取って殺されかけた男を知っている。
仕方なく俺は彼女の背に叫んだ。
「ざらめ!」
珍しく大きい声を出して、少しむせたことは秘密だ。
「絶対失くさないよ!約束してやる!」
ざらめが立ち止まり、足下の水たまりを爪先で少しいじり始め、やがて振り返った。
「・・・・・・本当だな」
「ああ」
しぶしぶといった様子で少女が帰ってくる。
「絶対だぞ。失くしたら――」
「殺す?」
「殺す」とざらめが元気になって言った。俺は元気がなくなった。




