ずっと欲しかったもの 6
え、ツラっ。
ツラいんだけど。めっちゃ不快なんですけど。
うっそでしょ。女の子って、こんなに視線を浴びるものなの?
ってか、ごめんなさい。まだオレが男だった頃、しれっとチラ見しちゃっててゴメンなさい。反省します。
「あっ……」
オレは道の向こうにいる男性の視線に気付いた。こちらをチラ見する目の動きを逃さずキャッチ。
胸、見てたな。
そこの男の人、いま確実に見てたな。
横目でチラッと見たの、シッカリ確認したぞ。オレの顔チラ見した後すぐに、ソッコーで胸に視線を移したよね。ちゃんと確認しましたからねアンタ。アンタだよ、そこのアンタ!
その目の動き、マジなんなん。ちょっと露骨すぎん?
恐怖。頭のてっぺんから爪の先に至るまで、舐めるように見られて恐怖なんですけど。
集団訓練でも受けたのかっていうくらい、みんな同じような目の動きするの怖すぎる。すれ違いざまに『顔→胸→太もも→足』の順で上から下に流れるようにチラ見するテクニックを学ぶ、はた迷惑で女性泣かせな特別講習でも受けてきたのです?
潰れろ、その講習。セミナー代も返金せぇ。
この女の子、たしかに可愛いけど。めっちゃカワイイ娘だけど。ふらっと街で歩いてるの見かけたら、思わず二度見しちゃうレベルだもんな。
でも、嫌だからね?
見られる側からすると、めっちゃ不快だからね?
まるで示し合わせたかのように、みんな胸ばっかジロジロ見やがって。通りすがりにチラ見される筋合いなんてないぞ。「眼福、眼福♪」じゃないってのっ。
向こう見てろ、向こう。
まっすぐ歩け。ちゃんと前見て歩け。夢にときめけ、明日にきらめけ。あんたには立派な足がついてるじゃな——
ふと、ゴミをポイ捨てする男性の姿が目に留まった。
視線の先にいる男性サラリーマンが、手に持っていた缶をポイっと放り投げた。
カンカンと軽やかな音を立てて、道の端に転がっていく金属製の空き缶。あからさまなポイ捨てを見て、オレは思わずギョッとしてしまう。同時に、ひっそりと心のなかで呟いていたオマージュを遮られたことにもギョッとしてしまう。
こ、このやろぉ〜……。
他人の胸を凝視したうえに、あろうことかポイ捨てなんて。
有罪だぞ。重い罪が課せられるぞ。オレの心のパロディを遮った罪は重いんだぞ。え、そっちの罪? ポイ捨てのほうじゃなくって?
ってか、ゴミ箱あるじゃん。
ポイ捨てなんかしなくても、すぐ近くにゴミ箱あるじゃんか。
たいした距離じゃないだろうに。面倒くさがってんじゃねぇ。毎日の掃除・洗濯みたいな感じでダルがってんじゃないっつの。主婦を見習え。ルンバと洗濯機を見習え。文明の利器に教えを請えっ。
オレの心の風紀委員が、ひょっこりと顔を出した。
「ったくも〜……」
不満げな声をもらしつつ、道の端へと向かって歩く。
捨てられた空き缶を拾い上げて、道の反対側にあるゴミ箱に放り込む。カンカンと軽快な音を立てながら、暗闇の中に吸い込まれていくスチール缶。街の乱れた風紀を正す男子こ……女子高生の図。
「はぁ……」
ひとつ溜め息をつく。気を紛らわせるように空を見上げると、オレの視界いっぱいに青空が映り込んだ。
晴れ。
秋晴れならぬ初夏晴れ。
浮雲と青空。目を刺すほどの純白に、透きとおるような空色。
そよりと吹く風。ぷかぷかとクラゲのように揺蕩う白い雲が、薫る風に吹かれて気持ちよさそうに空を泳いでいる。この時期特有のカラッとした空気を、ぞんぶんに感じさせてくれる晴れ模様。
夏の初めって好きだなぁ。
パステルな春色も好きだけど、初夏特有の青緑な感じも好き。
夏に向かって緑々しくなる木々。だんだんと過ごしやすくなる気候。身体と空気が調和する感じが気持ちいい。
気を取り直して、通学路を歩き出す。
ひょこっと顔を出した風紀委員を心の奥にしまい込み、オレは仕切りなおすつもりで通い慣れた道を歩き始めた。通学再開。
あ、なんか既視感。
こういう場面、見覚えあるかも。きっと漫画とかドラマのワンシーンだと思う。
ぜんぜん関係ないけど、昭和期くらいド昔の少女マンガなら今ここで転校生のイケメン男子くんとゴッツンコ☆だね。
絵に描いたような自称・どこにでもいる普通の女の子♡がパン咥えながら「やっばぁっ、寝坊しちゃったっ。ちこく遅刻ぅ〜っ☆」とか言いながら、おとぎ話の世界から出てきたかのようなサラサラ髪の毛の爽やかイケメン男子くんと曲がり角で頭ごっつんこ☆したのちに学校で再会を果たすアレね。「あっ、あんた今朝の……!」っていうアレですよ。ほらぁ、わかるっしょ?
てくてくと歩みを進めるオレの背中に、夏の空と聞き紛う明るい声がかかった。
「葵ーっ」
澄みきったソプラノの声。まるで、夏風に吹かれてチリンと鳴る風鈴を思わせるような声だった。
その場で足を止めたあと、オレは後ろを振り返った。
視界に入り込んできたのは、明るい笑みを浮かべる麻衣の姿。
まあるいショートカットの黒髪を揺らしながら、太陽のような明るさがコチラへと駆け寄ってくる。きらきらした眩しい光に当てられ、思わずオレは目を細めそうになる。
ローファーが地面を叩いて音を立てる。ぱたぱた。
麻衣が近づくにつれて、しだいに音も大きくなる。陽の光を受けてきらめく光沢のあるエナメルが、アスファルトを打ち鳴らして軽やかな音を立てていた。
「おっはよ、葵っ!」
いつも通りの笑顔を見せる麻衣。
ひまわりと見紛いそうなほど、人懐っこくて屈託のない笑み。
夏の日差しのように輝く麻衣の笑顔が、気落ちしていたオレの心を明るく照らした。憂いの切れ目から、眩い光が射し込む。
「お、おはよ……」
無邪気な麻衣の声に、オレは戸惑いつつ返した。
慣れないハイトーン。いまだに自分のノドから発せられる高い音に慣れない。
低い声で話してた頃が懐かしい。昨日のことのはずなのに、もう既に遠い過去のよう。オレの喉仏さん、いったい何処に行っちゃったの?
「今日、いい天気だね〜」と麻衣が言った。「最近あったかくなってきたから、外に出るのがきもちーよねぇ。『初夏の陽気』って感じ!」
「そ、そだね……」
「もうちょっと気温あがってきたら、そのうち海とかプール行きたいかも。水浴び!」
「お、おっしゃる通りですわぁ……」
「え?」
「あ、い、いや……」とオレは返した。「な、なんでもない。お気になさらない、で……?」
「ふぅん?」
オレの不自然な返事を受けてか、麻衣は不思議そうな顔を浮かべた。「そりゃそうだ」って感じだけど。
幼稚園来の幼なじみに敬語で話されること、まず無いっていうかレアな体験だろうしな。とくに今のオレ、夜の舞踏会に参加してそうな中世ヨーロッパの貴婦人よろしくな返事しちゃったしさ。
ってか、なんで淑女の設定なんだよ。レディーが過ぎるわ。
そういえば、名前は同じなんだな。
すっごい今さら感あるけど、オレの名前『葵』のままなのか。
見た目が変わっても、オレは『葵』なんだな。名前までは変わってないみたい。
母さんも父さんも二人そろって、オレのこと「葵」って呼んでたし。もちろん、目の前にいる麻衣も。男でも女でも変わらず、オレは『葵』なんだな。名前は一緒でひと安心。ほっ。
ふと気づけば、麻衣がコチラをジーッと見つめている。なにか言いたげな表情で、オレのことをジッと見ていた。ぴりっとした緊張がオレの心を走り抜けた。
やがて、麻衣が口をひらいた。
「葵、どうかした?」
いぶかしげなトーンで訊ねる麻衣に、オレは動揺しつつ「えっ?」と返した。
「ど、どうして……?」
「んー……なんとなくだけど、今日あんま元気ない感じなのかなーって」
フシギそうな顔をしたままの麻衣は、上目遣いにオレの顔をのぞき込んだ。ふわふわの綿菓子のような艶髪が、首をかしげた拍子にサラリと流れる。ふわりと揺れる黒い糸の束。
めざといな、麻衣。
ほんのちょっと出会い頭に話しただけで、いとも簡単に「元気がない」と見抜くとは。
さすが、心理学が好きと豪語するだけある。メンタリスト顔負けの洞察力。よく他人のこと見てるんだろうなぁ。「よく観察してる」っていうかね。
実際のところは、元気ないってか「戸惑ってる」なんだけどね。「動揺してる」ってのが正確な気がするけどね。嵐の日の船体みたいに、心が不安定にユラユラ揺れ動いてる気がしないでもないところではあるんですけどね。え、言い方がクドいって?
ってか、あざといな。
今朝の朋花もだけど、オレの顔を下から覗き込むの流行ってるの? 身長の問題かな?
上目遣いで顔を覗き込むとか、かわいい女の子がやるヤツじゃん。かわいい女の子だけに許された特権的な仕草その二じゃん。『その一』は何だろう?
あざとい。
めざとくて、あざとい。めざあざとい。
ともかく、なにか返事しなきゃ。
「そそ、そそそそそんなことないけど、どっどどどどっ?」
オレは不自然すぎるほど吃った。
いや、落ち着けよ。
動揺しすぎだ。さすがに狼狽えすぎだろ。そんなふうにキョドる人間、世界中どこ探してもいないぞ?
「ふぅん、そっかぁ」
さして気にしたようすもなく、納得したような声をもらす麻衣。
いや、待てマテ。
平常心すぎるだろ。「そっかぁ」じゃない。そんなわけあるか。
明らか何かありそうじゃん。今のオレ完全に、音楽を流すと延々にユラユラと踊り続けるフラワーロックみたいに揺れてたじゃん。『動揺』を地でいく感じだったじゃんっ。
いくらなんでも、あっけらかんとし過ぎでしょ。麻衣の前世、悟りをひらいて不動の心を手に入れたブッダか何かだったのです?
「って、そんなわけあるかー!」と麻衣が言った。「あきらか何かあるふうじゃん。そんな挙動不審な生き物、あたし見たことないよ?」
あぁ、よかった。
オレと同じように、麻衣もまた「そんなわけない」と感じてたみたい。自分の感覚が世間ズレしていないことにホッとする。とりあえず一安心。
麻衣が言葉を続けた。
「索敵中のハムスターかと思ったよ?」
んん、よく分からない例えっ。
麻衣、表現が独特すぎるよ。あんま他人に伝わらない系のアーティスティックな比喩だよ。っていうか、ハムスターって索敵するの?
ともかく、返事しないと。
どんどん、あらぬ方向に話が進んでいきそうな気がする。
脱線に脱線を重ねて元のレールに戻れなくなるような気がしなくもなくもなくない。おもに麻衣主導で。ってか、さっきから言い方クド過ぎ? 回りくどい言い方に定評のある村上〇樹さんみたいな言い方になってる?
まぁ、それはいいとして。
「え、と、その……」
麻衣が不思議そうにコチラを見ている。
怪訝そうな視線を浴びつつ、おずおずと口をひらくオレ。
「あ、あの日、が……近い、から……?」
オレは動揺しきったすえに、最っ低の言い訳をしてしまう。
ごめんなさい。
全国の女性のみなさん、ホントごめんなさい。
さいってーの言い訳をしたこと、ここに謝罪させていただきます。苦しまぎれに "あの日" を逃げ口上にしたこと、この場を借りて深くお詫び申し上げたいと思います。
どうか許してください。
ほかに適当な言い訳が思い浮かばなかったんです。自分でもビックリなくらいテンパってたんです。索敵中のハムスターと化してたんですぅ〜。
ってか、オレにも "あの日" があるんだよな。どんな感じなんだろう?
不快な感じがするだけなのかな。ビミョーに違和感があるだけなのかな。もしかして、めっちゃ痛いのかな?
やだぁ。
痛いのヤダぁ。注射もキラぁイ。
経験したことないものは、頭のなかで想像するしかない。
いくら想像を重ねたところで、痛みを感じられはしないけど。もちろん、生理痛の不快さを感じることも。
女の子の日って、どんな感じなんだろう?
「あー、そっかぁー」
ふんふんと頷きながら、納得したような声を返す麻衣。
え、通じた?
オレの苦しまぎれの言い訳、麻衣に通じちゃったのです?
「葵、前に『とくにキツいときある』って言ってたもんねー」
ふぅん、そうなんだぁ。
知らんけど。
ぜんぜん知らんけど。ってか、まったく身に覚えがないけど。
なんせ昨日まで、オレ男だったし。男の子の日とか無いし。下腹部がうずくことはあっても、痛みとか不快感を覚えることとかなかったし。
「あたし、鎮痛剤もってるから。必要なときは声かけてね」
自分の肩にかけたカバンを指差しながら麻衣が言う。
「あ、うん……ありが、とう……」
たどたどしく、感謝の言葉を口にするオレ。
麻衣が満足げに微笑んでいる。「いつでも頼ってね?」とでも言いたげな笑みを浮かべている。
う、うぐっ。
こ、心が痛い……。
ウソつくの、だいぶ心が痛む。テキトーな理由こしらえて嘘つくときって、こんな針で刺されたみたいに心が痛むのか。
とくに、ズルい逃げ方だったかも。
苦しまぎれの言い訳として、 "あの日" を使うのは卑怯だったかも。SNSを徘徊してるポリコレ警察に見つかったら大変なことになりそう。「はい、完全にフェミニズム条例法違反です。天誅、天誅!」ってなりそう。天誅?
「ってかさー、あたしたちだけ生理があるの不公平じゃない?」と麻衣が言った。「男の人は痛みもないし、血が出ることもないし……せーぶつがくてきにフコーヘーだよぉ。ズルいっ」
「そ、そうだね……」
ぷりぷり憤慨する麻衣に、ひとまず話を合わせるオレ。
ごめんなさい。
『不公平さ』の恩恵を享受しててゴメンナサイ。
たしかに、女性は大変だよなぁ。男は生理とか無いけど、女の人は毎月なんだもんね。前に朋花も「毎月ツラい」って言ってた。
けっこう個人差が大きいみたいだけど、人によっては学校を休むレベルって聞くし。前にフィードに流れてきたネット記事で見たけど、仕事中に痛みが襲ってくる日はサイアクなんだってね。生理痛、相当ツラいんだろうなぁ。超不快&激痛なのかなぁ。すでに今から怖いよぉ。
ホントごめんなさい。
これまでの人生ずっと、なにごともなく平穏に生きてて。下腹部の痛みと無縁で生きてて。毎月のイライラ&不快感とは縁を結ばずに生活しておりました。




