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この想いを抱きしめて 7


 川べりを歩く。

 草木が生い茂る河川敷へとおりて、川のすぐそばを歩く私たち。

 穏やかに流れる川を夕焼けが茜色に装飾している。わたあめのように柔らかく吹く風が草木を揺らして、かさかさと控えめな音を立てる。

 しばらく無言で歩いていると、ふいに麻衣が「あ、あれ」と言った。彼女が指さす先にあるのは、群集したシロツメクサ。

「むかし、よくコレで花冠つくって遊んだよねぇ」

 麻衣、覚えててくれてたんだ。

 小さい頃の、わたしとの思い出を。

「麻衣は、冠がよく似合ってたよね」

「えー、葵だって似合ってたよぉ」と返す彼女。「すっごく似合ってて、すっごく可愛かった!」

「そう、かな……」

「そうだよぉ。あたし、ずっとずっと葵のこと『お姫様みたい』って思ってたんだから!」

 お姫さま。

 うれしいな。そんな風に思ってくれてたなんて。

 わたしが生きてきた世界では、お姫様なんて言われることなかったから。わたしは、女の子が求める『王子様』にならなきゃいけなかったから。女の子に求められる『男の子』にならなきゃいけなかったから。

 だから、うれしい。

 麻衣にそう言ってもらえること、すごく嬉しい。

「……いまも、そう?」

「え?」

「いまも、わたしのこと『お姫様みたい』って……そう思ってくれてる?」

「もちろん!」と彼女は言った。「あたしにとって葵は、カワイイお姫さまだよ。昔から、ずっとずっとそうだよ!」

「そっか……ありがとう、麻衣」

 にこりと微笑む麻衣。

「そういえば、シロツメクサって『約束』とか『幸福』って意味の花言葉があるんだってね」

「そうなの?」

「うん、たしかね。あたし、この花言葉を聞いたとき『キレイだなー』って思ったの。純白の花に『約束』だなんて、すっごくロマンチックだなーって」

「花冠って言えば、結婚式にはカスミソウが使われることもあるみたいだね」

「あー。そういう描写、ドラマであったりするよねぇ」

「『純潔』とか『清らかな心』って意味があるらしいよ」

「結婚式ウケしそうな花言葉だねぇ」

 ふふ、と鼻を鳴らすわたし。

「そうだね。結婚式っていうイベントにはピッタリなんじゃないかな」

「あたしは和装衣装も好きだけどなー」と続ける彼女。「でも今って、ほとんどがウェディングだよねぇ。あたしたち日本人なのに」

「みんな、西洋ナイズされちゃってるからね」

「葵は、洋装と和装どっちが好き?」

「わたし?」

「うん。葵、カワイイからどっちも似合うと思うなー」

「わたしは……どっちも着てみたい、かな」

 だって、どっちも可愛くてキレイなんだもん。

 洋装は絢爛な感じがするし、和装は落ち着いた雰囲気がある。洋装のほうがカワイイ感じするけど、最近の和装もスタイリッシュになりつつあるらしい。昔みたいに野暮ったい感じじゃなくて、現代人にウケるようモダンなデザインになってるんだとか。なんかの雑誌で見た気がする。

「あは。葵は欲張りちゃんだなぁ」

「だって、どっちもカワイイから。せっかく着るんだったら、どっちも試してみたいなぁ」

 くすくすと笑う麻衣。

「葵なら、きっと似合うよ」

 麻衣が続ける。

「ドレスも白無垢も、葵ならどっちも似合う。きっと素敵でカワイイ花嫁さんになれるよ」

「あ、ありがとう……」

 なんか、ちょっと照れくさい。

 花嫁姿の自分は、うまく想像できない。遠い未来のことのように思えるから、イマイチ現実感がない。

 でも麻衣が「似合う」って言ってくれるなら、多分そうなんだろう。麻衣は、わたしのことをよく見てるから。彼女の観察眼を信じたい。彼女の『かわいい』を信じたい。


 わたしは、麻衣の言葉を信じたい。


「じゃあ、そんな葵ちゃんにプレゼントをあげましょー」

 その場にしゃがみ込む麻衣。足元にあるシロツメクサを手に取り、慣れた手つきで器用に編み込んでいく彼女。

 麻衣、手際いいな。

 作り方、覚えてるんだね。小さい頃、一緒に作ったもんね。

 麻衣は、わたしの味方だった。男子たちに冠を壊されたとき、呆然とするわたしの代わりに麻衣が声をあげてくれた。穢れのない純粋悪に立ち向かうように、わたしの代わりに麻衣が怒ってくれた。理不尽に抗うように、不条理と戦うように。

 いつだって麻衣は、わたしの味方をしてくれた。

 いつだって、味方でいてくれたよね。

 いつだって、隣にいてくれたよね。

 わたしの、となりに。

 花冠を編む麻衣のようすを眺めていると、やがて彼女が立ち上がってコチラを振り向いた。

「はい、葵にプレゼント」

 わたしの頭のうえに手を伸ばし、小さなシロツメクサの花冠をかぶせる麻衣。

 そっと冠に手を伸ばすわたし。頭のうえに乗った花の冠に手を触れて、やわらかな草木の感触を確かめる。小さい頃に触れたのと同じ感触。小さい頃に感じたのと同じ感覚。

 この花冠が、わたしをお姫さまにしてくれた。

 この冠を身につけているときだけ、あの頃のわたしはお姫さまになれた。

 スカートのポケットから、生成り色のハンカチを取り出す麻衣。ハンカチで手を拭きながら、麻衣が「小さめの冠だけど……」と言った。

「葵には、カワイイものがよく似合うよ」

 にこりと優しげに微笑む麻衣。夕陽に照らされた笑顔が、わたしの瞳を刺すように射抜く。

 わたしの好きな顔。

 わたしの好きな麻衣の笑顔。

 夏に咲き誇るヒマワリのような微笑み。



 わたしの、好きな人。



 もう一度わたしは、頭の上にあるシロツメクサに触れた。『かわいい』を身につけたわたし。『かわいい』を言葉にできるわたし。

 わたしは、かわいいものが好き。

 わたしは、かわいいものが大好き。

「ありがと、麻衣」

 麻衣が編んでくれた『かわいい』のおかげで、しぜんと頬が緩んだ。嬉しさが身体じゅうを駆けめぐるようだった。

「えへ。葵には、笑顔が似合うね」

「麻衣だって、笑った顔がよく似合うよ?」と返すわたし。「麻衣の笑顔を見ると、すごく元気が湧いてくるの。イヤな気持ちとかどっかいっちゃうような気がして、すごく前向きな気持ちになれるんだ」

「いまも、そう?」

「え……」

「あたしが笑ったら、いまの葵も前向きな気持ちになれる?」

「それ、は……」

 複雑だった。

 麻衣の笑顔は、わたしを元気づけてくれる。その言葉にウソはない。けれど、今もそうなのかと言われると……ちょっと自信がなかった。

 もちろん、彼女の笑顔を否定するわけじゃない。それだけは絶対にない。

 でも今のわたしが、アンビバレントな感情を抱えているのも事実。わたしの心にある二つの感情が、それぞれ反対方向を向いている。『心』という目視できない不透明な水槽のなかで、二匹の魚が互いに背を向けて泳いでいる。

 彼女の笑顔を見たいと思うわたしと、ひとりになりたいと思うわたし。彼女の声を聞きたいと思うわたしと、ひとりにして欲しいと思うわたし。相反する感情のせめぎ合いが、わたしの足を止める葛藤を生み出す。

 わたしは、怖がってる。

 麻衣との関係が変わることを怖がってる。

 わたしが本心を口にすることで、彼女がイヤな気持ちになるんじゃないか。彼女が傷ついてしまうんじゃないか。彼女との繋がりが絶たれてしまうんじゃないか。そんな不安が頭をもたげている。

 彼女に本心を伝えたいとわたしと、そうじゃないわたし。本音を口にしたいと思っているわたしと、そうじゃないわたし。相反する感情のせめぎ合いが、わたしの心に恐怖を生み出す。前に進むことを躊躇わせる。

 両手で包み込むように、わたしの手をキュッと握る麻衣。雪解け水のように透明な声で、彼女が「ねぇ、葵」と言った。

「いいんだよ、正直に言っても。あたしは、葵のすなおな気持ちが聞きたい。葵の想いを、あたしに聞かせてほしい」

 想い。

 わたしの想い。

「でも、わたし……」

 怖い。

 怖いよ。

 また否定されるんじゃないかって。

 わたしの『かわいい』を拒絶されるんじゃないかって。毎日のように孤独を感じていた、あの頃に戻るんじゃないかって。わたしの『かわいい』を踏みにじられる、あの頃に逆戻りするんじゃないかって。

 わたしの目の前で、ひまわりが枯れていくんじゃないかって。萎れていくんじゃないかって。

 わたしの手で、ひまわりを枯らせてしまうんじゃないかって。萎れさせてしまうんじゃないかって。

 怖い。

 怖い。

 すごく、怖いよ。

「大丈夫だから」

 麻衣の声が、耳のなかで反響する。

 大好きな彼女の声が、脳内でリフレインする。

「葵の想い、あたしに聞かせて?」

 ふわりと風が吹く。

 ふいに夕風が吹いて、麻衣の髪をさらった。茜に灼けた彼女の黒髪が、わたあめのように膨らむ。

 向かい合わせに立つ麻衣が、まっすぐに目を向けている。彼女の小豆色の瞳が、わたしを見つめている。まっすぐに、わたしを見つめている。


 わたしの想い。


 わたしの、麻衣への想い。


 口の中が乾く。

 身体に緊張が走る。

 痙攣するように震える唇。

 騒がしいほどに打ちつける胸の鼓動。

 ごくりと生唾を飲む音が、やけに鮮明に聞こえる。

 自分の呼吸が浅くなっているのが分かる。わたしの震える呼吸に合わせるかのように、周囲の空気までもが小刻みに揺れているみたい。

 怯えるように下を向き、ぎゅうっと目を瞑った。空いたほうの手で、制服のスカートを強く握る。

「あの、ね……」

 掠れた自分の声。

 口のなかが乾いているせいか、思ったよりも掠れた声が出た。過剰に高ぶった交感神経が、わたしの口内から水分を奪っている。

 すうっと一つ息を吸ってから、震える声で言葉を紡ぐわたし。

「わた、わたし……おままごと、とか……」

 記憶がよみがえる。

 あの頃の記憶が呼び起こされる。

「ぬいぐるみとか……ずっとずっと、昔から好きで……」

 幼いころの情景が、鮮明に脳裏に浮かぶ。

 女の子のグループに混じって、一緒におままごとをするわたし。後ろ指をさす男の子。わたしをせせら笑う声。『男のクセに気持ち悪い』と吐き捨て、おままごとセットを蹴りとばす男の子。わたしが手に持つぬいぐるみを奪いとる男の子。

 わたしを傷つける言葉。そして、嗤い声。

 幼い頃のわたしに向けられた罵倒と嘲笑が、記憶回路の活性化とともに脳内で繰り返し再生される。わたしのアイデンティティーを否定する幾つもの言葉が、エピソード記憶の想起とともに耐えがたいほどの苦痛を心に落としていく。

 フラッシュバックする過去の記憶が、わたしの心を押し潰すかのように圧迫していく。

 正面に立つ麻衣のゆびさきが、わたしの指の背をそっと撫でた。

 眠りについた子どもの頭を撫でる母親さながらに、麻衣の手のひらがわたしの手の甲を優しく撫でてくれる。

「うん、知ってるよ」

 知ってるよ。

 肯定の言葉。

 知ってるよ。

 麻衣にそう言われたとき、わたしはこの世界に認められたような気がした。この世界に居場所を作ってもらったような気がした。思いの丈をぶつけてもいいんだって、そう言ってもらえたような気がした。

 心の奥に溜まった黒いものが、ゆっくりと溶けていくような気がした。

 だから。

 だから、わたしは——


 もう一歩だけ、足を踏み出してみる。


「わたし、かわいいものが……好き、で……」

 淀みが、ゆっくりと消えていく。

 内に溜まった言葉を吐き出すたび、淀みが消えてなくなっていくような感覚がした。

「ずっと、小さい頃からずっと……女の子が、好きで……」

 霧が晴れていくような感覚。

 視界が広がっていくような感覚。

 心の奥底に押し込めた言葉を吐き出すたび、霧が晴れて視界が広がっていくような感覚があった。鈍色の雲の切れ目から差し込む光芒が、ゆっくりと時間をかけて広がっていくような感覚があった。

 たなびく霞が散っていく。

「うん、知ってるよ」

 知ってるよ。

 肯定の言葉。

 知ってるよ。

 麻衣が、わたしのことを認めてくれる。肯定してくれる。理解してくれる。受け入れてくれる。受け止めてくれる。等身大のわたしを、受け止めてくれる。

 だから、わたしは言う。

 思いきって、言葉を紡ぐ。

 麻衣。

 麻衣。

 わたしの、好きな人。

「わた、し……」

 顔を上げる。

 わたしの目が麻衣を捉えた。

 すぅっと一つ息を吸って、わたしは震える声で言った。

「麻衣のこと……好き、なの……」

 優しげに目を細めた麻衣が、にこりと微笑んだ。

 わたしの大好きな、ひまわりのような笑顔で。


「うん、知ってるよ」


 麻衣の手が離れる。

 ぬくもりが離れる。

 わたしの手から、温もりが去っていく。

 代わりに、そっと背中に手を回される。

 わたしの身体を抱き寄せる麻衣。たがいの距離がゼロになると同時に、わたしの身体を温もりが包み込んだ。

 麻衣の温もりが、わたしの身体を包み込む。

「そうじゃないかなって、そうだったらいいなって……ずっと思ってた」

 あったかい。

 背中に回された手のひらから、麻衣の体温が伝わる。彼女の温もりが、よく晴れた日の春の陽射しみたいに優しい。

「あたしも好きだよ、葵」

 麻衣が、背中をさすってくれる。寂しさに濡れたわたしの背中を、撫でるように優しくさすってくれる。

 麻衣が続ける。

「あなたのことが、だれよりも好き」

 ふと、気づく。

 心が軽い。すごく軽い。

 わたしの心に覆いかぶさっていた重力が、いつの間にか消えていることに気付く。わたしの心を押さえつけていた重力が、水蒸気が霧散するかのように消えてなくなっている。

「麻衣……」

「大好きだよ、葵」

 麻衣の体温が伝わる。

 麻衣の優しい体温が伝わって、わたしの心に温もりを届けてくれる。彼女の優しい温もりが、わたしの心を包み込んでくれる。

「わた、わたし……」

 声が震える。

 唇が震える。

 身体が震える。

 それでも、わたしは続ける。

「男の人と、付き合うとか……ぜんぜん、考えられなくって……」

「うん、分かってる」

「ずっとずっと、かわいいもの、が、好きで……っ」

 言葉があふれる。

 逃げ出すように、言葉が口内から出て行く。

「大丈夫。分かってるから」

 肯定の言葉。

 受容の言葉。

 麻衣が、わたしを認めてくれる。受け止めてくれる。受け入れてくれる。わたしの『かわいい』を、麻衣が理解してくれる。肯定してくれる。

 麻衣の優しげな声が、わたしの言葉を引き出す。わたしのノドに留まった言葉が、糸を引くように引き出されていく。堰を切ったように、次々と言葉があふれてくる。

「ずっと、わた、し……っ」

 わたしの口から逃げ出していく幾つもの言葉。ふるえる声帯から吐き出される言葉の数々。わたしの本音。わたしの本心。わたしの、想い。

 想いが、とめどなく溢れた。

「女の子が、好き、で……っ」

 女の子が好きで。

 女の子になりたくて。

『かわいい』が好きで。『かわいい』が欲しくて。

 お姫さまになれること、ずっと夢見てた。心のどこかで、ずっとずっと夢見てた。叶うはずのない夢を、あきらめてた夢を……ずっとずっと、どこか心のなかで思い続けてた。

 こんな日が来ることを。

 いつか、こんな日が来ることを。

 道の途中で捨ててしまった願いを、いつか拾いなおす日が来ることを。


 きっと、わたしは望んでいた。


「麻衣のこと、好き、で……っ」

 涙が滲む。

 視界がボヤけ、世界が歪む。

 ぐにゃりと歪んだ世界。あらゆる輪郭がいびつになる。うねうねと動くヘビのように、わたしの眼前に広がる世界の輪郭がボヤける。

「ありがとう、葵。あたしも大好きだよ」

 わたしの頬を、水滴が伝う。

 目尻に溜まった雫が、ツーッと頬を伝い落ちていく。ほっぺを流れていく涙に、温もりが溶け出しているような気がする。

 麻衣が続ける。

「ずっとずっと、葵のこと大好きだったよ」

 麻衣の優しい声が、わたしの心を包み込んでくれる。

 過去の記憶が呼び起こされる。わたしの心をがんじがらめにしてきた、幼いころの苦々しい記憶がフラッシュバックする。


『気持ち悪い』


『男のクセに』


 わたしを罵る言葉。

 わたしを嘲笑う声。

 投げつけられる暴言。浴びせられる冷笑。ぶつけられる罵倒と嫌悪。わたしの心を踏みにじる悪口や陰口。冷ややかな目と冷めた嗤い声。

 侮蔑も、嘲笑も。

 ののしりも、あざけりも。

 麻衣の温もりが、上書きしてくれる。

 わたしを傷つけてきた言葉の数々が、麻衣の温もりで上書きされていく。ボロボロに剥げてしまった壁をペンキで塗り直すように、わたしの心が彼女の優しい温もりで上塗りされていく。

 温もりが、心を上書きする。

「うぁ、あぁ……」

 嗚咽をもらし、ぼろぼろと涙を流す。

 ぶるぶると震える手で、麻衣の背中に手を回すわたし。

 麻衣の温もりを感じる。背中に回した手のひらから、彼女の優しい体温を感じる。触れた身体を通じて、心に温もりが溶け出しているような気がする。彼女の温もりが、わたしの心に。

 想いが溶け出す。

 涙とともに、想いが溶けていく。頬を伝い落ちていく雫とともに、心の奥底に沈殿する想いが溶け出していく。

「もう、ひとりで抱え込まなくていいから」

 麻衣の温い声が、わたしの心を解かす。

 複雑に絡まった糸が解けていくように、麻衣の温もりに触れたわたしの心が氷解していく。がんじがらめになった心が、彼女の声で解けていくのを感じる。

「葵の気持ち、ちゃんと言葉にしていいんだよ」


 うれしい。


 うれしい。

 うれしい。

 うれしい、うれしい。嬉しいよ。

 麻衣の温かさが、ぬくもりが、やさしさが……こんなにも嬉しい。こんなにも胸の奥に響いて、こんなにも心を満たしてくれる。わたしの心を、こんなにも満たしてくれる。

「ま、ぃ……っ」

 桜色が広がる。

 わたしの心に、桜色が広がっていく。

 どれだけ切望しようとも、わたしの中に留まることのなかった桜色が。どれだけ熱望しようとも、わたしの指の間をすり抜けていった桜色が。どれだけ手を伸ばしても、届くことのなかった桜色が。

 わたしの、大好きな色が。

 粒子が拡散するように、わたしの心に広がっていく。


 わたしの、欲しかった色が。


「麻衣っ……まい、ぃ……っ」

 きっと今のわたし、ひどい顔してる。ぐしゃぐしゃに泣き腫らした、ひどい顔をしてると思う。くしゃくしゃされて歪な折り目がついた、しわくちゃな一枚の紙のように。

 でも、どうでもいい。

 そんなこと、どうでもいい。

 この温もりに溺れていたい。時間なんて忘れて、ずっとずっと溺れていたい。ずっと、抱きしめていたい。この温もりを、ずっと。

 ずっと、ずっと。

「だいじょうぶ。大丈夫だよ、葵」


 わたしは、かわいいものが好き。


 わたしは、かわいいものが大好き。


 わたしという人間を構成するカラーは桜色で、次にクリーム色。

 ブルーやブラックは好きじゃない。わたしには男っぽすぎるような気がするから。深海のように深い青も、墨汁を浸したような黒も、どちらも好きじゃない。

 キライじゃないけど、かといって好きでもない。

 真夜中みたいな濃藍も、カラスのような漆黒も。色が強すぎる気がするから。わたしには似合わないような気がするから。

 でも、空色は好き。

 さわやかで、知的な感じで。だけど、やわらかな印象もある色。

 とくに、アクアマリンのように透き通った色が好き。どこまでも澄みわたる夏の空みたいに澄んだ色。

 透明感のある色をジッと眺めていると、やさしい気持ちになれるような気がする。だから、好き。すごく好き。

 でも、やっぱりイチバン好きなのは桜色。数ある色のなかで、ピンクがイチバン好き。

 かわいいから。

 女の子って感じがするから。

 女性に許された色って感じがするから。わたしという人間を彩ってくれる色だって思うから。

 好きで好きで、どうしようもなく好きなの。ほかの誰かに、わたしは『かわいい』を理解してもらいたい。ほかの誰かに、わたしの『かわいい』を共有してもらいたい。ほかの誰かに、わたしの『かわいい』を知ってもらいたい。

 麻衣が、わたしの『かわいい』を受け止めてくれた。

 その事実が、わたしの心を満たしてくれた。満たされた心が涙となって、わたしの頬からこぼれ落ちていった。

 麻衣。

 麻衣。



 わたしの、好きな人。



 風が吹く。

 柔らかな風が吹く。

 ひゅうひゅうと吹きつける風が、ぎゅっと抱きしめ合う私たちを包み込む。パイル生地のブランケットが身体を包み込むように。母親が生まれたばかりの赤ちゃんを抱き込むように。わたしたちを、包み込む。

 茜色に染まる川。

 穏やかな水流。

 揺れる草木。

 優しい風。

 わたしの唇を食む彼女。

 吻から伝う温もり。

 やわらかな唇。

 淡い香り。

 桜色。

 わたしの色。


 大好きな、わたしの色。


 わたしの胸に咲き広がった桜色が、藍色を帯び始めた地平線へと溶けていった。

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