東方旧悪魔
私は小悪魔である。名前は未だ無い……と言うことにしている。
パチュリー様に仕え始めて百年以上になるが、互いに真の名も明かさぬ契約関係のまま、しかしお互いにそれなりの信用を置ける中にはなれていると自負している。
……もちろん、これは私が勝手にそう思っているだけであり、実際にパチュリー様が私の事をどう思っているかはわからないのだけれど。
今日も私はパチュリー様に言われた通りに本を運び、紅茶を入れ、術に必要なものを集め、そしてパチュリー様のお世話をする。本来食事なんて必要なかったはずのパチュリー様だけれど、この頃は少しずつ食事をすることが増えている。これもきっとあの白黒の魔法使いのおかげなのだろう。この図書館の本や魔法の道具を勝手に持っていくだけの泥棒猫でなく、多少なりともいい結果をもたらすのならば、まあ一応構わないだろう。パチュリー様も黙認しているわけだし、私からどうこう言うようなことはない。私は所詮雇われですし。
しかし、いくら魔法で守られているからと言って図書館内での弾幕ごっこは片付けをするのが面倒だから控えてほしいところだ。多分言っても聞いてはくれないだろうけど、間違いなくこれも私の本心だ。
……次に暴れようとしたら、一服盛りますかねぇ……。魔力を使った薬だったらパチュリー様にバレるでしょうが、魔力を使わないで使える催眠誘導剤くらいなら気付かれることはない。勿論、無味無臭であればの話だけれど。
そう言った薬を使うのは私の得意分野でもある。若かりし頃に数少ない人間に拙い技術で作ってやったものも、サンクトペテルブルグで使ったのも魔力を使うことのない純粋な薬物と催眠誘導だけ。魔力を使わないようにしていればその残り香から討伐隊に気付かれるような事もないし、魔力を使って直接堕落させるのに比べたらかなり少なくはなるけれど、溢れさせた欲望を吸って私自身の格を上げていくことだってできた。
いくつかの町で同じように薬と技術だけで欲望を溢れさせることに成功しているし、時には大分徳の高い神父や牧師も術中に納めることができた。そのため私はそれなりに長く生きてはいるけれど、戦闘や戦争と言った争い事が苦手だ。今までも争わずに力を得ていたのだから、これからも争わずに力を得ていきたい。心の底からそう思っている。
ああ、世界が平和でありますように。たとえ神も悪魔も天使も仏も菩薩も妖怪も人間すらもこの世から消えてしまったとしても、この世が『平和』でありますように。
悪魔である私は神には祈らず、言葉を用いず、ただただそれだけを何物にも向けることなく祈る。
そうなってくれるのならば……私の『退屈』も、少しは癒されてくれるだろうから。
小悪魔は実に悪魔らしく笑う。情でなく、利でなく、欲のため。
傲慢を肯定し、暴食を推奨し、嫉妬を誘発し、色欲を拡散し、憤怒を呼び覚まし、虚飾を振る舞い、憂鬱と怠惰を産み、強欲を以てそれら全てを呑み干した。
彼女の中には、彼女がきっかけとなって産み出されたありとあらゆる欲望が渦巻いている。それは過去に産み出された物もあれば最近になってから産み出されたものもある。魔力を用いず、ただその技を以て産み出されたその欲は、外の世界で魔力と言うものが存在することがなくなっても彼女に力を与え続けた。多くの同胞が魔力の不足で餓え、渇いて行くのを見て、名も無き彼女はそれを嘲笑いながら生き続けていた。
そのうち彼女は有名になった。多くの悪魔が魔力を失って死に行く中で、何故か力を増し続ける名無しの悪魔として。名無しの悪魔など、世界中の魔力が薄れ始めてからは加速度的にその数を減らし続けているというのに、消え行くことを恐れる素振りすらなく、また、その在り方を肯定するように力を増し続ける彼女は、当時の多くの悪魔の興味を持たせるに十分な存在であった。
結果として彼女は多くの悪魔に嫉妬を、色欲を、強欲を向けられ、そしてそういった感情を向けた多くの悪魔を更なる罪の苗床とした。
ある悪魔はその身を彼女に差し出すことで対価として魔力を得る代わりに、その身に無数の獣の遺伝子を埋め込まれて悪魔から獣へと転身させられた。
ある悪魔は魔力の不足で餓えることのなくなるようにと『食物を魔力に変える程度の能力』を発現させられ、あらゆる物を喰らい過ぎて自滅し、瘴気を地上に振りまいた。
ある悪魔は別の悪魔を救うために自らを犠牲としたが、彼女はその悪魔の持つ全ての魔力をその別の悪魔へと移し替えて殺害。その後に救われた悪魔に『彼が死んだのは貴様のせいだ』と囁き続ける事で自殺に追いやった。
ある悪魔は『死ぬならば幸せに死にたい』と言う願いを叶えられ、多量の麻薬を使われて幸福の中に死んでいった。
そして、それらの行為によって生まれた罪。その全てを彼女はその身に収め……静かに蓋をした。
人間ほどの魔力すら使えないようになった彼女は、魔力を以て物を探す多くの悪魔の目からまんまと逃げおおせた。その頃になると彼女に挑む者も増えてきていたし、そうでなくとも変わり映えのしない日々に飽き始めていたのだ。
彼女は、かつて自分を魅了した世界の全てを見て歩いた。人の生活を眺め、自然の作り上げた絶景を見るのが基本であったが、時に人を堕落させ、人の欲だけでなく獣の欲すら受け止め、喰らうと言うことを繰り返した。彼女は真にこの世界に飽き始めていたのだ。
悪魔や天使と言った無限に近しい寿命を持つ者にとっての最大の敵は、『退屈』である。多くの悪魔がその毒に侵され、あらゆる行動を惰性以外の何物でもなく行うようになってしまえば、それはもはや死んでいるのと変わらない。そしていつの間にかその惰性すら失ってしまえば、それが悪魔だろうが何だろうがただ死んでゆくのみ。
彼女が幸運だったのは、そのような状態に陥る前に『興味を引くもの』と出会うことができたと言うただ一点に限られるだろう。
名を持たぬ彼女の興味を引いたのは、とある一人の少女。『知識』の名を持つ一族の一人であり、人間として完成するより早く魔法使いとして完成してしまった、生き物として歪みに歪んだ、未完成と言う形で完成している幼き少女であった。
人間が人間として生まれる。当たり前のことであるようで、実は非常に難しい。人間は人間の枠から外れようとしてもなかなか人間でなくなることなどできはしないが、人間は人間であろうとすることで時に容易に、流されゆくように人間道を踏破して人間と言う枠から外れてしまう。
この時彼女と出会った完成された未完の魔女も、自ら人として歪もうとしたわけではなくいつの間にか自らの与り知らぬ所でいつの間にか人を辞めてしまっていた。
そして、彼女はそんな魔女を一目見て気付いたのだ。多くの人間を見て、多くの人外を見てきた自分も、人間になれないままに魔女へとなったこの少女の事は何も知らない、と。
故に彼女は何も知らない魔女と契約を結んだ。人として知っているべき多くの事を知らず、しかし魔女として知っているべきことの多くを知る、若く歪んだ少女。その未来がどのような道を描くのか。それを見届けることが彼女にとっての新たな生き甲斐となったのだ。
彼女は旧き悪魔である。それを契約者である少女は知らず、名乗りの通りの小悪魔だと思っている。
彼女は神格を得ることができる。それを契約者である少女はそれを知らず、ただの小悪魔だと思っている。
彼女はこの世全ての罪の実に四割を保持している。契約者である少女はそれを知らず、何を司るでもない小悪魔だと思っている。
彼女は格だけで言えば多くの魔王に敬語を使わせて当然の立場にいる。それを契約者である少女は知らず、ただの小悪魔だと信じている。
小悪魔と呼ばれる彼女は、今も契約者である少女と共に、とある館で図書館の司書としての役割を全うしている。契約者である少女には自らがどのような存在であるかを知らせず、悪魔らしく契約に従順に過ごしていた。
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