この想いを抱きしめて 6
六
夕暮れの河原。
わたしを染め抜く茜。
先程わたしが歩いていたときとは違って、流れゆく川に鮮やかなオレンジ色が落ちている。夕陽に照らされてキラキラと反射する水面。一匹の魚がピョンと跳ねた。水面に生じた小さな水紋が、すぐに川の流れにかき消される。
もう、夏が近い。
気温にして二〇℃くらいになる初夏の夕暮れ時は、なにをするにも心地良い。ゆっくり本を読むのもいいし、ぶらぶらと外を散歩するのもいい。流れゆく川をボーっと眺めながら、湿度のない爽やかな風を感じるのもいい。なにをするにも丁度いい気温は、わたしたち人間を活動的にしてくれる。
前に、本で読んだことがある。
研究によると、人間がもっとも活動的になれる気温は、おおむね二二〜二六℃くらいのときなのだそう。春と秋に元気が湧いてくる理由は、この研究データで説明できる。
じっさいに、室温や気温が二二℃を下回ったあたりから、認知パフォーマンスが徐々に低下する傾向にあるのだそう。逆もまたしかりで、高すぎる気温はヤル気を削いでしまう。うだるような夏の暑さや凍てつくような冬の寒さは、ともに人間のモチベーションに悪影響をもたらす。
川を泳ぐ魚にも『最適な水温』があるように、わたしたち人間にも『最適な気温』がある。『丁度良さ』のバランスが適切に保たれているとき、わたしたちは最高のパフォーマンスを発揮できる。適温がもたらす『心地よさ』という心理的な快感は、意欲の向上という実利的なメリットを生み出す。
だから今、わたしが心地よさを感じられないのはおかしい。最適な気温と爽やかに吹く風がある今、わたしが現状に心地わるさを感じているのはおかしい。意欲もとい気分の改善という心理的なメリットを受けられないのは、なにかが間違っていることを暗示している。あるいは、明示している。
理由は分かってる。とてもハッキリしてる。
となりを歩くのは、わたしの想い人。
麻衣。
なにを話すでもなく、無言で堤防を歩く私たち。沈黙が身体を突き抜ける。
堤防から遠くの景色を見下ろす。眼下には橙色に照らされた住宅地がある。視線の先にある大小さまざまな建築物までもが、声帯を失ったオペラ歌手のように無言でひっそりと佇んでいる。
わたしから話を切り出すべきなのか、彼女の言葉を待つべきなのか。いずれにせよ、何もアクションを起こさずにいるのは居心地が悪い。
話し出すキッカケを模索していたところで、静寂を破るように麻衣が先に口をひらいた。
「ごめんね、家にまで押しかけちゃって……」
声の調子から、いつもの明るさが失われているのが分かる。彼女らしからぬ暗いトーンだった。
「ううん、それは……大丈夫」
「その……あたし、葵とだけはイヤな雰囲気になりたくなくて。だから、今日のうちに仲直りしたくて……」
仲直り。
そもそも、わたしと麻衣はケンカしたわけじゃない。わたしが一方的に突っぱねて、彼女のことを困らせただけ。自分の感情との折り合いをつけられなくて、彼女に八つ当たりしてしまっただけのこと。
だから、麻衣は悪くない。
麻衣は、なにも悪くないんだよ。
「……麻衣は、なにも悪いことしてないよ」
彼女が立ち止まって、わたしのほうを振り向く。
「そんなことない。あたし、葵のこと傷つけた」
眉尻を下げた彼女が、悲痛そうな声で続ける。
「唯香たちの話に乗り気じゃないの分かってたのに、葵の気持ちを無視するようなこと言っちゃって……ほんとうに、ごめんなさい」
深々と頭を下げる麻衣。突然の出来事に驚き、わたしは慌てて「いや、そんな……」と言った。
「顔、上げて……」
数秒ほど経った後に、ゆっくりと顔を上げる麻衣。彼女の小豆色の瞳が、少し潤んでいるように見えた。
「あたし、ずっと一緒にいたいって言ったクセに……葵のこと、突き放すような言い方しちゃって……裏切るようなマネ、しちゃって……」
麻衣の表情が曇っている。霞がかった街に差し込む陽の光のように朧げで、あいまいでハッキリとしない彼女の表情。いつもの明るさが、鈍色に覆われて沈んでいる。いまにも雨が降り出しそう。
麻衣は悪くない。
ただ、麻衣は同調圧力に負けただけ。
わたしたち人間を支配する『集団の圧力』に負けただけなんだ。
じっさい、ホモ・サピエンスのメスが同調圧力に弱いのは、先天的・気質的な影響による部分も大きい。『みんなと一緒』でなければ、わたしたちの先祖は生きていかれなかった。みんなと歩調を合わせることが生存・繁殖値を高める一方で、わが道を行きたがるメスの多くは命を落とした。除け者にされ、村八分に遭うこともあったかもしれない。
だから、わたしたちは同調圧力に弱い。とくに日本人や韓国人は、遺伝的に同調圧力に弱い傾向にあることが確認されている。気質的にほぼ同一の遺伝子を持つ日本人と韓国人は、いろいろな面で『みんなと一緒』になりたがる傾向が強い。
「謝って済むとは思ってないけど……ほんとうに、ごめんなさい」
麻衣は悪くない。
だって私たち人間は、もともと『空気』や『雰囲気』に流されやすい生き物だから。本質的に、周りに流されやすい動物だから。
だから、麻衣は悪くない。
きっと、麻衣は悪くないはず。
そのはず、なのに……。
どうして、こんなに悲しいの?
麻衣は悪くないって、頭では分かってる。論理的に考えれば、理性的になれば……麻衣に非はないって、ちゃんと分かってるはず。そう理解できてるはずなのに。分かってるはずなのに。
分かってる、はずなのに……。
どうして、こんなに寂しいの?
どうして、こんなに苦しいの?
どうして、わたしは……。
「……もういいよ、麻衣」と、わたしは言った。「分かってるから。さっきのは唯香たちに合わせただけで、麻衣の本心じゃないんだって、分かってるから」
声に力が無いのが自分でも分かる。わたしの口の中から逃げ出していく言葉の数々に、上澄みだけをすくったかのような薄っぺらさを感じる。
自分の言葉に、自分自身が納得していないときの感覚だ。
「わたし、もう気にしてないし、怒ってもないから」
それでも何故か、わたしの口は止まらなかった。稚拙な言い訳を立ち並べる子どものように、わたしの口内から次々に言葉が逃げ出していった。
「だから、もう謝らな……」
わたしの言葉を遮るように、麻衣が口をひらく。
「ウソ」
「え……」
「嘘だよ、そんなの」
するどい眼差しで、麻衣がわたしを刺す。
「葵は、あたしのためにウソついてる。友だちに裏切られて、突き放されて……傷つかない人なんていないよ。葵だって、傷ついてるはずだよ」
「……」
「葵は、昔っからそう。あたしとケンカしたときはいつも、ひとりで大人になろうとする」
否定しようとしたけれど、どうしてか言葉に詰まった。ノドの奥に留まった言葉が、外に出ようとしてもがいている。
やがて口が閉じていく。わずかに開きかけた口が、重力に負けてゆっくりと閉じていく。外に逃げ出そうとした言葉が、ノドを通って食道を下り胃液に溶かされていく。
言葉が、形を失くす。
「ひとりで悩んで、ひとりで抱え込んで……苦しいはずなのに、気丈に振るまおうとして……」
悲しげな表情で、麻衣が言葉を続ける。
「葵は、いつもそうだよ」
言葉が出てこなかった。
こんなにも麻衣は、わたしのことをよく見ている。よく理解している。わたし以上に、私の気持ちを敏感に察知している。
お母さんや朋花もそうだけど、麻衣にも隠し事なんてできなさそう。
「あたしは、葵の気持ち全部を理解できるわけじゃない」
でもね、と続ける麻衣。
「葵が苦しんでるってことは分かるよ。すごく寂しくて、ツラいんだってこと……あたしには、ちゃんと伝わってる。ちゃんと分かってるよ」
「麻衣……」
「だから、本心を言ってほしい。葵の気持ち、あたしに聞かせて欲しい」
彼女の真っ直ぐな瞳が、わたしを射抜く。
「学校であんなことになって、あたしにあんなこと言われて……葵がどんな気持ちになったのか、ちゃんと本音を聞かせてほしい」
「……」
本心。
わたしの本音。
いいのかな、言っても。
麻衣は「聞かせてほしい」って言うけど、感情をそのまま言葉にするって大変だ。表に出したくない気持ちを言葉にすること。それって、すごく大変なこと。
人に聞かせたくない感情を言葉にすれば、相手は自分の元を去っていくかもしれない。わたしたち人間は時に、それほど醜い感情を抱えることがある。相手に本音をぶつけることで、仲がこじれてしまうことだってある。
わたしは特に、自分の気持ちを吐き出すよりも隠すほうが得意だ。
だって、ずっとそうしてきたから。
ずっとずっと、そうやって生きてきたから。
わたしの身体を夕陽が照りつける。左前方に伸びたわたしの影が、麻衣のつま先にかかっている。
一つ小さく息を吸ってから、肺に溜まった空気とともに言葉を吐き出すわたし。
「わたし、は……言わない」
「どうして?」
「本音は……誰かを傷つけるもの、だから……」
ぎゅっと手を握る。手のひらに爪が食い込んで、鈍い痛みが神経系を伝っていく。
「わたしの本心を口にしたら、きっと麻衣は傷つく。イヤな気持ちになるよ」
イヤになって、嫌いになるかもしれない。
女どうしなのに、あなたのことが好きなわたしを。
わたしはずっと、自分のなかにある『かわいい』を口にできなかった。『かわいい』を表現できないまま、心の奥底にしまい込んできた。そうやって生きてきた。そうやって生きるしかなかった。そうすることでしか、わたしの『好き』を否定してくる世界と折り合いを付けられなかった。
不器用だと言われれば、そうなのかもしれない。わたしは、不器用なのかもしれない。
でも、想像してみてほしい。
まだ十才にも満たない小さな子どもに、大人みたいな器用な生き方ができると思う?
自分を守る術を知らない幼い子どもに、大人みたいな器用な生き方ができると思う?
わたしの幼児性が、私の『かわいい』を封じた。封じて、封殺した。
幼心に、わたしは「かわいいものを可愛いって言っちゃいけないんだ」と悟った。本音を口にするのはいけないことで、本心は心の奥底に隠し込むのが正しいのだと悟った。
だって、本音を口にすればするほど傷つくから。本心を口にすればするほど、わたしの心は傷ついてしまうから。
だから、いつからか『かわいい』を口にすることをやめた。わたしは、本心をさらけ出すことをやめたんだ。
それは、いけないことだから。
「傷つかないよ」
真剣な顔をした麻衣が言う。
「イヤな気持ちにもならないよ。ぜったい、そんな気持ちになったりしない」
「そんなの、分かんないじゃん」
「分かるよ。だってあたし、葵の気持ち聞きたいって思ってるもん。どんなこと言われたって、受け止めたいって思ってるもん」
受け止めてくれる。
麻衣が、受け止めてくれる。
わたしの、この気持ちを。
麻衣への想いを。
「……」
黙り込むわたし。糸で縫い付けられたかのように、いっこうに開こうとしないわたしの唇。
サァっと風が通り抜けていく。吹き抜ける夕風が、がさがさと草木を揺らす。
堤防の下のほうから、キャッキャとはしゃぐ楽しげな声がする。明るい声に誘われるように目をやると、そこにはサッカーボールを追いかける男の子たちの姿があった。彼らから少し離れたところで、ふたりの女の子が腰を下ろしている。彼女たちが座る場所には、雑草に混じってシロツメクサが群集していた。
彼女たちの手元にあるのは、輪っか状の何か。あれは多分、シロツメクサの花冠。
春から夏にかけて咲くシロツメクサは、女の子の遊び道具になる。芯を作って巻き付けて……という作業をくり返せば、わりと簡単に花の冠が作れる。
小さい頃、朋花や麻衣と一緒によく作った。「かわいいね」なんて言いながら、ふたりに冠をかぶせてあげたのを覚えている。朋花も麻衣も、わたしが作る花冠を喜んでくれた。
うれしかった。
ほんとうに嬉しかった。女の子らしいことをして、だれかに喜んでもらえることが。
ただ一つ残念だったのは、わたしには花の冠が似合わなかったこと。ふりふりのスカートを着た女の子には冠が似合うけれど、短パン姿の男の子にはミスマッチだったらしい。性別が変わった今もなお、当時の記憶が鮮明に脳裏に焼き付いている。
当時は当たり前のように、ほかの男子たちにからかわれた。「男のクセにキモい」と言われ、わたしが作った花冠をグチャグチャにされることもあった。時間をかけて作った冠を土足で踏みにじられたとき、わたしの心は残骸となったシロツメクサのように酷く傷ついた。
子どもは残酷だ。
あまりに残酷だ。
混じり気のない純粋悪で、わたしの心を傷つける。わたしの大切なものを踏みにじる。
わたしは、幼心に悟った。
本音を口にしちゃいけない。わたしは、本心を言葉にしちゃいけない。『かわいい』を口にしてはいけない人間なんだ。心のなかで思ったことは、隠さないといけないんだ。『かわいい』は、わたしの言葉じゃないんだ。
それでも。
それでも、わたしの心の奥底にある本音は、相変わらず外に出たがっていたけれど。
本音を隠して生きることって、心に麻酔を打つようなものかもしれない。
どれくらい沈黙していただろう。
東の空が、うっすらと藍色を帯び始めている。オレンジとネイビーが溶け合って、夕暮れと夜の境目を曖昧にしている。茜色と藍色との境界線上に、真珠のようなオフホワイトが浮かび上がっている。
やがて麻衣が「ね、少し歩こっか?」と言った。
わたしは無言でコクリとうなずいて、先を歩く彼女の後をついていった。




