この想いを抱きしめて 4
四
「葵、鈴木のことフったって?」
放課後。
ひと気のなくなった教室で、唯香が言った。
「さっき、雄太と一緒にいるときに鈴木から聞いたよ。葵に告ったけど、断られたって」
雄太とは、野球部の田中のこと。鈴木と田中は仲が良い。そして、唯香と田中は付き合っている。
だから鈴木は、わたしに告白したことを彼らに報告したのだろう。仲のいい友達とその彼女には、事実を隠すことなく真っ先に報告する。鈴木らしい行動だと思った。
「アタシは前から、鈴木が葵のこと好きだって聞いてた。だから今日、鈴木が葵に告るってことも知ってたんだけど……」
複雑そうな表情をしながら話す唯香。
生物の授業中とその前、唯香がフシギそうな顔でわたしを見ていた理由。きっと彼女は、わたしが鈴木からの告白を断ったことを訝しんでいたのだろう。体育の時間中にわたしをけしかけてきたのも、鈴木の気持ちを知っていたからなのかもしれない。
「えー! 葵、マジでー!」と続けるクラスメイト。中には「二人お似合いだし、付き合っちゃえばよかったのにー!」なんて口にする子も。
一気に色めき立つ教室内。
唯香もまた、続けざまに「葵、どうして?」と言った。
「鈴木、めっちゃ優良物件じゃん」
優良物件て。
たしかに、鈴木は魅力的な異性だけど。
でも、わたしは鈴木を "そういう対象" としては見てない。彼のことを友だちとして見ることはあっても、恋愛対象として見ることはない。
どれだけ魅力的だろうと、将来性があろうと、お似合いだろうとなんだろうと、相手の気持ちに応えられないことはある……と思うんだけど。
「わたしは、いまは恋愛とかはいいかなーって……」
わたしの言葉に、唯香が返す。
「えー、まじ?」と唯香が言った。「恋愛したくない女子とか、この世に存在するの?」
いますよ、ここに。
あなたの目の前にいますよ。
まぁ、正確には「男子と恋愛しようと思わない」なんだけど。
唯香が続ける。
「アタシ、葵とダブルデートとかしたかったなー。鈴木と付き合ってたら、いっしょに遊園地とか行けたのにー」
すると唯香の後に続くように、ほかのクラスメイトたちが「えー、ソレめっちゃいいじゃん! 学生のデートって感じー!」とか「いいなー、わたしもダブルデートしてみたーい!」などと口にした。
みんな、恋愛脳だなぁ。
彼氏を連れてデートって、そこまでテンション上がるイベントかなぁ。わたしの脳には、その感覚インストールされてないや。
「鈴木の何がダメだったの?」
唯香の言葉に、おずおずと返すわたし。
「いや、ダメってわけじゃ……」
「この学校で、鈴木レベルの男子って他にいなくない? 葵、どんな人が好きなの?」
唯香、やけに突っかかるなぁ。
そんなに、わたしの恋愛ごとに興味があるのかな。面倒見のいい唯香らしいと言えばらしいけど……ちょっと流石に、お節介が過ぎる感がある。正直な気持ちを言えば、あまり深入りしないでほしいとさえ思う。
「好きなタイプってこと?」
わたしの言葉に、唯香が返す。
「そうそう」
「んー、そうだなぁ……」
考える風な仕草を取るわたし。
でも、分かってる。
そんなの、分かってる。
わたしは、カワイイものが好き。
かわいくて、柔らかくて、ふわふわしてて、見てるだけで心が癒されるようなものが好き。見てるコッチまで優しい気持ちになれるような、そんな笑顔を見せてくれる人が好き。夏の日差しに照らされるヒマワリのように、明るく微笑みかけてくれる人が好き。
わたしの、好きな人。
麻衣。
でも、言えない。
そんなこと言えない。
みんなは、わたしのことを「異性に恋する "普通" の女子」だと思っているはずだから。男子と恋愛するのが当たり前な "普通" の人だと思っているはずだから。みんなと同じ "普通" の人間だと思っているはずだから。
だから、言えない。
みんなには、言えない。
わたしの好きな人は、言えない。
きっと、みんなには言えない。
隠さないと。
わたしの気持ち、みんなには隠さないと。
じゃないと、きっと麻衣にも火の粉が降りかかる。わたしの好きな人にも、常識や同調圧力といった火の粉が降りかかる。わたしのせいで麻衣がイヤな思いするなんて、そんなの耐えられない。そんなの、ガマンできない。
異性と恋をするのが "普通" 。
異性と付き合うのが "普通" 。
わたしたちの社会には、道しるべのように示された "普通" への同調圧力がある。
その "普通" とやらに当てはまらない人は、まるで人間として歪んでいるかのように。社会が押し付けてくる "普通" の枠組みに入れない人は、重要な部品が欠けている欠陥品であるかのように。『普通』なんて、だれも見たことがないはずなのに。そんなもの、架空の存在でしかないはずなのに。
でも、みんなソレを信じてる。『普通』があることを信じてる。
だから、隠さなきゃ。
わたしの気持ち、みんなには隠さなきゃ。
「好きなタイプとか、とくに考えたことないかなー……」
「そうなの?」と返す唯香。「好きな芸能人とか、好きなスポーツ選手とかいないの?」
「いないねー。ほら、わたしテレビとか観ないから。正直、そういうの疎いし」
わたしの言葉に反響するように、クラスメイトの一人が「えー、もったいなーい!」と言った。
「葵だったら、いくらでもハイスペ男子と付き合えちゃいそうなのにー!」
「そうだよー。女子高生でいられる期間は短いんだよ?」
「いまのうちに恋しとかなきゃ、あとで後悔しちゃうよ!」
止むことを忘れた鐘の音のように、立て続けに向けられる言葉の数々。わたしに向かってくる言葉の弾丸。わたしの手で一つひとつ捌いていくには、あまりにも弾数が多すぎて手に余る。
「あはは、そうだねー……」
彼女たちから向けられる言葉に、あいまいな笑顔で返すわたし。
なんか、すごく居心地わるい。
正直、この場に居続けたくないな。わたしの恋愛事情なんて、放っておいてくれていいのに。そんな問い詰めるようなマネしなくてもいいのに。それっぽい理由つけて、さっさと帰っちゃおうか。
「ね、麻衣もそう思うよね?」
「え、あたし?」
唯香からの唐突な問いかけに、困惑したようすの麻衣。
「麻衣もカレシ作って、遊園地とか水族館とか行ったりして恋愛したいなーって思うでしょ?」
「あたし、は……」
やめて。
やめて。
やめてよ。
麻衣を巻き込まないで。
わたしの大切な友だちを巻き込まないで。
わたしのことをチラリと横目で見る麻衣。複雑そうな表情をした彼女と目が合う。
麻衣の小豆色の瞳に、迷いや困惑の色が乗っているような気がした。百の言葉よりも雄弁に語る彼女の瞳の奥底に、憂いを乗せた藍色の感情を見つけたような気がした。
麻衣が口をひらく。
「あたしも葵と同じで、いまは恋愛とかいいかなー……」
「え、まじー?」と返す唯香。「ふたりとも、もったいなくない? せっかくカワイイんだから、もっと積極的に恋したらいいのにー」
「うーん……あたしは、みんなと一緒にいるのが楽しいし……」
「でもさぁ、みんな夏休み前にはカレシ作っちゃうと思うよ?」と続ける唯香。「来年は受験だしさ。遊べるタイミングって今しかないじゃん? カレシ作り始めてる子、あたしの周りでもチラホラいるし」
唯香の言葉に、クラスメイトの一人が「そーだよー」と同調する。
「わたしも今、塾でいい感じになってる人いるんだよねー」
「それに、彼氏いたほうが色んなところ遊びに行けるしさぁ」
「分かるー。男いるときのほうが、選択肢が広がる感じあるよねー」
さきほどと同様、クラスメイトたちの言葉が続けざまに放たれる。わたしを標的にするのではなく、今度は麻衣に向かって銃弾が飛んでいく。いくつもの言葉の弾丸が空を切って、ひまわりに向かって飛んでいく。
「んー……そう、だねー……」
降りしきる言葉の雨に、あいまいな肯定で返す麻衣。
なんか、イヤだな。
こういうの、すごくイヤ。
なにより、麻衣の気持ちを無視してる感じがイヤだ。
麻衣が「みんなと一緒にいるのが楽しい」って言ってるんだから、それでいいじゃん。本人がそう言ってるんだから、放っておいてくれたらいいじゃん。どうして、みんなと同じ "普通" に当てはめようとするの?
「麻衣だって、葵に好きな人ができたら嬉しいでしょ?」と唯香が言った。「葵、ちょーカワイイし。どんな男子を好きになったのかとか、気にならない?」
「わたしも、葵に好きな人ができたら全力で応援しちゃうなー」と続くクラスメイト。「だって、友だちだもん。せっかくの恋、友だちなら『応援してあげたい』って思うもんじゃない?」
友だちなら。
ほんとうに、友だちなら。
ほんとうに友だちだと思ってるなら、放っておいてくれないかな。「自分とおなじ人間」として見るんじゃなくて、相手の意見とか考えを尊重してくれないかな。自分の "普通" と相手の "普通" は違うんだってこと、理解してくれないかな。
「ね、麻衣もそう思うよね?」
誰かが、明るい声で言った。
「葵に好きな男子ができたら、麻衣も嬉しいよね。友だちだもんね」
女子特有の同調圧力。「あんたも、そう思うでしょ?」という呪いの言葉。『みんな』にフォーカスして、個人を無視する残酷な言葉。マジョリティが優位に立つ『集団』にフォーカスして、ひとり一人が持つ多様な価値観を封殺する残酷な言葉。集団の結束力を高めるために、個人の尊厳をないがしろにする言葉。
それが今、麻衣に突きつけられている。
『友だち』という都合のいい大義名分を掲げて、わたしの大切な人を絡めとろうとしている。同調という糸で手足を括られたマリオネットが、身じろぎすることさえ許されなくなるように。
やめて。
やめて。
やめてよ。
麻衣を巻き込まないで。
わたしの好きな人を巻き込まないで。
「あー……」
小さく声をもらす麻衣。
お願い、麻衣。否定して。
お願い。
お願いだから。
「そう、だねー……」と麻衣は言った。「あたしもそう思う、かなー……」
視界が暗転した。
それは例えば、崖の端に立たされたライオンが、足を滑らせて谷底へと転落していくような感覚。
それは例えば、薄氷を誤って踏み抜いてしまったペンギンが、天敵ひしめく氷点下の海に落ちていくような感覚。
それは例えば、船から転落したことを誰にも気づかれないまま、ひとり孤独に冷たい冬の海に置き去りにされるかのような感覚。
視界が暗い。目が見えない。
目が見えないほどに、視界が暗くなっていく。ブラックアウトした視覚が、わたしの心に恐怖心を落としていく。わたしを怖がらせる恐怖心と、わたしを独りぼっちにする孤独感を落としていく。恐怖を、孤独を、そして絶望を、わたしの心に落とす。
ニオイがする。
孤独の臭いがする。
あらゆる種類の孤独を混ぜ合わせたかのようなニオイが、わたしの鼻先を通って心に不快な感覚を残していく。幼い頃にイヤというほど味わってきた孤独の臭いが、むせ返りそうなほどの不快感をわたしの脳に残していく。
独りに耐えていた幼い頃の、不快な臭いがする。
絶望と孤独が混ざったような、あの頃の臭いが。
幼い頃の、あの臭いが。
嘘。
嘘。
嘘だよね、麻衣。
そんなこと、思ってないよね。どうして、そんなこと言うの?
わたしと一緒にいてくれるって、そう言ったのに。わたしと一緒にいたいって、そう言ってくれたのに。あなたが、そう言ってくれたのに。
どうして。
どうして。
どうしてなの。
どうしてなの、麻衣。
「やっぱそうだよねー!」
明るい声で唯香が続ける。
「麻衣も葵も、いまのうちに恋しなきゃだよー!」
唯香の後に続くように、ほかのクラスメイトたちが「そういえば、こないだ彼氏とデートしたんだけどー……」とか「えー、マジ? どこ行ったのー?」などと口にする。
わたしの前で飛び交う音の数々。とたん色めき立った教室内に、いくつもの陽気な声が重なって響きわたる。
聞きたくない。
聞こえない。
聞こえない。
聞きたくない。
聞こえない。
聞きたくない。
聞こえない。
なにも。
なにも、聞きたくない。
ギィ、とイスを引いて立ち上がる。
「ごめん」
わたしが続ける。
「先、帰るね」
周りがどんな反応をしてたかなんて、ちっとも目に入らなかった。とにかく、その場から離れたかった。これ以上、会話を続けたくなかった。みんなには悪いけど、だれの声も聞きたくなかった。耳に入れたくなかった。
教室後方のドアへと向かって、わたしは歩き出した。
「あ、葵……っ」
去りぎわに、麻衣の声が聞こえた。焦ったような彼女の声も無視して、わたしはドアを開けて足早に教室を出た。
聞こえない。
聞こえない。
聞きたくない。
いまは、今だけは。
いまだけは、麻衣の声すら聞きたくない。
廊下を歩く。
階段へと向かって歩く。
わたしの歩調に合わせて、上履きがリノリウムを叩いていく。渡り廊下を歩いたあと、階段をおりて昇降口へと向かう。ローファーに履き替えてから、外に出て真っすぐ校門へと向かった。
グラウンドのほうで、運動部がかけ声をあげている。けれど全くと言っていいほど、わたしの耳には音らしい音が届かない。
まるでわたし一人だけが、世界から切り離されたような感覚。
世界が眠りに落ちているかのように、あらゆる音が形を失くしてしまっている。
ローファーが地面を叩く音だけが唯一、わたしの耳のなかで繰り返し反響している。無機質で単調な音が、けたたましく聴覚野を揺らす。
やがて正門の近くまでやってくると、うしろのほうからパタパタと忙しない音が聞こえてきた。
「葵……っ」
麻衣の声だった。
「待って、葵……っ」
わたしの手を力強く掴む麻衣。
麻衣のほうを振り向くことなく、ピタリと足を止めるわたし。
「ごめ、んね、葵……」
麻衣の息遣い。
荒々しい呼吸音が聞こえる。
はぁ、はぁ、という荒い呼吸が、麻衣の焦りや動揺を物語っているように感じた。たくさんの糸が複雑に絡み合うかのように、不安や心配といった複数の感情が交錯しているように感じた。
息を切らせながら麻衣が言う。
「さっきのは、その……唯香たちの言うことに、合わせちゃって……」
弁明のような言い方だった。
「あれは……あたしの、本心じゃなくて……」
本心じゃない。
本音じゃない。
さっきのは、麻衣の心からの言葉じゃない。
分かってる。
分かってるよ、そんなこと。
こんなの、ただの八つ当たりだって分かってる。
麻衣は悪いことなんてしてないし、わたしに悪意を向けたわけでもない。ただ単に麻衣は、空気を壊さないようにしただけ。周りの意見に合わせただけの話。みんなに同調したってだけの話。ただ、それだけの話。
麻衣は多分、わたしと誰かが付き合うことを望んでない。わたしの気持ちが、ほかの誰かに向いてないことに気付いてる。わたしが "普通の恋愛" を望んでないことを分かってる。みんなと同じような "普通の恋" を望んでないことに気付いてる。
麻衣は、きっと分かってくれてる。
麻衣は、わたしの想いを理解してくれてる。
きっと。
きっと。
でも。
でもね、麻衣。
わたし、傷ついたよ。
わたしは傷ついた。
鋭利なナイフが身を裂くように、わたしの心は引き裂かれた。
ただひとり信じてた友だちに、ほんとうに味方になって欲しいときに突き飛ばされた。いちばん身近な存在だと思っていた人に、ほんとうに寄り添って欲しいときに突き放された。
身勝手だけど、わがままだけど……わたしの心は今、心臓を抉るような藍色の感情に囚われてる。理性を爪弾きにするような強い感情に囚われてる。冷たい鉄格子の監獄が、わたしの心を収監してる。
麻衣には。
麻衣にだけは——
どうか麻衣にだけは、味方でいて欲しかった。
ほかの誰かに嫌われても。
ほかの誰かに拒まれても。
ほかの誰かに嗤われても。
ほかの誰かにバカにされても。
ほかの誰かが、わたしを除け者にしても。
仲間はずれにされても。爪弾きにされても。笑いものにされても。軽んじられても、蔑ろにされても、無視されても。
たとえ誰かが、わたしを傷つけてきたとしても。
あの頃みたいに、みんなからハブられたとしても。
あの頃みたいに、みんなから嘲笑されたとしても。
麻衣にだけは、味方でいてほしかったよ。
味方でいて欲しかったのに。
麻衣にだけは、わたし……。
だから。
だからね。
「ごめん、麻衣……」
いまは。
今だけは。
どうか、今だけは。
「離して」
わたしを一人にして。
「葵……」
「手、離して」
「……」
遠ざかる温もり。
ゆっくりと離れていく麻衣の手。手のひらに伝う温もりが、だんだんと遠ざかっていく。
しずかに歩き出すわたし。
しおれたヒマワリを置き去りに、ふたたび正門に向かって歩き始める。
門をくぐると同時に、涼しげな風が吹き抜けた。心地良いはずの浅き夏の風が、ぬめりと肌を舐めるかのような気持ち悪さを落としていく。
手のひらに残る温もりを、夏風がさらっていった。




