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この想いを抱きしめて 5


 気づけば、陽が傾き始めていた。

 どれくらい歩いたんだろう。目的なく歩くのは久しぶりだった。

 学校を出たあと、わたしは近くにある河原を歩いた。しばらく川を眺めたあと、また歩き出した。どこに向かうでもなく、なにをするでもなく。砂漠を彷徨うラクダのように、わたしは目的なく歩いた。

 河原を離れたわたしは、やがて住宅街に入り込んだ。

 見慣れない建物を眺めながら、ぼんやりとした頭で道を歩く。わたしの隣を通り過ぎていく自動車やバイク。日常の域を出ないはずの風景を眺めながら、わたしは心のなかで「まるで異世界に迷い込んだみたい」と思った。心と現実が乖離しているかのように、現実感が置き去りにされていた。

 ランドセルを背負った子どもたちが、わたしのことを駆け足で追い越していく。見ると、彼女たちは楽しそうな表情をしていた。『今』を楽しんでいるときの顔。『今この瞬間』を生きているときの表情。

 彼女たちを見て「微笑ましい」と思うと同時に、わたしは「うらやましい」とも思った。キャッキャとはしゃぐ彼女たちの姿を見て、心の底から「うらやましい」と思った。

 いまのわたしには、彼女たちの明るさは眩し過ぎる。

 彼女たちの幸せそうな表情は、いまのわたしには眩し過ぎる。太陽のような明るさは、毛布に包まれるような幸せは……いまのわたしには、少しばかり眩し過ぎる。目眩がしそうだった。

 だんだんと、感情が黒ずんでいくのを感じる。

 赤いランドセルを背負った彼女たちを妬んでいる自分に気づく。わたしが手に入れられなかった赤のランドセルが、いまは黒々とした感情に飲み込まれている。かつて自分が背負っていたランドセルと同じ色をしている。

 こんなの、イヤ。

 こんなの、見たくない。

 妬みたくなんてない。

 嫉妬なんて、したくない。

 見たくない。

 見たくない、見たくない。

 なにも、なに一つ見たくない。


 こんな醜いわたし、見たくないよ。


 住宅街を離れると、いつもの通学路に出た。

 重い足を引きずるように、とぼとぼと見慣れた道を歩く。

 しばらく道沿いに歩いた後で、やがて家に着いた。カバンから鍵を取り出し、シリンダーに差し込む。手首をひねってカギを開けたあと、レバーを引いて家のなかへと入った。

 呟きにも似た声で「ただいま……」と言うと、リビングのほうから「おかえり〜」と返ってきた。朋花の声だった。声の発信源をたどるように、リビングへと向かうわたし。

 半開きになっていたドアを引いてリビングに入ると、ソファーに座る朋花の姿が目に入った。

「帰ってくるの遅かったね。どっか行ってたの?」

 朋花の問いかけに、わたしが答える。

「うん……ちょっと、ね。お母さんは?」

「お母さんは買い物」と返す朋花。「お父さん今日は仕事で遅くなるって言ってたから、あたしたちだけでゴハン食べよーってさ」

「そっか……」

 そう短く返事をして、きびすを返すわたし。部屋に戻ろうとするわたしの背中に「ねぇ、お姉ちゃん」と声がかかる。

「今日、もしかして元気ない? なにかあった?」

 妹の鋭い指摘を受けて、ドアレバーに伸ばした手が止まる。レバーを掴もうとして開いた手が、スローモーションで再生される映像のようにゆっくりと閉じていく。

「……そう、だね」

 ポツリと呟くように、言葉を絞り出すわたし。

「ちょっと今は……ひとりになりたい、かな」

「そっか」

 わずかな沈黙のあとで、ふたたび朋花が「ねぇ、お姉ちゃん」と言った。

「あたしでよければ、いつでも話きくから」と続ける彼女。「お姉ちゃんがヤな思いしてるときは、あたしがゴミ箱になってあげるからね」

 わたしのほうに近づいてくる足音。うしろを振り返ると、朋花がわたしの近くまで寄ってきていた。

「朋花……」

「お姉ちゃんは、ひとりで抱え込んじゃうタイプだから。無理しないで」

「……」

「あたしじゃ頼りないかもだけど……どんなときでも、お姉ちゃんの味方になってあげるから。だから、ひとりで苦しまないでね」

 沁みる。

 妹の優しさが、心に沁みる。

 気付いたときには、わたしは彼女を抱きしめていた。すんすんと鼻を鳴らし、涙をこぼすわたし。

「ともかぁ……っ」

 震えるわたしの身体を、彼女はギュッと抱きしめてくれた。

「大丈夫だよ、お姉ちゃん」

 背中に回された手が温かい。妹の優しさが、温もりが、気遣いが……神経系を伝って、心にまで届くようだった。

「うぁ、あぁ……」

「だいじょうぶ。きっと大丈夫だよ」

 お母さんが買い物から帰ってくるまで、朋花はわたしのことをずっと抱きしめてくれた。お母さんは「どうしたの? 何かあったの?」なんて言って驚いてたけど、わたしの代わりに朋花が「大丈夫だから」と返事をしてくれた。それ以上は、お母さんも何も追求してこなかった。

 しばらくしてわたしが泣き止むと、今度はお母さんがギュッと抱きしめてくれた。「大丈夫よ、葵。きっと、だいじょうぶ」なんて言って、朋花と同じように抱きしめてくれたお母さん。むぎゅっとお母さんの胸に埋まったわたしは、少しだけ恥ずかしさを覚えた。

 わたし、もう高校生なのに。

 もう、お母さんのおっぱいが恋しい年でもないのに。

「いつでも、お母さんたちに話してね。家族みんな、葵の味方なんだから」

 あったかい。

 すごく、あったかい。

「うん……ありがとう、お母さん」

 家族って、こんなにも温かい。

 お母さんの胸元から離れたわたしは、となりにいる朋花にも「朋花も、ありがとね」と言った。なにも言わずにニコリと微笑む朋花。

 ふたりに「部屋、行くね」と断ってから、わたしはリビングを後にした。部屋に戻るやいなや、ごろりとベッドに寝転ぶわたし。枕のそばにあるクマのぬいぐるみが、横たわるわたしをジッと見つめている。

 ふたりに抱きしめられたときの感覚が残っている。終演を迎えたピアノの旋律が余韻を残すかのように、お母さんと朋花の体温がわたしの身体で残響している。

 家族って、いいな。

 すごく温かくて、すごく優しい。

 支えてくれる人がいるのって、こんなに心安らげるものなんだ。こんなに安心できるものなんだ。

 家族って、ありがたいね。

 温かくて、ありがたいね。

 眼前にあるぬいぐるみに手を伸ばす。わたしの上半身くらいある大きなぬいぐるみ。麻衣からもらったクマのぬいぐるみ。彼女の部屋の香りが残ったぬいぐるみを、わたしはギュッと胸に抱いた。


 今日は、ひさしぶりに孤独を感じたな。


 小さい頃は、毎日のように孤独を感じていた。

 わたしの『かわいい』を理解してくれない同級生たち。わたしの『かわいい』を否定してくる男の子たち。「気持ちわるい」とか「男のくせに」なんて言葉を投げつけてくる人たち。彼らが放り投げてくる言葉の数々は、わたしにとって暴言と呼んでも差し支えなかった。

 もちろん、わたしにも味方はいた。いつだって朋花も麻衣も、わたしを味方してくれた。朋花は「男の子が可愛いもの好きでもいいじゃん!」と言ってくれたし、麻衣は「葵のことバカにしたら、あたしが許さないから!」なんて言ってくれた。だから、周りから除け者にされても耐えられた。孤独に耐えることができた。

 そういえば、前に本で読んだことがある。

 研究によると、人間の幸福度を下げるもっとも大きな要因のひとつは『孤独感』なのだそう。じっさいに、慢性的な孤独で苦しんでいる人のほうが、そうでない人と比べて幸福度が著しく低下する傾向にあるらしい。社会的な動物として進化してきた背景を持つホモ・サピエンスは、共同体からの孤立に耐えられるようデザインされていない。

 また、孤独感は心と身体の両方を蝕む。

 データによれば、孤独を抱えやすい人のほうが、うつ病や不安障害といった精神疾患に罹りやすくなるのだそう。それだけでなく、糖尿病や肥満といった身体的な病気にも罹りやすくなるほか、長期死亡率が二二%も悪化する傾向にあることが分かっている。ひとことで言うと、集団からの孤立は心身に重篤な悪影響をもたらす。

 たとえるなら、孤独は毒キノコのようなもの。遅効性ながら確実に、わたしたち人間の心と身体を蝕んでいく。真綿で首を絞めるように、ゆっくりと死をもたらすもの。それが、孤独という猛毒。

 愛は人を癒すけれど、孤独は心を蝕む。

 孤独には慣れていた。そう思っていた。

 幼い頃に孤独の雨に打たれきったわたしは、理解という太陽が昇ることを心のどこかで諦めていた。

 それに誰だって、独りになりたいときがある。心の片隅にある小さな部屋に引きこもって、さびしさに濡れた夜をやり過ごしたいときがある。わたしは、よく知っている。機械的なまでに淡々と進んでいく時計の針が、寂しさを連れ去っていってくれることを。

 でも、もうダメ。

 たぶん、ダメなんだ。

 わたしは、私の『かわいい』を理解してもらいたい。わたしの『かわいい』を誰かと共有してもらいたい。わたしの『かわいい』を知ってもらいたい。

 もう、イヤだよ。

 独りになるのは、もうイヤだ。もう、あの頃に戻りたくない。

 あの頃みたいに、透明になりたくない。わたしの想いが透けて、みんなの前をすり抜けていくような。誰にも、わたしの想いを打ち明けられない日々。孤独に耐え続けるだけの毎日。

 戻りたくない。透明だった頃のわたしに、苦痛に耐えるだけの日々に……もう、戻りたくないよ。

 わたしは、私の『かわいい』を知ってもらいたい。

 だれかに、わたしの『かわいい』を理解してもらいたい。

 他の誰かに、わたしの『かわいい』を共有してもらいたいんだ。

 そして、その『誰か』は麻衣がいい。

 わたしは、麻衣に知ってもらいたい。わたしの『かわいい』を理解してもらいたい。この気持ちを共有してもらいたい。


 わたしは、女の子が好き。


 思いっきり『かわいい』を表現できる、女の子が好き。


「麻衣……」

 麻衣から貰ったクマのぬいぐるみを抱えながら、ひとり小さく呟くわたし。彼女の名前が宙を舞って霧散していく。ゆっくりと目を瞑ると、まぶたの裏に麻衣の笑った顔が浮かんだ。

 わたしが好きなのは、王子様じゃない。

 わたしが好きなのは、かっこいいものじゃない。

 わたしが好きなのは、みんなが好きな『男の子』じゃない。


 好き。



 わたしは、麻衣のことが好き。



 好き、なのに。

 麻衣のこと、好きなのに。

 それなのに、わたし麻衣のこと突き放しちゃった。

 いっときの感情に流されて、麻衣のこと突っぱねちゃった。せっかく麻衣が、わたしの手を取ってくれたのに。心配して駆けつけてくれたのに。わたしを追いかけて来てくれたのに。手を伸ばしてくれたのに。麻衣の手、振りほどいちゃった。

 あんなこと、したかったわけじゃないのに。

 あんなふうに、麻衣を困らせたかったわけじゃないのに。

 最低。

 わたし、最低。最低だよ。


 ほんと、最低……。


 ぬいぐるみに顔を埋めるわたし。

 悲しさも情けなさも押し付けるつもりで、胸に抱いたぬいぐるみに深く沈めるように顔を埋めた。

 まぶたの裏に見える暗闇の世界に浸っていると、ふいにドアをノックする音が。コンコンという音に反応して、パッと目を開けるわたし。ぬいぐるみを手放して、のそりとベッドから起き上がる。

「はい」と短く答えると、ドアがガチャリと開いた。ドアノブを掴んだままのお母さんが、わたしの部屋に片足だけ踏み入れる。

「麻衣ちゃん、来てるわよ」

 麻衣が、ウチに……?

 茜色が差し込む窓。部屋いっぱいに橙色が広がっている。閉め切った窓を貫くかのように、カラスの鳴き声が室内に響きわたる。カァカァと鳴く甲高い声が、どこか寂寞めいて聞こえた。

 茜が、目に滲む。

 すでに、もう夕方だ。

「ん、わかった……」

 ベッドからおりて、足元にあるスリッパを履く。重い足を引きずるように、部屋の出入り口に向かって歩き出す。ドア付近に立つお母さんが、落ち着いた声で「ねぇ、葵」と言った。

「うん?」

「麻衣ちゃんと、何かあったのね?」

 もう。

 察しがいいんだから、お母さん。

 そういえば、前にも似たようなことがあった気がする。たしか、あの時は「女性のほうが目ざとい」なんて思ったんだっけ。わたしの性別が変わったとき、お母さんも麻衣もその違和感に気づいた。朋花だってそうだ。

 ありきたりな言葉だけど、よく「女のカンは当たる」なんて言うよね。

 女性のほうが察しがいいのは、相手のことをよく見ているからかもしれない。女性のほうが目ざといのは、相手のことをよく観察しているからかもしれない。メスという性は生物学的に、感情の機微を察知する能力に長けているのかもしれない。

 お母さんには、隠し事なんてできなさそう。

「うん……」

 そう、と続けるお母さん。

「葵は、どうしたい?」

「え?」

「麻衣ちゃんに、会いたい?」

「……」

 正直に言うと、気持ちは半々だった。

 会いたい気持ちと、そうじゃない気持ち。

 声を聞きたい気持ちと、そうじゃない気持ち。

 アンビバレントな感情が同居して、わたしの心に葛藤を生み出す。「したい」と「したくない」がせめぎ合って、わたしの心をかき乱す。まるで、水と油が乳化していくように。混じり合わないはずの感情が、乳化剤によって溶けあっていくように。

 相反する二つの感情が溶け合って、わたしの心を惑わす。

「人って、すれ違うものよ」と、お母さんが言った。「もし会いたくないなら無理しなくていいと思うけど……麻衣ちゃんのことを大切に思ってるなら、葵なりの答えを伝えたほうがいいと思うわ」

「そう、だね……」

 どうしたいんだろう。

 わたしは、どうすればいいんだろう。

 麻衣の顔を思い浮かべる。

 麻衣は今、どんな顔をしているんだろう。どんな表情をしているんだろう。どんな気持ちを抱えて、わたしのことを待っているんだろう。

 不安だろうか。

 憂鬱だろうか。

 心配だろうか。

 それとも、孤独だろうか。

 わたしに置き去りにされて、拒絶されて、苦しい気持ちを抱えているのかもしれない。わたしに拒まれて、拒否されて、苦しみを感じているのかもしれない。

 もしそうなら、わたしは会わなきゃいけない。

 きっと、わたしは麻衣に会わなきゃいけない。


 もしも、ひまわりが萎れているのなら。




 わたしは、麻衣に会わなきゃいけない。




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