運命を探す娘
シャムロック王国の王太子であるグレッグは、神に愛された男として知られていた。
実際に教会に神託があったわけではない。
だがグレッグは、誰よりも賢く、誰よりも美しかった。何よりも運に恵まれていて、数々の奇跡を起こしているのだ。
グレッグは第二王子であり、何より身分の低い側妃の子どもである。それにも関わらずグレッグが王太子であるのは、ただただグレッグが優秀であり、何より幸運の子どもだったからだ。
お披露目の日に、グレッグは熱を出した。やむを得ず出した身代わりになった少年が、警備の隙を突いた暗殺者に殺された。
ある日のお茶会で、グレッグは手が滑ってお茶を零してしまった。実はそのお茶に、暗殺のための毒が仕込まれていた。
たまたま野犬を拾ったら、その野犬が巨大な犯罪組織の大切な証拠を持っていたこともある。グレッグはその証拠を手がかりに犯罪組織を追い詰め、十代半ばにして誰よりも大きな功績を上げた。
詰まりグレッグとはそういう、誰よりも幸運であり、誰よりも優れた人間だったのだ。
王立学園に入る直前の十四歳に、急遽グレッグが王太子に決まった。身分の低い側妃の子どもとしては異例のことだった。
グレッグのあまりの優秀さに、正妃の子どもであり最も王位継承権の高かった第一王子が心を壊し、グレッグを害そうとしたのだ。暗殺計画が知られたのは、たまたまグレッグの前で羽を休めていた小鳥に不自然なインクがついていたのがきっかけだという。
そういう、色々な奇跡に守られるようにして、グレッグは生きていた。
本人も優秀だった。
一を聞いてあっさりと百も二百も理解した。八歳にして、第一王子に魔法勝負であっさりと勝ち越した。剣術の腕も師匠となった近衛騎士団長が唸るほどだったという。
つまりグレッグは、天に愛されるようにして生まれてきた子どもだったのだ。
さて、グレッグは転生者である。前世の記憶があるのだ。
これは別段隠されていることではなく、国民であれば誰でも知っていることだった。グレッグは自分が転生者であることを喧伝すると同時に、前世の恋人を探していたのだ。
グレッグが転生者であるという、そのことも第一王子を追い詰めた一因だった。
誰しも、眼の前に自分よりも明らかに特別な人間がいることには耐えられないものである。王太子の第一候補であり、誰よりも優秀さを求められる第一王子は、誰の眼から見ても『特別』であるグレッグの存在に耐えきれなかったのだ。
そんなグレッグは、生まれてからずっと、前世の恋人を探していた。これも国民であれば誰しも知っていることだった。
だから婚約者も決まっていなかった。グレッグ自身がずっと拒否してきたのだ。
ここに来て、問題が生じた。グレッグが王太子になったことで、グレッグの婚約者の座を狙う争いが激化したのだ。
ついに数人の死人が出たことで、ついに父である国王はグレッグを責め立てた。
「王太子が、いつまでも婚約者も決めないとは何ごとか!」
グレッグは言い返した。
「ですがわたしには、心に決めた女性がいます。その女性以外と結婚するつもりはありません」
「その前世の恋人とやらが、いつまでも見つからないのだろう!」
国王は頭が痛いというような顔をした。
「前世の恋人とやらが見つかったら、側妃にでもすれば良い。政略と恋愛は別と考えろ」
「そんな、恋人を裏切るようなことはできません!」
国王はグレッグを睥睨した。
「では、王太子の座を降りるか? 王族籍から離れろとまでは言わん、適当な爵位でも与えてやろう」
「……」
グレッグは沈黙した。第一王子は心を壊して療養しているので、いまの国王の第一候補はグレッグだ。
けれど側妃を持つことも珍しくないシャムロック王家では、国王候補は第一王子とグレッグだけではない。
沈黙したグレッグの前で、国王は馬鹿にするように鼻を鳴らした。それから強引に、宰相の娘であるハンティントン公爵令嬢との婚約を宣言したのだった。
さて、不本意な婚約の後に、グレッグは王立学園に入学する。そこでグレッグは、運命に出会うことになる。
前世で愛した女性と再会したのだ。
「ハンナ……」
横顔でも、すぐに判った。声をかけたのはグレッグが先である。
一人で学園に向かっていたハンナは、呼びかけられて振り返った。呼び止めた青年を見返して、驚き、徐々に表情を喜びに染める。
そしてハンナは、躊躇うことなくグレッグの胸に飛び込んだのだ。
「グレッグ! 久しぶりね」
グレッグも感動して、ハンナを抱きしめた。紛うことなく、恋人同士の感動的な再会の場面だった。
――そういう状況を、グレッグの婚約者になったジリアンが、一歩引いて眺めていた。
別に、ジリアンもグレッグを愛しているわけではなかった。
何ならジリアンは結婚のときに身分の低い愛人を連れて行くつもりでいたし、それは王家も承知していることだ。貴族の結婚などそういうものである。
政略に愛など必要としていないので、婚約者であるグレッグが前世の恋人を愛していようが興味がなかった。何なら百人でも二百人でも愛人を作ってくれて構わないとさえ考えていた。
だからジリアンは、本当に気にしていなかったのだ。なのに、ハンナというらしい少女はジリアンが見ていることに気づくと、慌ててグレッグから離れた。
「グレッグ、わたし以外の女性と婚約したのね」
引きつるように呟く。慌ててグレッグは、ハンナにすり寄った。
「違うよ、単なる政略さ。愛しているのは君だけだ」
そんな言葉を受けて、ハンナは不器用に笑った。
「いまは王太子様だものね。――でもわたしは、あなたを諦められない」
くるっと振り返る。それからハンナは、ジリアンに向けて宣言したのだ。
「わたしは、グレッグを愛しているわ。だからわたしは、あなたからグレッグを奪います」
それをジリアンは、ちょっと戸惑ったような気持ちで聞いていたのだ。
さて、ハンナはキャボット男爵家の令嬢であった。令嬢と言っても養女で、魔法の才能を見いだされて孤児院から引き取られたのだった。
ハンナは優秀だった。最初は上位の二割ほどだった成績は、徐々に高位貴族たちに追いつき、肉薄するほどになった。
何よりも、魔法が得意だった。ハンナの操る魔法は風のようで、まるで世界の全てがハンナに味方しているようだった。
そういう、ハンナの様子は、王立学園や貴族社会の隅々にまで伝わった。ハンナがグレッグの前世の恋人であるということを、二人は隠さなかったからだ。
ハンナはグレッグのために献身的に努力をした。
グレッグのために弁当を作り、菓子を作って持ち込んだ。グレッグが生徒会に入ればハンナも入り、グレッグの仕事を手伝った。
「ハンナは本当に優秀なんだよ」
ジリアンの前で、たびたびグレッグはハンナを褒めた。
「細かな作業も面倒臭い作業も、積極的に引き受けてくれる。明るくて色々な人に臆さず話しかけるから、意見の取りまとめも楽だ」
そういう、ハンナの優秀さは、ジリアンも知るところだった。
実のところジリアンも、少しずつ難しい立場に立たされていた。前世からの恋人であるグレッグとハンナの間に割り込もうとする悪役令嬢だと噂されたのだ。
公爵令嬢の立場を利用し、真実の愛を阻もうとする悪役令嬢。それが、いまのジリアンの評価だった。
けれどジリアンは、グレッグの本音を知っている。
「……せめてハンナが、伯爵家以上であればなぁ……。男爵家の、しかも養女か」
たびたびそうぼやいているのを聞いているのだ。
公爵令嬢の婚約者を排して、平民出身の少女を婚約者に取り立てるには、何かよほどの理由を用意する必要がある。そういうことに、グレッグは悩んでいるのだった。
周囲の思惑を余所に、ハンナは無邪気である。グレッグに懐き、たびたび仕事を手伝った。ハンナはじりじりと成績を上げ続け、いまではハンナよりも成績の良い生徒は数人しか残っていなかった。
誰かに訊かれたとき、ハンナは照れたように言った。
「グレッグの役に立ちたいの」
花としか触れ合ったことのない、純真な乙女の顔で。
「いまのグレッグは王太子様で、未来の王様だものね。だからグレッグの役に立てるように、わたしも今からいっぱいお勉強しなくちゃ」
学友たちは戸惑った。本当に平民出身で、いまは男爵令嬢のハンナが、王太子と結婚するつもりでいるのだろうか。
そんな学友たちに、ハンナは真っ直ぐな表情で言ったのだった。
「身分の差くらい、愛があればどうとでもなるわ」
にこ、と美しく、狂わしく、笑う。
「そうよ、愛が全てなの。わたしはグレッグを愛しているわ。ただそれだけで、それが全てなの」
じわじわと、学友たちは派閥に分かれた。公爵令嬢であり愛のない婚約をしているジリアンか、男爵令嬢ではあるがグレッグに心から愛されているハンナか。
ハンナがそれなりに優秀で、善良であることも、学友の判断を迷わせた。ハンナに足りないのは身分だけだったのだ。
ハンナは人びとと積極的に関わった。
グレッグだけではなく男女誰にでも気安い性格で、誰にでも親切にした。恐らくは根っから人間が好きなのだろうと思われた。
そういうハンナに、惹かれる生徒たちがいることも仕方のないことだった。そもそも身分差の恋というのは、いつの世でも人びとを惹きつけるものである。
ハンナは、恋敵であるはずのジリアンにも優しかった。魔法薬学の授業で、危険な薬品を頭から被りそうになったジリアンを庇ったのはハンナである。
魔法薬と魔法は反応しやすいものなので、魔法薬を魔法障壁で防ぐことができるのは熟練の魔法士だけだ。ハンナは、あっさりと完璧な魔法障壁をジリアンの前に張ったのだった。
どうしてかと思わずジリアンが問えば、ハンナはきょとんと答えた。
「あなたは良い人だわ。あなたがグレッグの婚約者であることはとっても嫌だけれど、あなたのことは好きよ」
そうして、ジリアンとハンナの間には、敵対する関係ながら嫌い合う関係ではないという、微妙な関係が築かれたのだった。
「やっぱりハンナは素晴らしい女性だ!」
興奮して、グレッグは熱弁した。
その頃にはジリアンは、別に王太子の婚約者がハンナでも良いかも知れないと思っていた。実際にグレッグが幼い頃から追い求めていた『前世の恋人』であるハンナは、国民たちにもそれなりの人気があったのだ。
「では、わたくしとの婚約を解消致しますか?」
ジリアンはそう問うた。親切心のつもりだった。だというのにどうしてだか、グレッグはすぐには首を縦には振らなかったのである。
「そ、それは……、もう少し後で考えるでも良いだろう」
幼い頃から『前世の恋人』だけをただ愛し続けているとは思えない台詞だった。
ジリアンがそういうグレッグに首を傾げている間に、王立学園では一つの季節が終わり、長期休暇前のパーティーが行われた。
パーティーの準備は任意での参加だったが、ハンナは積極的に手伝っていたようだった。とにかく色々なことに挑戦するのが楽しくて仕方がない、という様子だった。
グレッグはジリアンと義務的に一曲踊った後は、ハンナにかかりきりだった。そしてある瞬間に、ハンナの前で跪く。
ざわっ、と会場の空気が揺れた。周囲の生徒たちの注目が一か所に集まった。
そういう、注目を浴びながら、グレッグはハンナに求婚したのだった。
「ハンナ、前世から君だけを愛している。今世でもきみと一緒に生きていきたいんだ。結婚して欲しい」
きゃあっ、と恋愛小説好きらしい数人の少女たちが黄色い悲鳴を上げた。
他の生徒たちも息を飲んでいた。グレッグは王太子としても、前世からの愛を貫き続ける男としても、注目されていたのだ。
一方で、ハンナは首を傾げた。待ち望んでいた求婚を受けたにはおかしな反応だった。
「今日、あなたは一曲目にジリアン様と踊ってらしたわ。ジリアン様との婚約を解消されたとも聞いていない」
「そ、それは――」
慌てたように、グレッグは言い募った。
「きみには側妃として一緒にいて欲しいんだ。この国では、王族や貴族が恋人を側妃や第二夫人にするには珍しいことじゃないよ」
「ふーん……」
ゆっくりと、ハンナは、グレッグの言葉を咀嚼したようだった。
「それって、ジリアン様との婚約は解消しないということ?」
「そう、だね。だってジリアンは公爵令嬢だよ。政治には必要なことだろう?」
「ジリアン様が正妃で、わたしは側妃になれと言うのね?」
「そうだよ、判ってくれて嬉しいよ! 君はわたしに愛されているだけで良いんだ」
グレッグは感極まったように立ち上がって、ハンナを抱きしめようとした。
ハンナはにこやかに笑ったまま、グレッグから一歩引いた。そのせいで、グレッグの腕は空振りすることになる。
微笑んだハンナと呆然とするグレッグの間に、数秒の沈黙がおりた。焦ったように、グレッグが笑う。
「どうしたの? ハンナ。前世から今まで、ずーっとわたしの一番は君だけだよ」
「でも二番目がいるのね」
ハンナはあっさりと言い返した。一番目がいるということは、二番目もいるということだ。
のんびりとした口調で、ハンナは言った。子どもに言い聞かせるように。
「わたしが愛したのはあなただけ。前世も、いまも、あなただけ。二番目なんてないの」
「だ、だけど――」
グレッグは焦った。焦って、つい、言ってしまった。
「わたしは王太子だぞ! 男爵家の養女を正妃にするだなんて、できるわけないだろう!」
ハンナは微笑んだ。大して怒った様子はなかった。
「つまり今世のあなたに、わたしは相応しくないということね」
「そんなことは――」
「言ったわよ。言ったの。いま、あなたは、わたしのことを、自分には相応しくないって言ったの」
はぁ、とハンナは嘆息した。何もかも諦めるような吐息だった。
「わたしと結婚するのなら、公爵家のジリアン様との婚約は諦めて。もしくは男爵家の養女との結婚が許されないなら、王太子から下りて。前世では羊を飼って暮らしていたじゃない、わたしは幸せだったわ」
「そ、そんなことできるわけないだろう!」
「じゃああなたは、わたしよりも自分の立場を選んだということよ」
一歩、二歩、ハンナはグレッグから引いた。
「あなたはただわたしに、苦労しろと言えば良かったのよ。そして自分も一緒に苦労すると言えば良かった。あなたがわたし一人だけをただ愛してくれるなら、それで良かったのに」
一つ、ハンナは涙を零した。その涙を、ハンナは自分で拭い取った。
「わたしだけに我慢をさせて、あなたはいま持っているものを何一つ手放さないというのであれば、それはわたしじゃなくて自分を愛しているのよ。前世では本当に素朴なひとだったのに、こんなにも変わってしまったのね」
はぁー、とハンナは深く、深く嘆息した。
それから俯いて、しばらく沈黙した。何かを諦めるような、整理するような時間だった。
それから不意に顔を上げて、ハンナは微笑んだ。ひどく美しい、透明な笑みだった。
ゆっくりとした動きでほんの軽く頭を下げる。完璧な淑女の礼を見せてから、ハンナは言った。
「あなたがわたしだけをただ愛してくれないと言うのなら、わたしはもうあなたといられない。ここでさようならね」
未練のない様子でそう言って、ハンナはあっさりとグレッグの前から立ち去ったのだった。
あとには、呆然とするグレッグと、気まずげな生徒たちだけが残ることになる。
さて、そのまま逃げるように男爵家に戻ったハンナは、両親に責め立てられることになる。
何しろ王太子の情を貰えるという話になれば、側妃であろうとも大変な名誉だからだ。それをくだらない感情論で切り捨てたハンナを、男爵家の両親は責め立てたのだった。
その場でハンナは勘当を言い渡された。そうしてハンナは、再び家を失うことになったのである。
さて、一方のグレッグはと言えば、ハンナを求めて半狂乱になっていた。
「違う、愛している、愛しているんだ」
何度も何度も、誰かに言い訳をするように、グレッグは言った。その様子をジリアンは、興味のない様子で眺めていた。
しばらくぶつぶつと頭を抱えていたグレッグは、不意に明るい表情で顔を上げた。
「そうだ、連れ去ってしまえば良いんだ。何しろわたしたちは愛し合っているんだから」
ジリアンは首を傾げて問うた。
「それは、わたくしとの婚約を解消するということですか?」
「いいや、お前との婚約は継続する。平民のハンナは側妃にすれば良い」
それでは、パーティーのときと何も変わらないのでは。ジリアンは呆れて言った。
「ハンナさんに嫌われてしまいますわよ」
その言葉に、グレッグはきょとんとした。それから当たり前のように笑い飛ばしたのだった。
「馬鹿なことを言うな。わたしとハンナは愛し合っているんだぞ。ハンナがわたしを嫌うわけがない」
そうして、王太子グレッグから騎士団にハンナ誘拐の命令が下されたのである。
一方でそういう報告を受けた国王は、あっさりと命令を上書きした。
「殺せ」
ひと一人の命を奪おうというときに、顔すら上げなかった。
「単に側妃にするのであればまだしも、攫えば汚点の一つになろう。いつまでも王太子を誑かす毒女は要らん。グレッグと結ばれたいと言うのならば、来世ででも結ばれて貰おう。来世があるかは知らんがな」
嘲った口調でそう言って、国王は騎士団にハンナの殺害を命令したのである。
さて、女一人と言えど、騎士団は油断しなかった。ハンナが魔法が得意なことは知られていたからだ。
万が一の目撃者を消す意味もこめて、騎士団は三十人体制でハンナに迫った。
ハンナはそのときにはすでに男爵家から追い出されていた。だから一人でふらふらと歩いているところを、騎士団が急襲することになる。
注意の声などかけるわけもない。
無防備な背中から、か細い首を飛ばして終わり。それだけの、簡単な仕事のはずだった。
――ほんの十数分後には、その場に三十人の騎士の死骸が転がることになった。
「え、えぇ……何なの……」
あくまで被害者のような表情で、ハンナは口元を手で隠した。
あっさりと三十人の戦闘員を殺したハンナに、感慨はなかった。ただちょっと面倒な仕事の一つを片付けたような調子で、疲れたように肩を落とす。
「この騎士服は――騎士団の暗部ね。騎士服に認識阻害と軽度忘却の魔法がかかってる」
騎士団ということは、王太子であるグレッグだ。
グレッグが、ハンナを殺すように命令したのだ。ハンナはそう理解した。
実際にはグレッグはハンナを攫うように命令しただけで、ハンナを殺すように命令したのは国王のほうだった。けれど、そういうことを知る術はハンナにはなかった。
ついには殺そうと思うほどにグレッグに疎まれたのだ。
そう思い込んで、ハンナは泣いた。前世からの恋に決別する涙だった。
ハンナはグレッグを愛していた。本当に本当に愛していた。ハンナの愛は、前世からいまの瞬間までただの一度も揺るがなかった。
ハンナ以外の女性も愛することなど耐えられないから、ハンナはグレッグに別れを告げた。
それでも、どうしたって、ハンナはグレッグを愛していたのだ。救いもないほど。
そういう恋心がひどく傷つけられてしまって、ハンナは泣いた。一目も憚らない大泣きだった。
周りには騎士三十人の死体が転がっている。周囲にはひどい血のにおいが広がっていた。
その真ん中で、ハンナは、花としか接したことがない乙女のような調子で泣いたのだった。
ハンナは泣いた。泣いて、泣いて、泣いて、ハンナが落とした涙のうちの幾つかは真珠になって地面に転がった。
ひくりひくりとしゃくり上げながら、ハンナはその真珠たちを拾い上げた。
手のひらに大切に包み込んで、祈るようにぎゅっと胸に抱く。それから決意した顔で手のひらを広げて、ハンナは手の中の真珠たちにふっと息を吹きかけた。
ざら、と真珠が崩れた。
それはハンナの中にあった、グレッグへの恋心だった。大事に大事にしていた恋心を、ハンナは壊して捨てることに決めたのだった。
さらさらと、真珠が崩れていく。ひどく美しい、少しいびつな、真珠が崩れていく。
やがてすっかり真珠が消えてなくなってしまったあとに、ハンナは顔を上げた。
その表情には、もう陰りはなかった。ハンナは自分がグレッグを愛していたことは覚えているけれど、そのグレッグへの恋心はすっかり失ってしまったのだった。
そしてハンナは、行儀悪く地面に座り込んで大きく伸びをした。
「……あぁー、失敗しちゃったー!」
ばたばた、と足を動かす。ハンナの後ろに、そっと控えるものがあった。
「残念でしたね」
声をかけてきたのはハンナの侍従で、ハンナの父に仕える中位神でもある。馴染みの男神を、ハンナはちらりと睥睨した。
「見てたの? 悪趣味!」
はぁー、と地面に後ろ手をついて空を見上げる。
「今度こそ、運命の相手だと思ったのに!」
そう言って、ハンナは頬を膨らませた。
ハンナは、この世界のとある高位神の娘である。若い女神であるハンナは、そろそろ孫の顔が見たいと言い出した父神の手で地上に放り込まれたのだった。
この世界では、神は人間から神嫁や神婿を迎えることが多い。そういう慣習に倣った行いであった。
そしてハンナは、いつまでも伴侶が決まらないままもう何度も転生を繰り返している。
「……最悪……」
いよいよ地面に寝転がり始めたハンナを、男神がちょっと呆れた様子で覗き込んだ。
「グレッグは前世では本当に真摯で一途な、良い男でしたね。前世のうちに神婿にしてしまえば良かったではありませんか」
「それはだめよ!」
ハンナは起き上がって反論した。
「だって、神婿になったらずっと一緒にいるのよ。ずっと、ずーっとよ! わたしは高位神であるお父様の血を引いているから、きっとこの世界が滅ぶ直前まで存在していることになる」
ぴしっと男神に指を突きつけて、ハンナは自分が正義であるように言い切った。
「たかだか一回や二回転生したくらいで別の女に目移りするような男は、こっちから願い下げなのよ!」
「……」
男神は何も言わなかった。賢明なことである。
そもそも人間は短命であるので、無邪気なハンナが考えているよりも遥かに容易く性欲に振り回される生き物だ。だからだいたいの神というのはこれという人間を見つけた時点で、その人間をさっさと人間の営みから外してしまう。
ハンナのおかしなこだわりのせいでいつまでも伴侶が見つからないのだという指摘を、男神はしなかった。彼には彼なりの思惑があったので。
ごほん、と男神は咳払いした。
「あのグレッグはどうなるのですか」
「えぇー?」
ハンナは首を傾げた。
グレッグへの恋心を崩して壊してしまったハンナは、もうグレッグを思い浮かべても心が動かない。だから、あっさりと言った。
「もう神婿候補としての力を失ったから、ただの人間よ。来世ではもう今世のことなんて、なーんにも覚えてないでしょうね。たまに素で前世を覚えてる人間もいるけれど」
つまり異常なほどの知性も、魔法力も、幸運も、グレッグは何もかも失ったということだ。
今の今まで持ち上げられ続けていた王太子が突然ただびとと同じようになったらどうなるのか、ハンナにも男神にも興味がなかった。神嫁や神婿や、あるいは何かしらの特別な存在でもない限り、ほとんどの人間というのは神々にとっては足元を泳ぐ小魚の群れのようなものだからだ。
眼の前に転がる三十人もの人間の死体に、ハンナも男神も頓着しなかった。ハンナが飽きたように立ち上がって、ぐっと伸びをする。
「あーぁ、どこかに運命の相手が転がってないかなぁ。お父様にまたせっつかれちゃう」
「……」
男神は何も言わなかった。ただ薄らと笑って、ハンナの手を取って、無邪気でお転婆な女神をそっと新しい人生に連れ出した。
わたしではない作品へのコメントで『今世を蔑ろにしている感じがして、あんまり前世の恋人と結ばれる展開は好きじゃない』みたいな意見があって、『へぇー』と思ったのよね。わたしは逆に、『ちょっと転生したくらいで別の女に惹かれるような男は今世でも浮気するやろ』と思ってしまうタイプの人間なので。このへんの考え方は色々ありますわよね
本編とは関係ありませんが、これもわたしではない作品へのコメントで恋人を連れて嫁入りしようとしているキャラクターをめちゃめちゃ叩いている人たちがいて、『貴族の結婚なんてそんなもんでは……?』ってわたしすっごい疑問に思うのよね。政略結婚ってもっと冷淡でビジネスライクなものだと思っているので、紙を見るプーさん状態になってしまう
女に対して愛してもいない男に足を開かせる政略結婚がいかにグロいか、ってのがなろうでは軽視されている感じがして、何だかなーって思ってしまいますわね。昔の貴族女性たちがすぐに気を失うほど貧弱だったのは日常的な虐待が原因だなんて意見も見かけましたし
ちょうど前作で職業王妃について言及されているコメントを見かけましたが、『職業王妃の何が悪いの……?』ってわたしは疑問に思ってしまう。むしろ下手にお互い期待しないだけ理想的な関係では?? という気持ち
わたしの中では『王家の利益を優先するためにいまの婚約者もこれから婚約者にしようとしている女も両方の気持ちを踏みにじろうとした王太子は、王族や貴族としてはむしろ真っ当』と思っていたので、、このへんの感覚がちがーう、ってびっくりしちゃった
みたいな諸々を、『なんだかなー』と思いながら書きました! お暇潰しにどうぞー!
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