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クラスの誰も悪くない

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/12/18

本文:『クラスの誰も悪くない』


※途中で区切りながら進みますが、一続きの短編としてお読みください。


一 母親・沙希


 チャイムの音より先に、スマホが震えた。


 ママ友グループの通知は、朝のニュースより早く一日を始めさせる。

 洗面所で顔を拭いていたタオルをそのまま肩にかけて、私はキッチンのカウンターに置いたスマホを取った。


「今日の委員会、三時半からで大丈夫ですか?」


 画面に並ぶ吹き出しは、すべて同じアイコンのように見える。

 笑っている自分の顔写真。子どもの運動会。家族で出かけたテーマパーク。

 誰のものだったか、時々わからなくなる。


「はい、大丈夫です」


 そう打ち込んで送信ボタンを押す。

 返事を待つ間に、蛇口をひねった。シンクに落ちる水の音が、やけに大きく聞こえる。


 リビングのドアが小さく開いた。


「……ママ、今日、お弁当いらない日だよ」


 娘の楓が、寝起きの顔で立っていた。パジャマの袖からのぞいた手首に、かすかな青あざが見えた気がして、私は視線をそらした。


「知ってるよ。昨日プリント、見たから」


 テーブルの上には、「生活記録カード」が伏せて置いてある。

 表面の端だけ折れ曲がっているのは、私が何度もめくったからだ。


 名前の欄。

 「山本 楓」ときちんと書かれた文字。

 その下の枠には、担任の先生の丸い字が並んでいる。


「いつも穏やかに過ごせています。クラスの友達とも良好な関係です」


 読み上げることはしない。

 楓には、見せていない。


「ママ、それ、学校に出すやつでしょ」


「そうだね。……あとでカバンに入れておくから」


 楓は私の手元をちらりと見た。

 何か言いたげに口が動いたが、結局、「ふうん」とだけ言って、冷蔵庫を開ける。


 牛乳パックを持ち上げる指が、少し震えていた。


 私は蛇口を止めた。キッチンに静けさが落ちる。

 静かな家は、いつもより少し冷たく感じた。


 ――うちの子は、いい子です。


 そう言い聞かせるように、私は生活記録カードの裏面をそっとめくった。


「何か気になることがあればご記入ください」


 横一行。

 鉛筆の芯を紙に近づけ、ほんのわずか止まる。

 何も書かずに、また裏返した。


 書かなくていいことも、世の中にはたくさんある。


 たとえば、うちのクラスにはちょっと空気を乱す子がいる、とか。

 その子が娘のそばにいると、楓の顔が暗くなる、とか。


 事実は事実だ。嘘ではない。

 けれど、文字にしてしまった瞬間、その子は「問題のある子」になる。


 問題のないクラスの方が、きっと先生だって助かる。


 私はそう思っている。

 少なくとも、あの日までは、そう信じていた。


 *


 中学校の昇降口には、白いチューリップの鉢植えが並んでいる。

 地域のボランティアの人たちが植えたものだと、入学式の日に校長先生が説明していた。


 四月の終わり。

 少し花びらが開き過ぎていて、写真に撮るには間が悪い季節。

 だけど、その日も、私は足を止めた。


「この色、きれいですね」


 横に立ったお母さんが、私に話しかけてきた。

 ベージュのコート。薄くピンク色の口紅。

 名前は、たしか、山岸さん。あの子の、母親。


「そうですね。白い花って、汚れが目立つから、育てるの大変そう」


「……そうですね」


 山岸さんは、笑っているのかどうか、わからない顔をした。

 花びらではなく、根本の土ばかり見ている。


「この前、先生が言ってましたよね。クラス、落ち着いてるって」


 さりげなく切り出すと、山岸さんは一瞬だけ顔を上げた。


「ええ。良かったですよね」


「うちの子も、『みんな優しい』って。……山岸さんのところも、そうですか?」


 聞いてから、少し遅れて、しまったと思った。

 質問が、あまりに直接的だった。


「花音は……そうですね。あの子、ちょっと、言葉が下手だから」


 言葉が下手。


 その言い回しが、生活記録カードには絶対に載らない種類のものだと、私はすぐに理解した。


「下手、ですか?」


「思っていることをそのまま言ってしまうんです。悪気はないんですけど」


 山岸さんは、自分のコートの袖を指でつまんだ。

 生地をねじるようなその仕草が、会話よりも雄弁だった。


 悪気はないけれど、誰かを傷つける。


 それは、子どもだから許されることなのか。

 それとも、なおさらよくないことなのか。


「でも、先生が見てくださっているなら、安心ですよね」


 無難な言葉を選んでいるつもりだった。

 けれど、山岸さんは、ほんの少し首をかしげた。


「先生も、全部が見えているわけじゃ、ないですよ」


 そのとき、昇降口の扉が開いて、子どもたちの声が流れ込んできた。

 笑い声。叫び声。上履きの音。


 私たちの会話は、それで中断された。

 もう一度同じ話を続けるほどの、仲ではない。


 白いチューリップの鉢を挟んで立つ、二人の母親。


 その真ん中で、少し黒ずんだ土だけが、なにかを吸い込んでいるように見えた。


 *


 事故があったのは、それから一週間後の午後だった。


 学校からの電話は、ちょうど洗濯物を取り込んでいる最中にかかってきた。

 物干し竿に掛けたシャツを取ろうと手を伸ばしたとき、ポケットの中でスマホが震えた。


「はい、山本です」


 名乗りながら画面を見ると、発信元には「中学校」と表示されていた。


 嫌な予感がした。

 けれど、その予感は、親なら誰でも持つものだと、自分に言い聞かせる。


「担任の高橋です。今、お時間よろしいでしょうか」


 電話口の声は、いつも通りの落ち着いたトーンだった。

 それがかえって、胸のあたりをざわつかせる。


「はい。……楓に、何か?」


「楓さんは大丈夫です。ただ、クラスで少しトラブルがありまして」


 大丈夫、という言葉は、安心のために使われる。

 けれど同時に、“それ以外は大丈夫ではない”ということも示す。


「トラブル、というと」


「詳しくは、後ほど保護者会でご説明しますが……お子さんのクラスで、お友達が怪我をしてしまって」


 洗濯バサミを挟んでいた右手から、シャツが滑り落ちた。

 風に揺れて、ベランダの床に落ちる。

 白い布地に、うっすらと埃がついた。


「怪我って、どれくらいの」


「救急車で運ばれましたが、命に別状はありません。ただ、高いところから……少し転落してしまって」


 高いところ。


 その言葉だけで、頭の中に、校舎の屋上の柵が浮かんだ。


「すみません、相手のお子さんのお名前を伺ってもいいですか」


 私の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 何度も保護者会でマイクを握ってきたせいだろう。


「山岸花音さん、というお子さんです」


 ベランダの風が、止まったように感じた。


 私の右手は、まだ空中に上がったままだった。

 洗濯バサミだけが、取り残されたみたいに、挟むものを失っている。


「……そうですか」


 それ以上、何を言えばいいのか、わからなかった。


「今日の放課後、急遽、保護者の皆さんにお集まりいただくことになりました。クラス委員の山本さんにも、ご出席いただければと」


 クラス委員。


 その役を引き受けたとき、私は「なるべく面倒なことは避けたい」と思っていた。

 行事の進行や配布物の手伝いくらいなら、まあいい。

 でも、トラブルの矢面に立つのは、ごめんだった。


 電話を切ったあと、ベランダの手すりにもたれかかった。


 向かいのマンションのベランダに、同じように洗濯物が揺れている。

 隣の部屋のベランダでは、誰かが観葉植物に水をやっていた。


 世界は、いつも通りに回っている。

 屋上から誰かが落ちたというのに。


 私は床に落ちたシャツを拾い上げた。

 埃を払う。

 一度ついた汚れは、完全には取れない。


 ――うちのクラスは、問題のないクラスのはずだった。


 そう思っていたのは、もしかすると、私だけだったのかもしれない。


 少なくとも、あの日、保護者会で「クラスの誰も悪くない」と最初に口にしたのは、担任の先生ではなかった。


 私だ。


 自分でも、びっくりするくらい、はっきりと言った。


二 クラス委員・里奈


 「別に、いじめとかじゃないし」


 そう最初に言ったのは、たぶん私だ。


 面談室で、先生と、お母さんたちと、向かい合って座っていたとき。

 顔を上げると、天井の蛍光灯がにじんで見えて、視界の端で、山本さん――楓のお母さん――が小さくうなずいた。


「いじめ、という認識は、私たちには……ありませんでした」


 言い直したときには、もう口調が大人びていた。

 さっきまで教室で友達としゃべっていた、中学生の声ではなかった。


 椅子の足が床にこすれる音。

 遠くで、チャイムの予鈴が鳴る。


 私はスカートの裾を、ひざの上で握りしめた。


 *


 花音と初めて同じクラスになったとき、彼女の名前はすぐ覚えた。


 出席番号が近いからとか、見た目が派手だったからとか、そういう理由じゃない。

 ただ、苗字と名前の組み合わせが、妙に耳に残っただけだ。


 山岸花音。

 やまぎしかのん。


 声に出さなくても、口の中で転がすと、音が跳ねる。


 最初は、それだけだった。


 学級委員を決める日、担任の高橋先生が、「立候補する人」と言ったとき、教室はだれも手を挙げなかった。

 しばらく沈黙が続いて、隣の席の楓が、小さく私の脇腹をつついた。


「……里奈、やれば」


「やだよ」


「でも、小学校のときもやってたじゃん。慣れてるでしょ」


 慣れている、という理由で責任を押し付けられるのは、昔からあった。


 先生が、「誰もいないなら、お願いしてもいいかな」と私の名前を出したとき、教室のみんなは、特別反対もしなかった。

 誰もが、「自分じゃない誰か」がやってくれればいいと思っている顔だった。


「じゃあ、里奈さんにお願いしようかな」


「……はい」


 その瞬間、私の一年間の立ち位置が決まったような気がした。


 花音が変だと思うようになったのは、六月に入ってからだ。


 梅雨の雨が続いたある日、掃除の時間に、彼女はほうきを持ったまま窓際に立っていた。


「ねえ、ちゃんと掃いてよ」


 ほかの子が声を掛けても、花音は外を見ている。


「カエル、つぶれてる」


 ガラス越しに指差した先、校庭の隅の水たまりに、踏まれたみたいにつぶれたカエルがいた。


「うわ、きも」


 誰かが笑う。

 花音は笑わなかった。


「昨日はいなかったのに。今日になったら、つぶれてた」


 その言い方が、なんとなく気持ち悪かった。


 生き物が死ぬ、ということに対して、悲しいとかかわいそうとか、そういう言葉を足さない。

 ただ、事実だけを切り取って、並べている。


「……掃除、してよ」


 私がそう言うと、花音はようやくこちらを見た。


「里奈ちゃん、カエル、嫌い?」


「別に。好きとか嫌いとかじゃないし」


「そっか。じゃあ、いいね」


 いいね、の意味がわからなかった。

 ほうきを持ち直した花音の背中を見ながら、私はほかの子たちと同じように、「変な子」と心の中でラベルを貼った。


 その程度のことだった。


 *


 花音のノートのことを知ったのは、夏休み明けのことだ。


 体育祭の準備で、クラスが少しざわついていた頃。

 ある日、教室の後ろのロッカーから、カラフルなリングノートが見つかった。


「これ、誰の?」


 表紙には、キャラクターのシールがびっしり貼られていて、その上から黒い油性ペンで、「だいじ」と書かれていた。


 だれも手を挙げない。

 代わりに、一番後ろの席の子が、ノートをぱらぱらとめくった。


「ねえ、これ」


 教室の空気が、少し変わった。


 私はそのとき、教卓の前で配布物を仕分けていた。

 先生のいない教室は、いつもより少し声が大きい。


「何?」


 近づいていくと、ノートの中身が目に入った。


 ページの上から下まで、同じような書き方で、クラスメイトの名前が並んでいる。


『〇〇ちゃんのきらいなところ』

『〇〇くんのきらいなところ』


 名前のあとに、短い文章が続いていた。


『うるさい』

『すぐ怒る』

『すぐ泣く』

『なんかむかつく』


 ひらがなの「むかつく」が、妙に可愛く見えて、少し笑いそうになった。


「なにこれ、悪口帳?」


「やば」


「最低じゃん」


 誰かがそう言って、クラスの半分くらいが笑った。

 笑いながらも、みんな自分の名前を探している。


「里奈のもある」


 ページの真ん中あたり。

 私の名前と、斜めの字でこう書かれていた。


『なんでもわかってるふりをする』


 胸の奥のどこかを、細い針で刺されたような気がした。

 痛いかどうか、まだ判断が追いつかない。


「ほんとじゃん。さすが委員長」


「わかってるふりって、ふりじゃなくて、実際わかってるからね」


 冗談めかして返すと、周りがまた笑った。


 本当は、その瞬間にノートを閉じて、持ち主を探して先生に渡すべきだったのかもしれない。

 でも、私はしなかった。


 代わりに、ページをめくった。


 そこに、「山本楓」の名前があった。


『すぐ黙る』


 それだけ。

 ほかの子たちの行が二行、三行と続いているのに比べると、あっさりしていた。


「楓、よかったじゃん。“すぐ黙る”だって。悪口って感じしないし」


 私がそう言うと、楓は笑った。


「……べつに」


「ほら、自分のだけ短くてラッキーじゃん」


 楓はノートを見ないようにしていた。

 その目線の逃がし方に、私は気づいていたけれど、何も言わなかった。


 自分の名前がたくさん書かれているわけじゃない。

 それなら、まだ笑っていられる。


 ノートの最後の方のページに、「山岸花音」の名前があった。


『みんなにきらわれている』


 その一文だけは、黒いインクが他より濃くにじんでいた。


 そのページを見たとき、教室の空気が、少しだけ静かになった。


「……これ、花音の?」


 誰かがそう言った。

 誰も答えなかった。


 でも、全員、同じ人物の顔を思い浮かべていたと思う。


 私も、その一人だった。


 *


 花音が屋上から落ちた日のことを、私は思い出すたびに、「別にいじめじゃない」と頭の中で繰り返す。


 放課後、委員会が終わって教室に戻ったとき、楓と、何人かの女子がいなかった。

 かばんは置いてあったから、帰ったわけじゃない。


「どこ行ったの?」


 近くにいた子に聞くと、「さあ」と曖昧な返事が返ってきた。


 そのとき、窓の外から、風に混じって叫び声が聞こえた。


 何があったのか、すぐにはわからなかった。

 先生たちが慌てて廊下を走っていく。

 いつもは歩きなさいと注意するクセに、誰も止めない。


 あとで聞いた話だと、屋上で花音と何人かの女子が話していて、ちょっとした行き違いから、花音が柵の向こうに身を乗り出してしまった、ということになっている。


 誰かが引き止めようとして、手をつかんだ。

 でも、間に合わなかった。


 それが、公式の説明だ。


 だから私は言ったのだと思う。


「別に、いじめとかじゃないし」


 花音に、あのノートのことを問い詰めたことはある。

 体育の時間のあと、誰もいない更衣室で、楓と一緒に。


「ねえ、あのノート、何?」


「どの?」


「“だいじ”って書いてあったやつ。あれ、あんたのだよね」


 花音はしばらく黙っていた。

 ロッカーの扉を見つめたまま、タオルで髪を拭く。


「べつに。ただ、思ったこと、書いてただけ」


「“みんなにきらわれている”って、自分で書く?」


「思ったから」


 思ったから。


 それだけの理由で、自分にそういう言葉を貼り付けるのだとしたら、私には理解できない。


「それさ、見られたら、みんな嫌な気持ちになるって、考えなかった?」


「見られると思ってなかったから」


「じゃあ、どうしてロッカーに置きっぱなしにしたの?」


 問い詰めるつもりはなかった。

 ただ、知りたかっただけだ。


 花音はタオルをロッカーの中に押し込んだ。


「わたしがいないとき、みんな、わたしのこと、どう思ってるのかなって」


「……は?」


「だから、置いといたら、勝手に見て、なにか言うかなって。そしたら、あとで、書けるから」


 そのとき私は、ぞっとした。

 けれど、それを顔に出すわけにはいかなかった。


「なにそれ。性格悪くない?」


「性格、悪いよ。だから、みんなにきらわれてる」


 花音は、淡々と言った。

 その口調には、自嘲も、悲しみも、怒りも混じっていない。


 ただ、自分を説明しているだけのように。


 私は、なぜかそれ以上、責める気になれなかった。


 代わりに、「ノート、もうやめなよ」とだけ言った。

 花音は、「うん」と返事をした。


 その「うん」が、本気だったのかどうかは、今でもわからない。


 *


 保護者会のあと、先生が教室で言った言葉を、私はよく思い出す。


「今回の件は、だれか一人の責任とは言えません。クラス全体で、起きてしまったことです」


 椅子に座ったまま、子どもたちはうつむいていた。

 誰も、顔を上げない。


「だからこそ、クラスの誰も“加害者”ではないと思っています。もちろん、反省は必要ですが……」


 先生の視線が、私の方を少しだけ長く止まった。

 学級委員として、何か言ってほしいのだと、わかった。


「……クラスの誰も、悪くないよ」


 私は言った。


 口に出した瞬間、その言葉が、教室の空気に溶けていく感覚があった。


 怒られるよりも、責められるよりも、ずっと息苦しい言葉。


 だれも悪くない。


 その一文に、私たちはしがみついた。

 そうしないと、自分がどこから被害者で、どこから加害者なのか、わからなくなるから。


 あのノートのページに書かれていた、「なんでもわかってるふりをする」という一文だけが、なぜか、いつまでも頭の中で消えなかった。


 私たちは、何もわかってなんかいなかった。


 ただ、そういうふりをしていただけだ。


三 担任・高橋


 保護者会の日、職員室の空気は、いつもより湿っていた。


 梅雨でもないのに、ワイシャツの背中がじっとりする。

 コピー機の上に置きっぱなしの生活記録カードの束が、少し波打っているのを見て、思わずため息が出た。


「高橋先生、大変ですね」


 隣の席の先輩教師が、缶コーヒーを机に置きながら言った。


「まあ……仕方ないですよ」


「最近の保護者の方は、すぐ学校の責任にしますからね。気をつけてくださいね」


 気をつける、という言葉で、どこまで何を指しているのか、いつもよくわからない。


 屋上の事故のことは、職員室の中であっという間に広まった。


「命に別状はなかったから、不幸中の幸いだよ」

「でも、今後のケア、大変だね」

「マスコミとか、来なきゃいいけど」


 誰も、「どうしてそんなことが起きたのか」を、真正面からは聞いてこない。


 聞いたら自分も責任を分けてもらうことになると、本能的に知っているからかもしれない。


 *


 山岸花音のことは、最初から「少し気になる子」だった。


 授業中に立ち歩いたり、大声を出したりするわけではない。

 むしろ、静かだ。


 ただ、ときどき、タイミングを外したような発言をする。


「先生、どうして人は死ぬんですか」


 理科の授業で、植物の成長について話していたとき、突然そんなことを聞かれた。


「どうしてって、難しい質問だなあ」


 そう返しながら、クラスの様子をさりげなく見る。

 何人かが笑っている。

 何人かは、興味なさそうにノートを開いている。


「……死ぬから、生きてるのかなと思って」


 花音は、それ以上説明しない。


 こういうとき、教師としての正解の返答は、どこかにマニュアルがあるわけではない。


「生きてる間に、何をするかが大事なんじゃないかな」


 無難なことを言った。

 それで授業は流れた。


 あとで、生活記録カードに、「時々哲学的な質問をする」と書こうとして、ペンを止めた。

 そんなことを書いても、保護者が心配するだけだと思ったからだ。


 結局、「授業中もおおむね落ち着いて聞けています」とだけ記入して、済ませた。


 それが、春。


 *


 事件の前の週、保護者会の準備のために、クラス委員の山本さんと教室で話した。


「最近、クラスの様子はいかがですか」


 こちらから切り出すと、山本さんはすぐに言った。


「先生が、落ち着いているとおっしゃってくださるなら、それを信じたいです」


 「落ち着いている」とは、どの程度を指すのか。

 眠っているのか、静かに呼吸しているのか、泣き声をこらえているのか。

 その違いを、言葉は簡単に隠してしまう。


「多少のトラブルはありますが、大きな揉め事は……」


「もし、楓が、何か巻き込まれているようなら、教えていただきたいんです」


 山本さんの声は、穏やかだった。

 けれど、言葉の下に硬い芯があるのがわかる。


「巻き込まれている?」


「以前、小学校のときに、ちょっとクラスで……。あの子、言いたいことを我慢してしまうところがあるので」


「ああ、そういう意味ですか」


 私は、生活記録カードに書かれた「穏やかで、真面目」という文字を思い浮かべた。


「なにかあったらすぐに。……ただ、今のところは、本当に大きな問題はありません」


 そう付け加えた。


 問題があると言えば、当然、対応を求められる。

 問題がないと言えば、そのまま進む。


 どちらが、クラスにとって、いちばんいいことなのか。

 その答えは、いつも、あとになってからしかわからない。


「山岸さんのお嬢さんも、少し心配なんです」


 山本さんが、白いチューリップの鉢植えの方を見ながら言った。


「花音さんですか」


「楓とは、小学校から同じクラスで。……あの子、言葉が少し、鋭いところがあるでしょう?」


 私は、一瞬返答に迷った。


 教師として、特定の子どもの「鋭さ」を、保護者と共有することが、どこまで許されるのか。


「個性的なところは、ありますね」


 やわらかい言葉を選ぶ。


「うちの子、よく一緒に帰っているみたいで。なにか、トラブルがあったりしないでしょうか」


「特に、大きなトラブルの報告は受けていません」


 報告は受けていない。

 それは、「起きていない」と同義ではない。


 しかし、保護者会で話すには、証拠が足りない。


 教師は、証拠のない話をするのを恐れる。

 噂話で誰かを傷つけたと言われるのが、いちばん面倒だからだ。


「もし、なにかあれば……すぐに」


「ありがとうございます」


 山本さんは、きれいに頭を下げた。

 その姿勢の良さに、こちらも背筋を伸ばしたくなる。


 その会話のあと、私は職員室に戻って、花音の生活記録カードを取り出した。


「おおむね落ち着いて過ごせています」


 そう書いた文字の上に、ペンを重ねる。

 わずかに筆圧が強くなった。


 もしあのとき、「ときどき友人関係で不安定な様子が見られます」と書き換えていたら、何か変わっていただろうか。


 私はそれを、想像しないようにしている。


 *


 事故のあと、学校としての対応は、マニュアル通りに進んだ。


 事実確認。

 保護者への説明。

 関係児童のカウンセリング。


 「屋上から転落した」という事実の周りに、「不注意だった」「ふざけていた」「ちょっとしたやりとりから」といった言葉が、柔らかいクッションのように積み重ねられていく。


 保護者会で、私は「今回の件は、だれか一人の責任とは考えておりません」と言った。


 その言葉を口にしながら、自分の声が少し遠く聞こえていた。


「クラス全体として、日頃の指導の中で、振り返っていかなければならないことだと。……ただ、楓さんを含め、お子さん方が、故意に誰かを傷つけようとしたわけではないと、私は認識しています」


 山本さんの表情は、無表情に近かった。

 一瞬だけまぶたが動いた気がしたが、それが何を意味するのか、読み取る余裕はなかった。


「先生は、楓が、誰かを傷つけるような子だと思っていらっしゃるんでしょうか」


 保護者会が終わったあと、個別に声をかけられたとき、山本さんはそう聞いた。


「いえ、そんなことは」


「だったら、はっきり言ってください。“楓さんは、悪くありません”って」


 その言葉は、脅しではなかった。

 ただ、母親としての切実な要求に見えた。


 私は、教師として、その要求にどう応えるべきか、瞬時に判断した。


「楓さんだけでなく、クラスの誰も、今回の件の“加害者”ではないと、私は考えています」


 そう言い換えた。

 そのほうが、公平だと信じたからだ。


 公平という言葉ほど、便利で残酷なものはない。


 花音の母親が、保護者会で発言したのは、そのすぐあとだった。


「うちの子は、“みんなにきらわれている”って、自分で書くような子です」


 山岸さんは、机の上に一冊のノートを置いた。

 見覚えのある、カラフルな表紙。


「自分が悪いって、あの子はずっと思っていたんですよね。だから、先生が“誰も悪くない”って言ってくださるなら、うちの子も、悪くなかったんですよね」


 問いかけられているのはわかっていた。


 でも、そのときの私は、うまく答えられなかった。


 「悪くない」と言うことが、その子を救うのか。

 それとも、「悪くない」と言い続けることで、本当の何かから目をそらしてしまうのか。


 生活記録カードの「特記事項なし」の欄が、急に重たく感じられた。


四 花音の手紙


 ママへ。


 これを先生が読んでるかもしれないから、「ママへ」って書くのは、ちょっとへんかもしれません。

 でも、いちばん最初に読んでほしいのは、ママだから、そう書きます。


 「だいじ」って表紙に書いたノート、見つかっちゃった。

 みんなに見られちゃってるだろうなって、布団の中で思ったとき、胸の中がすーすーしました。


 寒いとか、痛いとかじゃなくて、空気がたくさん入りすぎて、肺がびっくりしてるみたいな感じ。


 わたしは、悪い子です。

 ママがいちばんよく知ってると思います。


 でも、みんなが思ってるみたいな「悪い子」とは、ちょっとちがいます。


 *


 ノートに悪口を書きはじめたのは、小学校のときです。


 最初は、自分のことを書いていました。


『今日も授業中にあくびをしました』

『テストでまた計算まちがいをしました』

『ちゃんと立て膝で座れませんでした』


 注意されたことを、そのまま書くと、すこしおもしろくなる。

 黒板に書かれた漢字より、自分のまちがいのほうが、記憶に残りやすいからかもしれません。


 中学生になって、クラスの人数がふえました。

 いいところも、きらいなところも、見える人がふえました。


 だから、思ったことを書きました。


『〇〇ちゃんのきらいなところ』


 ノートは、他の人には見せないつもりでした。

 でも、本当は、見つけてほしいとも思っていました。


 だれかが見つけて、「なにこれ」とか、「やば」とか、「最低」とか言うところまで、だいたい、想像していました。


 そうしたら、その人たちが、どういう顔をするのか見られるから。


 わたしは、自分のことがよくわからないので、人の顔を見て、「これは悪いことなんだ」とか、「これはいいことなんだ」とか、判断してきました。


 ママは、「人の顔色ばかりうかがっちゃだめ」と言うけれど、顔色を見ないと、怒られているのか、おもしろがられているのかも、わからないことがあります。


 だから、ノートは、わたしにとっては「感想文」みたいなものでした。


 *


 『みんなにきらわれている』


 自分のことを書いたページは、ほかのページより、インクを何度も重ねました。


 「みんなに」は、本当じゃないかもしれない。

 でも、「きらわれている」は、たぶん本当だと思いました。


 里奈ちゃんの、「なんでもわかってるふり」は、うらやましいところでもあります。

 わたしは、「わからない」と言えないから、「ふり」でもいいから、そうなれたらいいなと思いました。


 楓ちゃんの、「すぐ黙る」は、好きなところです。

 みんながなにかを言っているときに黙っている人は、なにも考えていないわけじゃなくて、考えすぎているか、言えないことをたくさん持っているかの、どちらかだと思います。


 楓ちゃんと一緒に帰るとき、わたしはよく、一方的にしゃべっていました。

 家のこと。

 ママのこと。

 ノートのこと。


 楓ちゃんは、だいたい黙って聞いてくれました。


 ある日、楓ちゃんのお母さんが、学校の帰り道の角で待っていました。


「花音ちゃん、楓といつも一緒に帰ってくれてありがとうね」


 やさしい声でした。

 やさしい声は、ときどき、こわいです。


「いえ……」


「でも、あんまり遅くなると、お互いの家の人が心配するから、ね」


 楓ちゃんのお母さんは、「ね」と言うとき、楓ちゃんの方を見ました。

 わたしではなく。


 楓ちゃんは、小さくうなずきました。


「これからは、なるべく、まっすぐ帰るようにしようか」


 それは、わたしたちに向けられた言葉でした。

 だけど、矢印の先は、わたしだけを指しているように感じました。


 その日の夜、ノートにこう書きました。


『楓ちゃんのお母さんは、楓ちゃんを守っている』


 その「守る」の中に、「花音ちゃんから」という言葉が入っているかどうか、確かめるすべはありませんでした。


 *


 屋上に行ったのは、みんながわたしのノートを見た日のことです。


 体育祭の係の話し合いで、意見が合わなくて、何人かが言い合いになっていました。

 わたしは、何も言わずにいました。


 里奈ちゃんが、「花音はどう思う?」と聞きました。


 どう思うか、と聞かれたとき、わたしはだいたい、困ります。


 どの意見が正しいのかは、あとで決まるからです。

 今ここで言ったことが、あとでまちがいになるかもしれません。


 だから、「わからない」と言いました。


 そのとき、里奈ちゃんは、少しだけ眉をひそめました。


「わからない、じゃなくてさ。どっちがいいと思うかってこと」


「わからない」


 そう言ったら、今度は楓ちゃんが、「……花音、決められないなら、べつにいいけど」と言いました。


 それが、責めているわけじゃないのはわかりました。

 でも、「べつにいい」と言われたとき、わたしは、自分がそこにいてもいなくてもいいんだなと思いました。


 だから、屋上に行きました。


 だれもいないところで、「いなくてもいい人」がどんな気持ちになるのか、試してみたかったのかもしれません。


 柵の向こう側に足をかけたとき、風が強くなりました。

 靴の底が、金属にあたって、きゅっと嫌な音がしました。


 そのとき、背中から誰かに腕をつかまれました。


「なにしてんの!」


 誰の声か、よく聞き取れませんでした。

 里奈ちゃんか、楓ちゃんか、ほかの子か。


 つかまれた腕が痛くて、身体が少しよろけました。

 足元が空を踏んで、そのまま、視界が反転しました。


 落ちているあいだ、白いものが見えました。

 校庭の隅の、チューリップの花でした。


 あの花は、もう終わりかけで、花びらが茶色くなっていました。

 それでも、空から見ると、すごくきれいでした。


 痛みは、あとから来ました。


 *


 病院のベッドで目を閉じているとき、だれかが、「クラスの誰も悪くない」と言うのが聞こえました。


 カーテンの向こうで、先生とママたちが話していました。


「これは、不幸な事故で……」

「誰か一人を責めることはできません」

「クラス全体で、反省していかなければ」


 「反省」という言葉は、わたしに向けられていないようでした。


 わたしは、ママに謝ろうと思っていました。

 ノートのことも、屋上のことも。


 でも、ママは、ずっとわたしの手を握って、こう言いました。


「花音は、悪くないからね」


 悪くない。

 悪くないと言われるとき、人は、どんな顔をすればいいんでしょうか。


 ママの手は、あたたかかったです。

 でも、そのあたたかさに、「この子は悪くない」と言ってもらえない誰かの冷たさも、くっついているような気がしました。


 ノートを見つけたとき、みんながどんな顔をしたのか。

 屋上で腕をつかんだ子が、どんな気持ちだったのか。


 わたしは、べつに、だれかを責めたいわけじゃありません。


 ただ、「クラスの誰も悪くない」と言われるたびに、自分がどこにもいないみたいな気持ちになるだけです。


 「誰も悪くない」の中に、わたしは入っているのか、いないのか。

 それが、ずっと、わかりません。


 だから、この手紙を、誰かに読んでほしいと思います。


 ママじゃなくても、いいです。

 先生でも、里奈ちゃんでも、楓ちゃんでも。


 もしできるなら、あの白いチューリップを植えた人にも。


 あの花は、汚れが目立つから、育てるのが大変だと、だれかが言っていました。


 汚れが目立つから、きれいにしておかなきゃいけない花。

 汚れが目立たないように、そっと目をそらされる、人。


 どちらが、幸せなんでしょうか。


五 楓


 「花音は、悪くないから」


 病院の帰り道、ママが何度もそう言った。


 夜の歩道は、白い線が途切れ途切れに続いていて、その上だけを踏んで帰れば、家までたどり着ける気がした。


 ママのハイヒールの音が、アスファルトに規則正しく響く。

 その音が、だんだん早くなっていく。


「ママ、そんなに急がなくても」


「寒いから。風邪ひくでしょ」


 寒いのは、たぶん、気温のせいだけじゃない。


 ママのコートの袖をつかむと、ママは少しだけ歩調をゆるめた。


「楓は、悪くないからね」


 さっきの言葉に、一つ名前が足された。


「……うん」


 返事をしながら、わたしは、さっき病室の中で聞いた会話を思い出していた。


「腕をつかんでくれて、ありがとうね」


 花音のママが、わたしに頭を下げた。


「楓ちゃんがつかんでくれなかったら、もっと大変なことになってたかもしれないって。先生がおっしゃってたわ」


 わたしの手は、膝の上で握りしめられていた。

 花音の腕をつかんだときの感触が、まだ指先に残っている。


 ざらざらした、制服のジャージの生地。

 細い腕の、骨ばった感じ。


 わたしは、あのとき、本当に「助けよう」と思っていたのか。


 それとも、「落ちるところを見たくなかった」だけなのか。


 その違いが、どうしても思い出せない。


「楓、何かあったら、ちゃんと言ってね」


 ママは、前を向いたまま言った。


「なにが?」


「クラスで。花音ちゃんのことで、なにか言われたりしたら」


「……別に。みんな、なにも言ってない」


 言ってない、というのは、本当だ。


 クラスのみんなは、花音のことをあまり話題にしなくなった。


 先生が、「無理に話さなくていい」と言ったからかもしれない。


 でも、その沈黙の中で、わたしは、みんなの視線に少し過敏になっていた。


 屋上から落ちる前、花音が柵に足をかけたとき。

 わたしは、最初、何もできなかった。


 里奈が、「なにしてんの!」と叫んで、走り出した。


 わたしは、そのあとを追いかけた。

 半歩遅れて、花音の腕をつかんだ。


 そのとき、一瞬だけ、「もしこのまま手を離したら」と考えた。


 考えた、というより、頭の中に浮かんだ。


 そうしたら、このクラスから、「めんどうなこと」が一つ消えるかもしれない。

 家に帰るとき、ママは少し安心するかもしれない。


 もちろん、そんなこと、したわけじゃない。

 わたしは、ちゃんと腕をつかんだ。


 でも、「離したらどうなるか」を想像したという事実は、消えない。


 それは、悪いことだろうか。

 それとも、「誰だって一度は考えること」だろうか。


「クラスの誰も悪くないって、先生がおっしゃってたでしょ」


 ママは続けた。


「だから、楓も、自分を責めなくていいの。……わかった?」


 わかった、と答えるべきなんだと思った。

 でも、口が動かなかった。


 代わりに、「うん」とだけ言った。


 ママは、それで満足したようにうなずいた。


 *


 家に帰ると、テーブルの上に、あの生活記録カードが置いてあった。


 裏面の「気になること」の欄には、まだ何も書かれていない。


 ママはコートを脱ぎながら、それを手に取った。


「……書くこと、ないよね」


 自分に言い聞かせるみたいな声だった。


 わたしは、カードの端に、鉛筆で小さく印をつけた。


 だれにもわからないくらいの、薄い印。


 「書かない」と決めたことを、記録したくなった。


 ママは、わたしの手元をちらりと見た。

 何も言わなかった。


 「何も書かない」ことと、「書くことがない」ことは、ちがう。


 でも、そのちがいを言葉にすると、ママの顔がこわくなる気がして、黙っていた。


 *


 クラスで、「誰も悪くない」と先生が言った日。

 わたしは、教室の後ろの掲示板を見ていた。


 そこには、みんなで描いた「将来の夢」のイラストが貼ってある。


 ケーキ屋さん。

 ユーチューバー。

 サッカー選手。

 保育士。

 「まだない」と書いてある紙もあった。


 花音の紙には、何も書かれていなかった。

 名前だけ。


 色のない紙は、ほかの紙より、目立つ。


 「将来の夢がない子」は、問題として扱われなかった。


 「今、ここにいない子」の夢を、聞く人はいない。


 先生の声が、「公平」という言葉を何度も使っているのを聞きながら、わたしは、掲示板の画鋲を指でさわった。


 少し押すと、紙の端に小さな穴があく。

 それを見ていると、胸のあたりがすこし楽になる。


 なにかを壊しているわけじゃない。

 ただ、紙の中の空気を逃がしているだけ。


「……楓?」


 里奈の声で、我に返った。


「なにしてんの」


「べつに。なんでもない」


 「なんでもない」という言葉は、便利だ。

 だいたいのことは、それで隠せる。


 *


 後日、ママたちだけのグループラインで、「白いチューリップを植え替えましょう」という話が出た。


「気分を一新するためにも」

「子どもたちの安全祈願もかねて」


 わたしは、ソファに座って、それを横目で見ていた。


「楓、今度の土曜日、学校行くからね。一緒に来る?」


「なんで?」


「チューリップ、植え替えるから。ボランティア」


「……行かない」


 ママは、すこし意外そうな顔をした。


「なんで? きれいなお花、好きでしょ」


 好きかどうか、わからない。

 ただ、あの白い花を見ると、落ちていくときの花音の視界が、すこしだけ想像できてしまう。


「わたしが行ったら、また、なにか起きそうだから」


 冗談めかして言うと、ママは一瞬固まった。


「そんなこと、言わないで」


 その声には、怒りと、不安と、祈りが混ざっていた。


 わたしは、「ごめん」と言った。


 それが、どの感情に対する謝罪なのか、自分でもよくわからなかった。


 *


 ある日、机の中から、小さな紙切れが出てきた。


 花音の字だった。


『楓ちゃんは、すぐ黙るところが、すきです』


 ノートのページを破いたのか、端がギザギザしていた。


 わたしは、その紙をしばらく見つめてから、筆箱の中にしまった。


 そのとき、「すぐ黙る」という言葉の意味が、すこしだけ変わった気がした。


 黙っている人は、なにも考えていないわけじゃない。

 言葉になる前の、いろんな感情を、まだ手放せずに持っている。


 わたしは、「クラスの誰も悪くない」という言葉を、信じたいと思っている。


 信じられない自分を、責めないようにするために。


 でも、たまに、こう考える。


 もし、「誰も悪くない」のだとしたら、どうして、誰かが屋上から落ちたんだろう。


 どうして、わたしはあの瞬間、「手を離したらどうなるか」を想像してしまったんだろう。


 その答えを、だれかが教えてくれることは、たぶんない。


 だから、わたしは、今日も黙っている。


 「悪くない」と言われたときの、自分の顔を、まだよく知らないままで。


(了)

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