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ずっと欲しかったもの 7


 とはいえオレの場合は、これから経験するんだろうけど。

 これから先どっかのタイミングで、痛み&不快感と向き合わなきゃなんだろうけどね。月経、いつ来るんだろ。どきどき。もう今からドキドキ。

 麻衣がウンザリしたような顔で言った。

「男の人はいいよねー、毎月の痛みがなくてさぁ」

 毎月。

 一ヶ月に一度。

 たしか朋花に聞いた話では、だいたい二八日周期くらいらしい。

 期間にすると、約一ヶ月くらい。最長で三八日くらいまで延びる場合もあるらしいから、かなり体調の差っていうか個人差が大きいみたいだけど。

 ヤダぁ、怖いよぉ。痛いのムリぃ〜。

「あたし、こないだはホントにキツくってね」と麻衣が言った。「テスト直前なのにさ、ぜんっぜん勉強に集中できなくて……」

「ごめんなさい」

 オレの謝罪を受けて、麻衣はキョトンとした。

「なんで葵が謝るの?」

「い、いや……なんとなく……」

 オレは慌てて言葉を濁した。

 やっべ。

 思わず謝っちまった。「男に生理はないんだもん♪」なんて考えてたら、つい言葉が口をついて出ちゃったんだもん。かるだもん。

 まったく関係ないけど、個人的に『かるだもん』って好き。味が好きとかじゃなくて、言葉の響きが可愛くて好き。かるだもんっ♡

 い、いや。

 いまは、そんなこと考えてる場合じゃない。そんなコミカルなこと考えてる場合じゃないよ。状況を考えろっての。

 は、話そらさなきゃっ。

「あ、で、でも……」

 こちらに顔を向けながら、オレの言葉を待つ麻衣。チワワみたいにクリクリとした丸い瞳が、不思議そうにコチラをジッと見つめている。やばい、アセる。

 な、なんかないか。

 なんかないか、なんかないのかぁ!

 麻衣に話せる話題、なにか提供してよぉ。いい感じのトークテーマ出してよぉ、ドラえもぉ〜ん。

 たわいのない話。

 世の女性たちに理解を求める話題。世の男性たちをフォローする話題。

 だれ一人として傷つけることなく提供できる話題。SNS上でセンシティブ認定されずに済む取り止めのない話ぃ。

 四次元ポケットの中身をひっくり返す勢いで、頭のなかにある記憶情報にリサーチをかける。うなれ、オレの雑談スキル!

「お、男の人、は……」

 ひと呼吸おいてから、オレは言葉を続けた。

「じょ、女性と比べて、性欲処理が大変だって聞くよ!」

「そ、そうなの?」

 なおも麻衣はキョトンとした。

 ひどい。

 われながらヒド過ぎる。オレ、こんなに話すの下手だったっけ?

 なおも、口が止まらない。いちど走り出した列車は、急には止まれないらしい。ブレーキが効かなくなった暴走列車さながらに、オレの意思とは関係なく動きつづける身勝手な口。

「せ、精子の数は三〜四日くらいで最大数に達するらしいから、男性のセルフ・プレジャーも同じくらいの周期に……なるん、だって……」

 だんだんと、尻すぼみになる声。自信なさげに小さくなる自分の声が、話題の明らかな場違いさを示すかのよう。

 だって今、朝だし。

 どう考えても朝に話す内容じゃないよね。や、日が落ちればいいってワケでもないんだけどさ。

「へぇ〜」

 感心したようすで、うんうんと頷く麻衣。

 あろうことかオレは、道端で性教育をおっ始めてしまう。

 まだ日が高いのに。保健体育の授業を始めるには、だいぶ時期尚早にござりまする。時期を見誤ったもよう。不覚っ。

「葵、詳しいんだね?」

「ネ、ネットで見た情報だけどねっ」

 再び、オレは慌てて言葉を返した。

 ウソです。

 はい、またウソつきました。

 この話、ほぼ百%実体験でお送りしております。「男性のセルフ・プレジャーは三日に一回☆」なんて具体的な話、もちろん全て実体験でございます。あしからず。

「それもそれで大変そうだねぇ」

 麻衣の言葉に、オレは頷き返した。

 赤ベコさながらの勢いで、こくこくと繰り返して頷く。うなすぎて首もげちゃいそう。痛たたたた。

「三日に一回くらい "しなきゃいけない" のは、人によっては心の負担になるんじゃないかなっ。や、やってる内容はともかくとしてっ」

 あー、と納得したような声をもらす麻衣。

「たしかに、そうかもだねぇ」と麻衣が言った。「 "したい" と "しなきゃいけない" って、ぜんぜん違うもんねー」

 言葉を被せるように、すぐさま返事をするオレ。

「プレッシャーがねっ、ぜんぜんチガウよねっ!」

 はい、うっそでーす。

 これも完っっ全にウソでぇーすっ。

 楽しんでます。セルフ・プレジャーは楽しんでやるものです。苦痛だったことなんて一ミリもありませんでした。ネットで見つけたアダルトな動画を観て、かんっっぜんに楽しんでやってました。てへ。

 ほんと、罪深き。

 オレ、どんだけ罪を重ねれば気が済むんだろ。ミルフィーユさながらにウソを重ねすぎて、そのうち告訴されちゃいそうで怖いんだけど。


 え、自業自得?


 なにそれ、よく分かんなぁい♡


 ってか、麻衣もカンタンに納得するなぁ。

 オレの話術がスゴいのか、麻衣が少し鈍感ぎみなのか。もし前者だったら、将来的に詐欺師になれるかも。未来のオレ、口八丁で金稼ぎしたりすんのかなぁ。想像したくもない将来像すぎるだろ。

 自分に言い聞かせるように、遠くを見つめながら麻衣が言う。

「そもそも、女の人と男の人の感覚を比べること自体おかしいかぁ」

「そ、そうかもね〜……」とオレは返した。

「リンゴとミカンくらい別モノだもんねー」

 さきほどの芸術的な比喩とは裏腹に、わかりやすい例えを用いて話す麻衣。

 な、なんだ。

 麻衣、物わかり良すぎじゃね?

 理解が早すぎてビックリなんですけど。さすがに脳みそが柔軟すぎるだろ。図工の授業で使う柔らかめの粘土か。

「えっと……でも、さ……」

 恥ずかしそうに視線を逸らした麻衣が、こちらと目を合わさずに言葉を続ける。

「その……そういう話、朝からするのはどうかなーって……」

 ほんのりと頬を赤く染める麻衣。

 とたん、刺激される罪悪感。いたいけな少女のように恥じらう麻衣の仕草が、オレの罪悪感をグサグサと刺すように刺激する。

 ですよね。

 盛大な『ですよね』ですよね。

 オレも思った。「思った」っていうか、現在進行形で思ってるけどね。まちがいなく、通学途中に話すような内容じゃない。

 場違いもいいところ。朝っぱらからお盛んな思春期男子ですら、話すのをためらう内容と時間帯だと思う。知らないけど。

「ご、ごめんね……」

 オレの短い謝罪に、麻衣が言葉を返す。

「や、いいんだけどね?」

 胸の前に掲げた両手を、ぶんぶんと横に振る麻衣。否定を示すジェスチャー。

 どことなく、小動物を彷彿とさせる麻衣の動き。おたおたと慌てて否定する仕草が、おろおろするリスみたいでキュート。So、Cute。

 ってか、いいんだ。

 麻衣、いいんだ。このテの話ウェルカムなんだ。ふぅーん。

 いや、そんなわけあるか。ウェルカムなわけないっつの。「ふーん」じゃない。ひとりで勝手に納得するな。

 どこの世界に朝っぱらから下ネタを歓迎する女子高生がいるんだ。いるわけないっつーの、そんな開けっぴろげ女子。

 大概にせぇ。思春期特有の妄想力をムダに活かしたイマジネーションも大概にしなさい。エロ漫画の見過ぎだってば。

 い、いや、そんなに多くは見てないけどねっ?

 た、たしなむ程度ですけどっ。ほんのちょっと嗜むくらいの量ですけれどもっ。『たしなむ』って何だよっ。

 あぁ、話すほどに墓穴っ。すでに性に目覚めてることがバレるっ。いそいそと自分で掘った穴にズボッと落ちる健全(不健全?)な思春期男子すぎる。麻衣の気遣いも形なし。

 くそぉ。

 さっきから失態続き。ミスしてばっかだよぉ。

 オレが「あの日が近くてヤバめ♡」なんて話をしたばっかりに。お盛んな思春期男子の脳回路が活性化したばっかりに。

 麻衣に恥かかせるんじゃないっての。朝から気まずい空気にさすんじゃないっつの。引っ込んでろ、心の思春期男子!

 オレたち二人は学校へと向かうべく、通い慣れた通学路を道なりに歩いた。

 やがて赤信号で足を止めた。交差点の前で立ち止まり、信号が青に変わるのを待つ。道の先に吸い込まれるように車が車道を走っていく。

「朝だから車おおいね〜」

 オレのすぐ隣に立つ麻衣が、ひとりごとのように言った。

「そ、そうだね……」

 とりあえずオレは話を合わせた。テキトーに相槌を打つ罪深きオレ。

 目の前を行き交う幾つもの車。

 無機質な車のボディを目で追うと、少し気分が落ち着くような気がした。

 無機質なものをボーッと眺めてるときって、なんとなくだけど気持ちが落ち着く感じある。人間が介在してないからかな。川を眺めてるときの感覚と似てる。気がする。オレだけかもしんないけど。

 目の前の風景をボンヤリと眺める。

 視界の端には麻衣の姿が映り込んでいる。お上品にも身体の前で手を重ねているのが見えた。

 とたん、視線を感じる。

 オレは誰かにジーッと見られているような気配を感じた。

 え、すっごい見られてる気がする。身体にポッカリ穴が空きそうなほど、ジッと見られてる気がするんですけど。やだ、怖い。

 ゆらゆらと忙しなく揺れるオレの心をよそに、麻衣が落ち着いたトーンで「ねぇ、葵」と言った。

 名前を呼ばれたオレは、麻衣のほうに顔を向けた。

「う、うん?」

 目が合う。

 視線が交差する。二つ重なり、一つになる。

 怪訝そうな面持ちの麻衣が視界に入り込んだ。不思議そうにコチラを見る姿が、今朝の朋花や両親の姿と重なる。

「ど、どうしたの?」

 オレは先を促すように聞き返した。

「んっとねぇ。なんか、今日の葵……」

 麻衣は躊躇いがちに話し始めた

 げ。

 含みのある言い方。

 な、なんだろ。麻衣、なにを言おうとしてるんだろ。

 こわい。言葉の先を聞くのが怖い。なにを言われるのか分からなくて怖いんだけど。

 とたん、脳が急速に稼働し出す。フラッシュバックさながらに、これまでの言動が脳裏を過ぎる。高速に働き出した記憶回路が過去の失態を掘り起こす。神経細胞がショベルカーのようにエピソード記憶を掘り返した。

 ビクつくオレとは裏腹に、麻衣のトーンは明るかった。



「なんか、かわいいね」



 とくん、と胸が高鳴る。

 心臓の鼓動が早まり、血液が体内を駆け巡る。

 大きな胸の下にあるポンプから、赤い液体が急速に送り出される。緊張のせいでも、不安のせいでもない。心地良い胸の高鳴り。弾むような心の躍動。

 心臓が、喜んでる。

「や、いつも可愛いんだけどね?」と麻衣が言った。「今日は特にっていうか、いつにも増してっていうか……なんか、すっごい可愛い気がしてね」

 上目遣いにオレの顔を覗き込む麻衣。ちょこんと首をかしげた拍子に、まあるいショートカットが揺れた。

「やっぱり、今朝なにかあった?」

 麻衣の問いかけに、オレは無言で返した。

「……」

 なおも、麻衣が訊ねてくる。

「あ、メイク変えたとか?」

「……」

「あれ、葵?」

「……」

「おーい、葵ーっ?」

 オレの顔の真正面で、麻衣が手を横に振った。ぶんぶん。

 オレは声を発することもなく、ただただその場で立ち尽くした。なにも反応できないまま呆然と突っ立つ。

 学校へと向かう道すがら、何度も自分の名前を呼ばれたような気がした。しきりに、麻衣がオレの名前を呼んでいるような気がした。

 それからの会話は、なに一つ覚えてない。

 なにも思い出せない。頭に霧がかかったみたいに、なに一つとして思い出せない。木の枝に留まった鳥が羽を休めるみたいに、脳が一時的に機能停止してしまったかのよう。

 道中、麻衣が何を話していたのかも。

 途中、自分が何て返事をしたのかも。

 どんな言葉を交わしたのかさえ、どうやって学校に着いたのかさえ。すっかりシャットダウンした海馬と大脳皮質が、オレの心から各種の脳機能を閉め出してしまう。

 思い出せない。

 なにも思い出せない。

 麻衣が口にした、たった一つの言葉。

 なにげなく麻衣が口にした言葉が、わた……オレの心から他の一切を閉め出した。たった一つのフレーズのせいで、ほかの言葉が耳に入らなくなった。的に向かって射られた矢が放物線を描くように、いっさいの言葉が右から左へとすり抜けていった。

 ずっと欲しかった言葉。

 心のどこかで聞き望んでいた言葉。



 かわいい。



 心が躍る。

 とくん、と胸が高鳴る。

 ただ一言——『かわいい』と聞くだけで、ピンポン玉みたいに胸がポンと弾む。ピアノの鍵盤を一つ叩くみたいに、自分の心が高い音を立てるのが分かる。陽気な弾んだ音を奏でているのが分かる。

 ピンクは、かわいい。

 おままごとは、すごく可愛い。

 ぬいぐるみだって、もちろんカワイイ。

 桜色も、薄桃色も。少女マンガも、ぬいぐるみも。春みたいな色のティントも、宝箱みたいなコスメボックスも。宝石が付いたアクセサリーも、愛嬌たっぷりのキャラクターグッズも。みんな可愛い。ぜんぶ全部かわいい。

 世界には、あふれてる。

『かわいい』が溢れてる。こんなにも溢れてる。

 オレ……わ、わた、しの周りには、たくさんの『かわいい』が溢れてる。

 ずっと住みたかった。ずっとずっと、そんな世界に住んでみたかった。『かわいい』を口にできる世界に、いつか住める日がやって来ることを。心のどこかで、ずっと願ってた。

 ずっと望んでた。


 麻衣が「かわいい」と言ってくれたとき、わたし(オレ)は初めて息ができたような気がした。


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