ねぼすけヤマネと樫の木
前世、春になっても兄弟でいちばん最後まで起きられなかったねぼすけヤマネの私は、婚約者に『寝てばかりの役立たず』と捨てられましたが、迎えに来たのは前世のねぐらの樫の木でした
婚約破棄を言い渡されたとき、私は半分眠っていた。
春の夜会。大広間のいちばん隅、柱の陰の長椅子。楽団のワルツはちょうどいい子守歌で、シャンデリアの灯りはぽかぽかの陽だまりみたいで――つまり私は、いつものように、うとうとしていた。
「コレット・ベルナール! 聞いているのか!」
はっ、と顔を上げる。
目の前に、婚約者のジェラルド様が立っていた。侯爵家の嫡男で、金の巻き毛がきらきらしていて、怒っていた。とても。
その腕には、栗色の髪の可憐な令嬢がしがみついている。男爵家のアデル様。学園でいちばんの才媛と評判の方だ。
「……はい。聞いて、おります」
聞いていなかった。
「今日をもって、お前との婚約を破棄する!」
広間がざわりと揺れた。ワルツが止まる。
「茶会に来ても寝る。観劇に誘っても寝る。俺が話していても寝る! 寝てばかりの役立たずを、侯爵家に迎えるわけにはいかない!」
言い返す言葉を探したけれど、見つからなかった。
だって、だいたい合っている。
(私、ほんとうに、よく寝るのよね……)
◇
私は前世、ヤマネだった。
森でいちばん古い樫の木の、うろの中で生まれた。兄弟は五匹。秋になると皆でころころに太って、ふかふかの苔と枯れ葉を集めて、ひとかたまりの毛玉になって冬を越す。
春が来ると、兄弟たちは一匹、また一匹と目を覚まして、うろの外へ飛び出していく。
最後まで起きられないのは、いつも私だった。
兄さんに鼻をつつかれても、すぴー。
姉さんに尻尾を引っぱられても、すぴぴー。
お日さまが木のてっぺんまでのぼって、ようやくもぞもぞ顔を出すと、もう誰もいない。
『おはよう。今年も、きみが最後だね』
そう言われた気がした。
声の主は、ねぐらの樫の木だった。……木がしゃべるはずはないのだけれど、ざわざわと揺れる葉の音が、私にはいつもそう聞こえたのだ。
ある冬、ひどい嵐が来て、樫の木に雷が落ちた。
幹は裂けて、半分が黒く焦げた。兄弟たちは別の木へ引っ越していったけれど、私はどうしても眠くて、焦げたうろの中で丸くなったまま冬を越した。
春。私はやっぱり、最後に目を覚ました。
そうしたら――裂けた幹の割れ目から、若い芽が、ぴょこんと出ていたのだ。
『おはよう』
その年の葉音は、なんだか泣いているみたいだった。
夏のあいだ、兄弟たちは枝から枝へ軽々と跳んだ。私も負けじと跳んで、だいたい三回に一回は落ちた。
ぽてっ。ころころころ。
落ちる先には、なぜかいつも、ちょうどいい高さの枝が伸びていた。葉っぱがたくさん茂っていて、受けとめてもらうと、ふわんと弾む。
秋には、樫の木はたくさんのどんぐりを落としてくれた。兄弟たちは遠くの木の実を探しに出かけたけれど、私は根元のどんぐりで足りた。足りるどころか、毎年いちばん丸々と太った。
『よく食べて、よく眠りなさい』
葉音は、そう言っていた気がする。
だから私は、そのとおりにした。毎年、毎年。
それから私は何度か冬を越して、何度目かの冬眠から、そのまま起きなかった。ヤマネの一生は、そういうものだ。
苦しくはなかった。樫の木のうろは、最後まであたたかかった。
◇
そして今世。子爵家の長女に生まれた私は、相変わらずよく眠る。
授業中に寝る。お茶会で寝る。刺繍をしながら寝て、指に針を刺して起きる。
ついたあだ名が、「ねぼすけ令嬢」。
両親は叱らなかった。そのかわり、困った顔で笑った。
「お前が昼寝をしていると、なぜか庭の薔薇がよく咲くんだよ」と父は言う。「たまたまだろうけどね」
たまたまだと、私も思っていた。
ジェラルド様との婚約は、侯爵家の先代夫人――ジェラルド様のおばあさまが決めたものだ。おばあさまは私を一目見るなり、「この子だよ」と言って私の手を握った。理由は教えてくれなかった。
それから五年。私は毎週、侯爵家のお茶会に通った。そして毎週、侯爵家自慢の葡萄園を見下ろすテラスで、ぽかぽか眠った。
ジェラルド様は毎週、私を起こしもせずに、どこかへ行ってしまった。
かわりに、目を覚ますと、たいていおばあさまがとなりにいた。
「よく眠れたかい」
「はい……申しわけありません、また」
「謝ることはないよ。眠っておいき。あんたがそこで眠ってくれると、うちの葡萄は機嫌がいいんだ」
おばあさまはそう言って、私の肩に毛織りのショールをかけ直してくれた。冗談だと思って、私は笑った。おばあさまも笑った。けれど、その目だけは、ふしぎと真剣だった。
一度だけ、ジェラルド様がどこへ行くのか、テラスから見えたことがある。
葡萄園の向こうの東屋。栗色の髪がちらりと揺れて、楽しそうな笑い声が風に乗って聞こえてきた。
私はそっと目を閉じた。眠ってしまえば、何も見なくてすむ。
ねぼすけでよかったと、思ったのはあのときくらいだ。
◇
「……承知いたしました」
私は立ち上がって、ドレスの裾をつまんで頭を下げた。眠いせいで少しふらついたけれど、たぶん、きれいにできたと思う。
(悲しい……のかしら)
よくわからなかった。ジェラルド様と、ちゃんとお話をした記憶があまりない。私は寝ていたし、彼はいなかった。
ただ、あのテラスで眠れなくなるのは、少しさびしい。あそこは日当たりがよくて、葡萄の葉がさわさわ鳴って、どこか懐かしい場所だったから。
「わかったなら、さっさと――」
ジェラルド様の声が、途中で止まった。
広間の扉が開いて、ひやりとした風が吹きこんだのだ。夜会の空気とはぜんぜん違う、湿った土と、苔と、若葉のにおい。
入ってきたのは、背の高い男の人だった。
黒に近い深緑の礼服。灰色がかった銀の髪。そして、雨上がりの苔みたいな、緑の瞳。
「北の……グリューネヴァルト辺境伯?」
誰かがささやいた。王都の夜会にはまず顔を出さない、北の大森林を治める方だ。人嫌いで、森から出てこないと噂の。
その辺境伯様が、まっすぐ私のところへ歩いてきて、
膝をついた。
「――見つけた」
低くて、静かな声。ざわざわ、と葉が揺れるような。
「迎えが遅くなってすまない。人の身に生まれるのに、少し手間取った」
私はぽかんと口を開けた。広間じゅうが、同じ顔をしていたと思う。
「あ、あの……どちらさまで……」
辺境伯様は、ほんの少し困ったように眉を下げて、それから――笑った。
「おはよう。今年も、きみが最後だね」
◇
その瞬間、頭のてっぺんから爪先まで、春が駆けぬけた。
裂けた幹。焦げたうろ。割れ目からのぞいた、小さな若芽。
「……樫の、木……?」
「シルヴァン・グリューネヴァルト。今世では、そう呼ばれている」
彼は私の手を取った。大きくて、かさついていて、木の幹みたいにあたたかい手だった。
「ジェラルド殿」と、彼は振り返りもせずに言った。「婚約は破棄された、ということで相違ないか」
「そ、そうだ。そんな寝てばかりの女――」
「では、もらっていく」
あっさりと。落ちた木の実を拾うみたいに。
私はそのまま抱き上げられて、ざわめく広間を出た。シルヴァン様の胸元は、あの冬のうろみたいに、深くてあたたかい木のにおいがした。
◇
北へ向かう馬車の中で、シルヴァン様はいろいろなことを教えてくれた。
「きみは、眠ることで力を分けていたんだ」
「力……ですか?」
「春の力、とでも言えばいいか。きみが眠ると、そばにある土や木や花が、少しだけ元気になる。ヤマネだったころから、ずっとそうだった」
雷に焼かれたあの冬。本当なら、樫の木は枯れるはずだった。それを、うろの中で眠りつづけた小さな私が、ひと冬かけて生き返らせた――のだという。
「兄弟たちが起きたあとも、きみだけ長く眠っていただろう。あれは、ただのねぼすけじゃない。きみが眠っているあいだに、森じゅうが春の支度をしていたんだ」
「……ただの、ねぼすけだと思っていました」
声が、少しふるえた。
役立たず、と言われた。広間じゅうの前で。言い返せなかったのは、自分でもそう思っていたからだ。眠ってばかりで、何もできなくて、誰の役にも立っていないと。
「……私、役立たずじゃ、なかったんですか」
ぽろりと、涙がこぼれた。夜会では一滴も出なかったのに。
シルヴァン様は何も言わずに、大きな手で私の頭をなでた。ゆっくりと、何度も。風が若葉をなでるみたいに。
「きみが眠っていた冬のおかげで、私は今もここにいる」
それで、十分だった。
「まあ」と、彼は少しだけ口の端を上げた。「ねぼすけなのも、本当だけれどね。それも、よく知っている」
私が涙をふきながら笑うと、シルヴァン様もくすりと笑った。それから、窓の外の暗い森に目をやった。
「最後に眠ったまま起きなかった冬も、きみは私のうろの中にいた。……次の春、私はひとりで目を覚ました。おはよう、と言う相手がいなかった」
それが、どうしても嫌だったのだという。
だから、ずっと待った。百年と少し。きみからもらった命を森の木に残したまま、心だけを人の身に生まれ直す方法を探して、ようやく見つけて、それからきみを探して。
「侯爵家の先代夫人とは、昔、森で会ったことがある。あの人は勘がいい。きみを一目見て、あの葡萄園に必要な子だとわかったんだろう。……今夜のことも、あの人が知らせてくれた。孫がよからぬことを企んでいる、と」
おばあさまの、あの真剣な目を思い出した。あれは、ずっと見ていてくれた目だったのだ。
「葡萄園……」
「ここ五年、あの家の葡萄酒は〈奇跡の年〉と呼ばれていた。理由は、まあ、わかるだろう」
毎週のテラス。ぽかぽかの陽だまり。さわさわ鳴る葡萄の葉。
「……もしかして私、お茶会に行くたびに」
「寝ていただろう?」
「寝ていました……」
私は両手で顔をおおった。恥ずかしいのか、おかしいのか、自分でもわからない。
「心配しなくていい」とシルヴァン様は言った。「呪いでも罰でもない。あの葡萄園は、ただ、普通の葡萄園に戻るだけだ」
普通の、葡萄園に。
なんだか、それがいちばん、あの家にはこたえる気がした。
◇
北の森は、深くて、静かで、懐かしいにおいがした。
お屋敷の玄関では、白いひげの家令さんと使用人の皆さんが、ずらりと並んで待っていた。
「ようこそおいでくださいました、奥さま」
「お、おく……?」
「失礼、気が早うございました」
家令のマティアスさんは、しれっと言い直した。目尻のしわが、うれしそうに深くなっている。
あとで侍女さんに聞いたところ、シルヴァン様は十年ほど前から、ことあるごとにこう言っていたのだそうだ。
――いつか、春を連れて帰る。
使用人の皆さんは、それがなんのことか誰もわからなかった。わからないまま、毎年、客間のひとつに新しい毛布を用意していた。
「ほんとうに、春が来たのですねえ」と、侍女さんは私の顔をしみじみ見た。
春ではない。ただのねぼすけだ。……と言いかけて、やめた。
実家には、翌朝シルヴァン様が正式な使いを出してくれた。何日かして届いた父の返事は、たった一行だった。
――薔薇のことは、たまたまじゃなかったんだね。どうか、よく眠りなさい。
私はその手紙を、枕の下に入れて眠った。
辺境伯家のお屋敷の裏庭には、とても大きな樫の木が一本立っていた。幹の片側に、古い雷の痕がある。
「……これ」
「私が生まれた場所であり、今も私の根っこだ。屋敷は、あとからこの木のそばに建てた」
根元に、ちょうど人ひとりが丸くなれるくらいのうろがあった。中には、ふかふかの苔と、乾いた落ち葉と、真新しい毛布が敷きつめてあった。
「準備しておいた」とシルヴァン様は言った。少し照れくさそうに。
その日、私は樫の木のうろで昼寝をした。
ここ何年かで、いちばんよく眠れた。
求婚は、このお屋敷に来て三日目のことだった。
樫の木の下で私がうとうとしていると、シルヴァン様がとなりに座った。木漏れ日がちらちら揺れて、どこかで小鳥が鳴いていた。
「コレット」
「……はい」
「私は百年、ここで待った。待つのは、わりと得意だ」
「……はい」
「だが、もう待たなくていいなら、待ちたくない」
彼は、私の手のひらに何かをのせた。
どんぐりだった。つやつやの、帽子をかぶった、まんまるの。
「指輪は、王都の職人に頼んである。間に合わなかったから、今はこれで」
私は、どんぐりをじっと見た。前世でいちばんのごちそうだったものを。
「次の冬も、その次の冬も。きみが最後に起きる春を、私はそばで迎えたい」
私は半分眠っていた。だから返事は、「……ふぁい」になってしまった。
あとで聞いたら、それで十分だったそうだ。
◇
それから一年が過ぎた。
北の森は今年、百年ぶりと言われるほどの芽吹きだった。領地の麦はよく実り、川の魚は増え、村の子どもたちは「辺境伯さまのお嫁さんは春の妖精だ」と噂している。
妖精ではない。ただのねぼすけだ。
そういえば先日、王都から手紙が一通届いた。差出人は、侯爵家の先代夫人だった。
――今年の葡萄酒は、すっかり「ただの葡萄酒」に戻りました。〈奇跡の年〉の再来を期待していた方々からは予約の取り消しが相次ぎ、屋敷じゅうが大騒ぎです。
――あの子は、葡萄の出来が落ちたのを天候のせいにして、醸造所の者たちをずいぶん怒鳴りつけました。ですから私が、当主である父親の前で全部話してやりました。五年間、だれのおかげだったのか。毎週あの子が、テラスで眠るあなたを置いてどこへ行っていたのかも。
――アデル嬢のご実家は、才媛の娘が侯爵家に入れると喜んでいたそうですが、未来の当主がまず任されたのが葡萄の摘み取りだと聞いて、話は立ち消えになりました。
――あの子は今、醸造所で一から修業をしています。葡萄は、まじめに育てれば、普通においしいのです。それがわかれば、少しはましな当主になるでしょう。
――北の森は、さぞ春らしいことでしょうね。どうぞ、よく眠って。
私は手紙をたたんで、ちょっとだけ笑った。
それから、シルヴァン様にこの話をしようと思ったのだけれど、暖炉の前のソファがあんまりあたたかくて――
すやぁ。
「……おやすみ」
遠くで、葉が揺れるような声がした。
次の春も、その次の春も。私がいちばん最後に目を覚ますたびに、きっとあの人は、こう言うのだ。
おはよう。今年も、きみが最後だね――と。




