ずっと欲しかったもの 4
し、心外ですっ。
理系男子みんながオタクなわけじゃないから。
理系好きのなかにもコミュ力お化けはいますから。フツーに陽キャ然として振る舞うタイプの人もいま——
「ってか、どうしたの?」と朋花が言った。「今朝のお姉ちゃん、ちょっと挙動不審じゃない?」
朋花がズイッと顔を寄せてきた。
こちらに近寄ると同時に、ふわりと甘い香りがした。朋花が好んでつけてる香水かな。もしくはボディーローションとか?
「お姉ちゃん?」
ちょこんと首をかしげる妹。
水中から水面を見上げるように、朋花がオレの顔をのぞき込んだ。彼女が首を横に傾けた拍子に、前髪がひと房サラリと流れた。
ってか、すげー遮るじゃん。
さっきから、オレの心の独り言すっげー遮るじゃん。
心の中で呟くことすら許してもらえないだなんて。嗚呼、無情。なんて無情なのです。この世に安息の地はないのでしょうか?
まぁ、それは置いといて。
「あ……あの、さ、朋花……」
オレはやっとの思いで言葉を絞り出した。
思うように言葉が出てこない。まるで痺れてマヒしたみたいに、自分の舌が上手く回ってくれない。
「うん?」
短く相槌を打つ朋花。
すぐ隣にいる妹と目が合う。お互いの視線が交わる。
二つのガラス玉がコチラに向けられる。吸い込まれそうなほどのコゲ茶色の瞳が、オレの心を強張らせてがんじがらめにする。
やがて言葉が滑り出した。
オレの意思とは関係なく、言葉が勝手に滑り出ていく。まるで、飛行機が滑走路を滑り出していくかのように。
「し、下着……着せて、くんない……?」
「え?」
朋花がキョトンとした。
こちらの言葉がイマイチ理解できなかったのか、目の前にいる妹は気の抜けたような声をもらした。「そりゃそうだろ」って感じだけど。
や、やっべぁ。
思いっきり地雷を踏み抜いちゃった感じ。「ちゅどーん!」って感じなんだけど。
いや、マジさっきからテンパり過ぎだぞ。どこの世界の人間が自分の妹に「お姉ちゃんにブラ着せて欲しーの♡」なーんてお願いすのです?
「お、お姉ちゃん……」
朋花は引きつった表情を浮かべた。
片方の眉だけが不自然に垂れ下がり、口の端はピクピクとヒクついている。苦虫を噛み潰したような顔だった。
ほら、見ろ。
朋花、引いちゃってるじゃんか。
こっちが申し訳なくなるくらいドン引きしてるじゃんか。おかしなこと言ってゴメンナサイ。
とたんに申し訳なさが込み上げてくる。できることなら数秒前まで巻き戻してしまいたい。動画なら1タップで巻き戻せるのに、現実だと一時停止すらままならない。嗚呼、無情。れ・みぜらぶる。この世に安息の地はな——
もう一度、オレの心の独り言を遮るように朋花が言った。
「また、あたしに着させて欲しいの?」
んん?
すとっぷ、ストップ。ちょっと待って。え、えっ?
朋花の言葉を上手く飲み込めず、オレの頭は突然パニック状態に。今「また」って言ったよね。ひょっとして、前にもあったってこと?
「もぉ、しょうがないなぁ〜……」
小さく溜め息をつきながら、朋花はオレの正面に立った。
どうやら先ほどお願い(たわごと?)を聞き入れてくれたもよう。なんだかんだ言いながらも、一応お世話してくれるみたい。
「ほら。服、脱いで。腕も上げて」
オレは正面に立つ妹から指示を受けた。
「は、はひ……」
言われたとおり服を脱いだあと、オレは手をスッと前に伸ばした。
え、ストリップ。
公開ストリップショーなんですけど。いくら同じ屋根の下に暮らしてるとはいえ、自分の妹の前で上半身裸になるの恥ずかしい。
「腕もうちょっと上げてくれる?」
オレの心の恥じらいを意にも介さず、朋花は淡々とした声で指示してきた。姉妹の距離感って、こんなもんなのかな……?
「へ、へぃ……」
オレは朋花の言葉にマトモに返そうとするも、動揺して江戸っ子じみた返事になってしまう。てやんでぃ。べらんめぇ。
妹からの指示どおり、少しだけ腕を上げる。
門をくぐり抜けるみたいに、オレの腕にブラ紐を通す朋花。
朋花は腕に通したストラップを肩にかけたあと、オレの後ろに回って背中のベルトを引っ張った。サイドのベルトを中央に引き寄せてホックをかけるとき、金属同士がカチッと触れ合うときの無機質な音が鳴った。
だいぶ手慣れているようす。
自分で身につけられない兄に変わって、慣れた手つきで下着を着せてくれる妹の図。とっても手際がいい。
や、当たり前だけど。
手際よくて当たり前なんだけどね?
今日はじめて女性下着を付けるオレと違って、朋花にとっては日常的な動きの一つだろうし。これまで積み上げてきたキャリアが違うよね。知らないけど。
脇の下からニュっと伸びてきた妹の手が、ためらいなくカップの内側に入り込んだ。
仕上げとばかりにオレの胸を手で包み込んだ朋花は、バスト全体を脇から中央に向かってグイっと寄せた。胸部に付いた二つの塊が下着に支えられる感覚がする。新感覚。
お、おぉ〜……。
女性用の下着って、こうやって着るんだ。
きちっと身体にフィットするような感覚。胸が下から持ち上げるように支えられてる感じする。
いまの朋花の動きを見るに、着方にもコツがあるみたい。
ストラップを肩にかけたあと、朋花に軽く背中を押されたから。カップを胸に合わせるときは背中を丸めて、軽く前かがみになるのがポイントなのかも。次、自分で着るときの参考にしよっと。
「はい、終わり」
ひと仕事を終えた朋花は、再びオレの正面に立った。
「あ……あり、がとう……」
オレは目の前に立つ妹にお礼を言うも、気恥ずかしさからか目を逸らしてしまう。水中を泳ぐ魚のように目が泳いでいるのが自分でも分かった。
正直、ちょっと緊張したぁ〜。
とくにバストの位置を調整されるときとか、いきなり直で胸を触られてドキッとしたよ。
胸さわるなら先に言っといてよぉ。ぜんぜん心の準備できなかったじゃんかぁ。朋花にとっては日常の一風景かもだけど、オレからすると非日常で非現実なんだぞっ?
まったくもう、まったくもうっ。
「ん、どーいたしましてー」
オレは妹の声に誘われるように、逸らしていた目を正面に向けた。朋花は鈴を転がすように笑っていた。
どうしてか、妹の笑顔が眩しい。
いつも通りのはずなのに。いつも通り笑ってるだけなのに。まるで、日常が姿形そのままに別の何かにすり替わってしまったかのよう。
いつも通りの朋花の笑顔。
いつも通りのオレの部屋。
見慣れた笑顔。見慣れた景色。
いつも通りの風景に、いつも通りの妹の声。いつも通りの朋花の笑った顔が、どうしてか今は心に突き刺さる。
いつもどおり。
いつもどおり。
いつも通りじゃないのはオレだけ。
自分の胸にある女らしさだけが、この日常空間で異彩を放っている。二つの丸みがオレの心に違和感を届けた。
「あの、さ……と、朋花……」
声を絞り出すように、オレは妹に話しかけた。
「うん?」
「もしかして、なんだけど……」とオレは言った。「ま、前にも、こういうことあったりした……?」
「はぁ?」
朋花は再度ぶっきらぼうに聞き返してきた。愛嬌ある笑顔が消えて、そっけなさが帰ってくる。
う、うぐっ。
そんなに何度も「はぁ?」なんて言わないでくれ。心がペキッとへし折れそうになりますので。
その「この人なに言ってんだろ?」みたいな顔もやめてほしい。不思議な生き物を見るときみたいな目をコッチに向けないでください。
クリスタル硝子よろしくなオレのハートが粉微塵になるから。
よわよわメンタルなんですから、あなたのお兄ちゃ……お姉ちゃんは。
お兄、お姉ちゃん?
お姉ちゃ……おにえちゃん? え、どっち?
オレの葛藤を気にしたようすもなく、朋花は普段どおりのトーンで言った。
「昨日、着せてあげたばっかでしょ?」
「え……」
オレは思わず呆気に取られてしまう。
き、昨日?
うっそでしょ。昨日も同じことあったの?
オレ、その記憶ないけど。まったく存じておりませんけど。『妹に下着を着せてもらった』なんて事実、脳の記憶回路に刻み込まれてませんけれども?
ひとつ溜め息をついたあと、朋花が呆れ混じりに言った。
「ってか、あたしが逆に聞きたいよ」
「な、なにを……」
「や、そんなの決まってんじゃん」と朋花が返した。「ここ最近、あたしに下着を着させる理由。行動が謎すぎるでしょ」
う、うん。
まぁ、そりゃあね。当然の疑問という気がしますけども。
「え、えっとぉ〜……」
澱みなくスラスラと話す朋花とは打って変わって、オレは返す言葉が見つからず返答に窮してしまう。
さっきから、オレまごついてばっかり。まごまごするのが仕事の人みたいになってません?
「た、たまには、そういうのもいいかな〜って……?」
オレは苦しまぎれに意味不明なことを口走った。
な、なんだそりゃ……。
「たまには」の意味が全く分かんねぇ。
「へ?」
案の定、朋花はキョトンとした。
朋花は何度も繰り返し目をぱちくりさせて、あっけに取られたような表情を浮かべている。
心底あきれたようすでポカンと口を開けて、目をパチパチと瞬かせる仕草が可愛らしい。わぁ、お人形さんみたぁ〜い。
われながら変なこと言ってると思う。精神的に動揺してるときって、変なこと口走ったりするよね。そういうこと、あると思います!
いよいよ耐えきれなくなったのか、やがて朋花は「ぷっ」と吹き出した。
「あは、何それぇ。意味わかんないんだけど」
からからと朗らかに朋花が笑う。夏空のような明るい笑い声が室内に響きわたった。
「あは、は……」
居た堪れなかったのか、笑うしかなかったのか。
なにかを誤魔化そうとして、オレも一緒になって笑った。楽しげな笑みを浮かべる朋花に倣うかのように、自分でも分かるくらい不器用な笑い声がこぼれた。
やがて朋花の笑いがおさまってきた。
「はぁ〜、朝から笑ったわー」と朋花が言った。「お姉ちゃん、勉強デキる人なのにね。たまにワケわかんないこと言うからウケるよね」
「そ、そうかな……?」
「ほんと、ヘンなところで不思議ちゃんなんだから」
「ふ、フシギちゃん……」
妹が口にした言葉を、そのまま繰り返した。まるで、人の言葉を真似るセキセイインコにでもなったかのように。
は、はじめて言われた……。
生まれてこのかた「不思議ちゃん」なんて言われたことない。男で『フシギちゃん』呼ばわりされるヤツいるのかな。
や、今は女なんだけど。
やがて、朋花は何か思い出したかのように「あっ」と声をもらした。
「約束ちゃんと守ってよね。下着、今日も着せてあげたんだから」
や、約束?
なんの話だろ。まったく身に覚えがないけど。
妹と交わしたらしい約束。あいにくとオレの海馬に記銘されてない情報。な、なんの約束です?
「今日、あたし放課後は直帰するからよろしく〜」
話を進める朋花の言葉に戸惑いつつも、オレは声を絞り出すように聞き返した。
「あ、あの……約束って……?」
「あたしの勉強みてくれるって約束。昨日もしたでしょ?」
さも当たり前のことを話すかのように、朋花はオレに約束の旨を確認してきた。
いや、知りませんけど。
「でしょ?」って言われましても。
そんな「言わなくても分かるでしょ?」みたいなトーンで話されましても。
完全に初耳っていうか、そんな約束した覚えない。オレの海馬と大脳皮質が「ぜんぜん記憶にないっス」って言ってるでしょ?
「あ、あぁ……勉強、ね……」
ひとます、オレは話を合わせた。
なんか、だんだん会話が苦しくなってきた。オレの知らないことが次々に出てくる。
まるで、目隠しされたまま知らない街に連れてこられたかのよう。右も左も分からない状況って、こんなに不安で心許ないんだ。そわそわが止まらない。のんすとっぷ。
何これ、超ツラい。ダレカタスケテェ。
「今日の放課後、お姉ちゃんも空いてるでしょ?」
「う、うん。多分だけど……」
「じゃあ、約束ねっ」と朋花が言った。「お母さんが朝ごはん準備してくれてるから、着替えが終わったらリビング降りてきてね」
「わ、わかった……」
「それと、下着は一人で着てよね。もう高校生なんだからね?」
「わ、わかりましたぁ〜……」
オレに注意を促してから、朋花は部屋を出て行った。妹がドアをパタンと閉めた直後、室内は嵐の後のように静まった。
「……」
部屋に一人とり残されたオレは、相変わらず鏡の前で立ち尽くす。まるで、ショックを受けて呆然と立ち尽くす人のように。
今日、オレ学校いけるのかな。そんな場合じゃない気がするけど。
静寂な室内に不安の波が押し寄せる。寄せては返す波が沖合から不安を少しずつ運んでくる。
オレは鏡に目を向けた。
姿見に映る自分の目が何かを訴えているように見えた。
鏡に映る自分の姿が先ほどと違うのは、朋花に着せてもらった下着を着ている点。男性用ハーフパンツと女性用下着という異質の組み合わせは、どこか今の自分の心持ちとシンクロしているような気がした。
異質。
異質な存在。
オレの存在だけが、この場にそぐわない。
まるで、赤い魚の集団に黒い魚が一匹だけ紛れるように。ものごとの道理をわきまえた大人で構成された群衆に、右も左も分からない子どもが一人ぽっちで紛れるように。
鏡に映る女の子は、朋花にとっての姉。
朋花はオレのことを「お姉ちゃん」と呼んだ。オレ自身はこの女の子とは初めましてなのに。
妹はごく自然だった。しぜんな振る舞いだった。
不自然なのはオレのほうだ。たった一人オレだけが不自然な振る舞いをしていた。
まるで現実感がない。夢の中にいるかのように頭がボーっとしていて、自分の言動に一つもリアリティを感じられない。いまだに夢を見ているかのように錯覚してしまう。
オレは自分の頬っぺたをつねった。
「痛った……」
い、痛い。
ものすごく痛い。
試しにグニュっとひねってみたら、鋭い痛みがオレのほっぺを貫いた。痛たたたたたた。
「ゆ、ユメじゃない……」
オレはポツリと呟いた。ひとりぼっちの呟きが朝の静けさに溶けていった。
ユメじゃない。夢なんかじゃない。
いまのオレは男じゃない。ほんとうに女の子なんだ。
どれほど夢見ただろう。今まで一体どれだけ夢見ただろう。きっと両手では収まりきらないくらい考えたはず。夢に見るほど『もしも』を強く望んできたはず。
こんな日が来ることを、心のどこかで願ってた。
でも、不安だ。
めちゃくちゃ不安だ。
この部屋から出て外の世界に飛び出したら、きっと今より大きな不安が押し寄せてくる。夏の浜辺に打ち寄せる大きな波のように、より大きな不安がなだれ込んでくるはず。
まるで、初めての海外で迷子になったみたいだ。
だれにも頼れない、だれにも話せない。進むべき道を示してくれる案内板すらない。心が宙ぶらりんになったかのような不安感に囚われる。
「お、オレ……ほんとに、女の子に……」
鏡に映る自分が胸に手を伸ばした。手のひらに伝わる柔らかな感触だけがひどくリアルだった。
朋花が再び部屋にやって来るまで、オレは鏡の前で立ち尽くしていた。
鏡のなかにいる自分は、目に涙を浮かべていた。




