空色の予感 1
一
朝。
わたしは目を覚ます。
外から聞こえてくる小鳥のさえずり。カーテンの隙間から漏れ入る日の光。眠気まなこをこすりながら、ベッドから起き上がるわたし。軽く伸びをしたあと、寝床から離れて姿見の前へと移動する。
うん、今日も "わたし" だ。
いつもと変わらない自分の姿に嬉しくなる。いつもと変わらない朝を迎えることを、わたしの心が喜んでいる。
いつも通り。
いつも通り。
いつもどおりの、最高の朝だ。
これまで何度、最低の朝を過ごしてきただろう。
男物の服に袖を通すたび、これは自分にふさわしくないと感じていた。ファンシーショップで可愛らしいぬいぐるみが陳列されているのを見るたび、それらを自分の部屋に飾りたいという衝動に駆られた。シックな色のインテリアを買うたび、自分の心にウソをつくような感覚がしていた。
どうして、自分は女じゃないんだろう。
どうして、女に生まれなかったんだろう。
どれほど自問自答しただろう。
どれほど『なぜ』と『どうして』を繰り返しただろう。
クラスの男子に「女みたいだ」とからかわれるたび、わたしは言葉にできないほどの悲しみに包まれた。「これは、わたしの身体じゃない」と思うたび、言葉にならないほどの絶望感と無力感にさいなまれた。
愛想笑いばかりが上手くなって。
顔色を伺うことばかり上手になって。
その代わりに、心はすり減っていった。心の声に目を背けるたび、心の叫びから目を逸らすたび。自分にウソをつくたびに、わたしの心はすり減っていった。
心が、摩耗した。
自己と折り合いをつけられるようになってからも、わたしの心には虚しさが渦巻いていた。まるで自分が空っぽであるかのように感じ、虚無感とともに毎日を過ごしていた。胸の奥にある空虚さを隠しながら、わたしはなんとか日々をやり過ごしていた。
自分の声なのに、そうでないように感じる。
自分の身体なのに、そうでないように感じる。
自分の口が、声が、腕が、足が、動きが、吐息が、心臓が、脳が……そして心までもが、自分のものでないかのように感じる。
でも、もう大丈夫。
もう、自己疑念に駆られることはない。
もう、かつてのように苦しみを反すうすることはない。
だって、女の子だから。
いまの "わたし" は、ちゃんと女の子だから。
姿見の前から離れて、クローゼットへと向かうわたし。
引き出しの中から学校指定のシャツと下着を取り出す。パジャマを脱いで、就寝用のナイトブラも外す。桜色の下着を身に付け、その上から白のブラウスを纏う。
この頃は、夏の気配が強まってきた。
そろそろ、ブレザーはお休みの時期かな。
昨日、河原を歩いているときは丁度いい気温だった。けれど、明後日あたりからは急に暑さが増すという。お天気ニュースでやってた。
そのうちクリーニングに出さなきゃな、なんてことを考えながらブレザーに袖を通す。わたしの身体を寒さから守ってくれる金毘羅さま。航海に出るわけじゃないけど、まぁ学校も海みたいなものかもしれない。
水の中では色んな魚が泳いでいるように、学校という海でもまた色々な人が生活している。それぞれの個性を持つ多種多様な学生たちが、学校生活という喜怒哀楽いり混じった荒波に揉まれている。『嬉しさ』や『楽しさ』といった魚が泳ぐこともあれば、ときには『怒り』や『悲しみ』などの魚が泳ぐこともある。集団生活においては、色とりどりの魚が泳いでいて当たり前だから。
じゃあ、わたしの魚は?
わたしは、どんな魚と一緒に泳いでる?
もちろん、わたしは……。
わたしは今日も、金毘羅さまを纏う。もっともっと幸せな船出にするために、航海の無事を願ってブレザーに身をまとうんだ。
着替えを終え、自室を後にするわたし。一階へとおりて、洗面所へと向かう。パシャパシャと顔に水をあてて洗顔すると、気持ちまでスッキリするようだった。タオルで顔の水気を拭き取ったら、化粧水でシッカリと肌ケア。使い終わったタオルを洗濯物入れに放り込んでから、洗面所を後にしてリビングへと向かう。
リビングのドアを開けると、お母さんがソファーに座っているのが見えた。テーブルにはマグカップ。コーヒーの香りが辺りに漂っている。
「おはよう、お母さん」
「あら。早いのね、葵」
「お母さんこそ。まだ六時だよ?」
「ちょっと早く起きちゃってね。お父さんはまだ寝てるから、ゆっくりお茶でもさせてもらおうかと思って」
「わたしもお邪魔していい?」
「もちろん。コーヒーでいいかしら?」
「うん、大丈夫」
「葵は座ってて。準備してくるから」
ソファーから立ち上がり、キッチンへと移動するお母さん。テキパキと手際よく準備を進めていく。お母さんと入れ替わりで、ソファーに腰を下ろすわたし。
窓の外に見える景色をボーッと眺める。部屋のなかに入り込む風に吹かれて、純白のレースカーテンがさざ波のように揺れる。耳を澄ますと聞こえてくる小鳥のさえずりは、朝を知らせるオーケストラのよう。けっして壮大ではない静かなオーケストラが、わたしの耳に穏やかな幸せを届けてくれる。
ソファでゆっくりしていると、やがてお母さんが「はい、どうぞ」とマグカップを手渡してくれた。
「ん、ありがと」
「熱いから気をつけてね」
わたしの隣に座るお母さん。ヤケドしないよう控えめにコーヒーをすすると、じんわりと口のなかに苦味が広がった。コーヒー特有の苦味を楽しんでいると、となりに座るお母さんが「いい朝ね」と言った。
「静かな朝って、すごく贅沢な時間だと思うわ」
「うん。ほんとうに」
「さすがに毎日というわけにはいかないけど、主婦をやってると朝の時間を楽しめることも多いから役得ね」
「早起きすると、喧騒から離れてひとりの時間を楽しめるもんね」
「あら。話がわかるじゃない、葵」
「ふふ、お母さんの子ですから」
「ウチの子は物分かりが良くて助かるわ〜。葵も最近、早起きすることが増えたわね?」
「あー、そうかも。じっくり何かを考えたいときって、朝が一番いいような気がするから」
「今日も、何か考えようとしてたの?」
「うーん、今日は違うかなぁ」と返すわたし。「お母さんがいるから、いっしょに幸せな時間を共有しようと思って」
「葵は良い子ねぇ」
わたしの頭をナデナデするお母さん。ちょっと恥ずかしいけど、ちょっと嬉しい。恥ずかしさと嬉しさが、わたしの心のなかで半分ずつ混じり合う。
「……麻衣ちゃんとは、仲直りできたのね?」
どきり。
どうして分かるんだろう。
「お母さん、わたしのことが分かる魔法でも使えるの?」
くす、と鼻を鳴らすお母さん。
「あなたは、お母さんの子だもの。それくらいのことは顔を見れば分かるわ」と、お母さんは言った。「いまのあなた、すごく良い顔してるから。昨日、学校から帰ってきたときと違って。だから、麻衣ちゃんと仲直りできたんだろうなーと思ったのよ」
すごい。
探偵さん顔負けの名推理だよ、お母さん。
「元々、麻衣とはケンカしたってわけじゃないんだけどね」
「あら、そうなの?」
うん、とノドを鳴らすわたし。
「ただ、わたしが一方的に傷ついて、麻衣を困らせちゃって……だから別段、仲直りっていうわけでもなくて……」
「そう」
「でも、昨日は麻衣と話せてよかった。ずっと心に抱えてたモヤモヤが解消できたから。心の奥にしまってた想い、ちゃんと伝えられたから……」
そう口にすると、お母さんはわたしの肩を抱き寄せてくれた。
「いい時間を過ごせたのね」
「うん、すごく」
「なによりだわ」
わたしの肩に回されたお母さんの手が、眠りに落ちた街を淡く照らす朝焼けのように優しい。
「ねぇ、お母さん」
「なぁに?」
「いつも、ありがとう」
肩から伝わる温もりに浸りながら、わたしは言った。
「いつも支えてくれて、味方になってくれて……ほんとうに、ありがとう。わたし、お母さんのこと大好きだよ」
「あらあら。最近のあなた、ずいぶんと素直なのね」
「前のわたしは、そうじゃなかった?」
「そうねぇ……少なくとも、お母さんに『大好き』って言ってくれるのは初めてね」
「じゃあ、これからは毎日でも言ってあげるね」
「お父さんがヤキモチ焼かない範囲でお願いね」
くすくすと笑うお母さん。釣られて、わたしも笑った。
「葵」
「ん、なぁに?」
「人って、すれ違うものよ」と、お母さんは言った。「どれだけ想いが強くても、相手のことを想っていても……どれほど仲のいい関係であっても、人と人はすれ違うものだと思うわ」
「……」
わたしは何も言わずに、黙ってお母さんの言葉を聞いていた。
「お母さんだって、お父さんとケンカすることがないわけじゃない。もちろん、朋花や葵とだってすれ違うことがあるはず。家族ですらそうなんだから、友だちとか恋人ならなおさらね」
「……じゃあ、どうしたらいいの?」と返すわたし。「本質的に人と人はすれ違うものなら、わたしたちはどうすればいいの?」
優しげに目を細めたお母さんが、にこりと微笑む。
「伝えるの。ありのままを」
ありのまま。
ありのままを、伝える。
「すれ違うことが避けられないなら、私たちには伝えることしかできないわ。本心を隠すんじゃなくて、ありのままの気持ちを相手に伝えるの」
「……」
「葵は、ひとりで抱え込んじゃうクセがあるわ」
わたしの肩を撫でながら、お母さんが続ける。
「それ自体は悪いことではないけど……場合によっては、相手との溝を深くすることがあると思う。相手との間に見えない壁を作ることがあると思う。きっと、葵にも思い当たることがあるんじゃないかしら?」
「そう、だね……」
本音を隠しながら生きてきたわたしは、ありのままの気持ちをさらけ出すことがニガテだ。『かわいい』を封じて生きてきたわたしにとって、本心を口にすることは逆立ちしながら歩くようなもの。とても難しい。
自分の気持ちを曝け出すことって……とても、難しい。
「でもね、すれ違いがあるからこそ、分かり合えたときに嬉しくなるんだと思う。これもきっと、思い当たることがあるんじゃない?」
「うん……」
先日のことを思い出す。
昨日は間違いなく、麻衣とすれ違っていた。わたしの想いとはかけ離れた言葉を口にした麻衣。わたしが欲しい言葉とはかけ離れたことを口にした麻衣。
わたしは「好きな男子」なんていらない。だって、もっと他に欲しいものがあるから。心震えるほど乞い願うものがあるから。
わたしは『かわいい』が欲しかった。麻衣が欲しかった。ずっとずっと、そうだった。
だから昨日は、落ち込んじゃったんだ。
わたしの想いが麻衣に理解されてないと思って、ひとり勝手に落ち込んじゃったんだ。
そんなはずないって、頭では分かってたはずなのに。理性では納得できてたはずなのに、どうしようもなく感情的になってしまった。麻衣を困らせてしまった。
でも、そのおかげで麻衣に想いを伝えられた。ずっとずっと抱えてきた想いを、麻衣に伝えられた。
「いまなら、お母さんの言うことが分かる気がする」と、わたしは言った。「すれ違うのって、かならずしも悪いことばっかりじゃないんだよね。すれ違いがあるから分かり合おうとするし、相手に自分の気持ちを伝えようとするんだよね」
「えぇ、そう思うわ」
禍福は糾える縄の如し。
不幸だと思っていたことが転じて、幸福につながることがある。幸せと不幸せは表裏一体。それは例えるなら、一枚のコインのようなもの。表面のないコインなんて存在しない。逆もまた然り。
人間関係も同じ。すれ違いという対人関係での不幸は、互いに心を通わせたときの喜びにつながる。不幸という面の反対側には、きっと幸福が隠れている。お母さんが言っているのは、多分そういうことなのだろう。
「ありがとう、お母さん。お母さんが、わたしのお母さんでいてくれて嬉しい。わたし、すごく幸せだよ」
「あらあら……」
お母さんがわたしの肩を引き寄せて、その胸に抱いてくれた。毛布を天日干ししたときのような柔らかい香りが、鼻先を通って心に沁み込んでいく。
「お母さんも、葵がお母さんの子でいてくれて嬉しいわ」
「じゃあ、お互いさまだね」
「えぇ、お互いさま」
お母さんの体温に包まれながら、わたしはそっと目を閉じた。
小鳥が鳴いている。遠くのほうで、朝を知らせるオーケストラが奏でられている。小鳥たちの合奏に耳を澄ませながら、わたしは温かな幸せに浸った。
溶け合った幸せと安らぎが、朝の日差しに照らされていた。




