ひまわりは夜に咲く 1
一
数週間が経った。
あの朝から、数週間が経った。わたしの人生を一変させた、あの不思議な体験をした朝から。
だいぶ、いまのフシギな環境に慣れた。胸をチラチラ見られることにも少し慣れたし、体育があるときはスポーツブラをするようになった。なので唯香が言うように、わたしの胸が「ばるんばるん揺れる」こともない。まぁそれでも、揺れがゼロってわけじゃないんだけど。
正直「男の人からの視線に慣れることなんて、ホントにあるのかな?」なんて思ってたけど、想像よりもずっと早く慣れた。
やっぱり、人間の脳ってすごい。脳の可塑性って偉大。順応性が高い。思っていたよりも、わたしの脳は可塑性に富んでたらしい。やわらか粘土いぇ〜い。
ほかの女の子たちとも普通に話せるし、お風呂で身体を洗うときも問題ない。これまでの緊張はどこへやらといった感じで、日常生活を送れるようになった。前と比べると、ぎこちない動きが明らかに少なくなった。というか、ほぼ無い。
この二週間で、麻衣の言う「電池切れかけのロボット」を卒業することに成功したんだ。よかった、よかった。
前よりも積極的に家事を手伝うようになった私に対して、お母さんは「葵のおかげで、すごく助かってるわ」なんて言ってくれた。お父さんは感心したようすで私のことを見てくれるし、朋花は「自慢の姉です。えぇ、えぇ」なんて口にしていた。朋花が家の手伝いをしたがらないのは……まぁ、相変わらずだけど。
でも、その分わたしが率先してやるからいいよね。家事こなすの、べつに嫌いじゃないし。お母さんも喜んでくれるし。
わたしは今、駅前で待ち合わせをしている。
クローゼットにしまってあった空色のワンピース。襟の縁にアクセントとしてペールホワイトが入っていて、全体的に涼しげな印象がある。ひざが隠れるくらいのミディ丈で、わずかに露出した下腿を撫でていく風が涼しい。ホワイトベージュのストラップサンダルが、足元に抜け感をプラス。わたしの好きな「夏っぽい感じ」がするコーディネート。
耳には、小ぶりなピンクゴールドのイヤリング。中央部にセットされているのは、淡い桃色を落とすピンクトルマリン。好きな色に身を包み、麻衣の到着を待つわたし。
誰かのために着飾るのではなく、わたしが私自身のために服を纏う。他の誰でもない、わたしのために。それが、すごく心地良い。
右手首に巻かれたスマートウォッチをチラリと見る。待ち合わせ時間の十五分前。女の子になって初めてのお出かけということで、気持ちが浮ついていたのかもしれない。予定よりも早く、待ち合わせ場所に着いていた。
待ち合わせ時間よりずっと前に到着するとか、めっちゃ楽しみにしてた人みたいじゃない? 遠足前の小学生みたいな感じじゃない? なんか恥ずかしい。まぁ、楽しみにしてたのは事実なんだけど。
だって、女の子って楽しい。
女の子でいられるのって、すごく楽しい。
かわいい服を着て、おしゃれして。アクセサリーで着飾って、軽く化粧もして。香水をまとわせると、自分のステータスが上がったような気さえする。「なんのステータスだ」って言われたら、返す言葉がないんだけれども。おしゃれステータス?
ずっとずっと、こんな日が来ることを望んでいた。
ずっとずっと、ひとりの女性として生きることを望んでいた。
ずっと、ずっと。
だから、気持ちが浮ついちゃうのもしょうがないんだ。だって、楽しみなんだもん。麻衣と一緒にお出かけするの、すっごく楽しみなんだもん。
休日に、友だちと並んで一緒に歩くこと。
休みの日に、友だちと遊ぶ約束をすること。
オシャレするために、あーでもないこーでもない言いながら着る服を決めて。「靴はどれがいいかなぁ?」なんてことを朝から悩んで。さんざん悩んだ挙げ句「結局、さいしょに選んだヤツにするんかーい」なんて一人ツッコミして。
ずっとずっと、そんな風にできることを望んでいたから。
ずっとずっと、そんな日常の一コマを経験したかったから。
だから、待ち合わせ場所に早く着いちゃうのも仕方ないんだ。気持ちが浮ついちゃうのもしょうがないんだ。
だって、ほんとうに楽しみだから。
楽しみすぎて、どうしたって胸が弾んじゃうんだ。
駅に着いてから、十分ほどが経った。待ち合わせ時間の五分前。麻衣は時間に遅れるタイプではないので、そろそろ来る頃かもしれない。ソワソワしながら待つわたし。
そわそわ。
そわそわ。
そわ〜そわ〜。
入り口ちかくの壁に寄りかかって待っていると、やがて「あーおいーっ」という元気な声が聞こえてきた。顔をあげると、麻衣が駆け足でコチラに向かってくるのが見えた。
今日も元気な麻衣。
「おはよ、麻衣」
「おはよ〜」と返す彼女。「着くの早いね。ごめん、待たせちゃった?」
「ううん。わたしが早く着いちゃっただけだからから、気にしないで」
「何分前に着いたの?」
「んー、一時間前くらいかなー」
サラッと嘘をつくわたし。罪深きわたし。
「えっ、まじ⁉︎」と麻衣が言った。「あたし、待ち合わせ時間まちがえちゃってたっ⁉︎」
「ううん、ウソ」と返すわたし。「ほんとは十五分前くらいに着いた。それに、麻衣は時間ピッタシだよ。待ち合わせ時間も間違えてないし」
「えぇ、なにそれぇ」
おどろきの表情から一転して、安堵したように破顔する彼女。
「びっくりさせないでよぉ。葵のこと、めっちゃ待たせたかと思ったじゃ〜ん」
「あはは、ごめんごめん」
「てか、十五分も前に着いたの? 結局、ちょっと待たせちゃったね」
「んーん、気にしないで。お出かけするの楽しみで、早めに家を出ちゃっただけだから」
「遠足前の小学生かっ」
おぉ。
麻衣にしては珍しく、まともな比喩。
前は「索敵中のハムスター」とか言ってたのに。「んん、ドユコト?」ってなったのに。成長したね、麻衣。わたしは、麻衣の成長が嬉しいよ。
「麻衣と一緒に出かけるの、楽しみだったから。誘ってくれてありがとね」
「えー、あたしだってそうだよぉ?」
「ほんと?」
「ほんとホント」と続ける麻衣。「今日は、葵のことひとりじめできちゃう日だからねっ。すっごい楽しみにしてた!」
え、うれしい。
そう思ってくれてるの、めっちゃ嬉しい。
あいかわらず、思ったことは素直に口にするんだなぁ。恥ずかしがらずに言えちゃうの、ホントすごいなぁ。ウチのお母さんと気が合いそう。
「じゃあ、行こっか?」と麻衣が言った。
「うん!」と返すわたし。
歩き出すと同時に、麻衣がわたしの手を取った。手のひらから伝わる彼女の体温。すごく心地よくて、すごく温かい。
ってか、ナチュラルに手ぇ繋ぐんだなぁ。麻衣は。
もともとスキンシップ多い系だけど、さいきんは特に多い気がする。腕を絡ませることも多いし、本人も「人肌が恋しいのかも〜」なんて言ってたし。すごいなぁ。女子だなぁ。
そういえば、前に本で読んだことがある。
ある研究によれば、親しい人との交流や身体的な接触によって、下垂体や室傍核といった脳のエリアから『オキシトシン』と呼ばれるホルモンが分泌されるらしい。
オキシトシンは、俗に『愛情ホルモン』とか『抱擁ホルモン』などと呼ばれることもある物質。不安感や幸福感を改善するはたらきを持つほか、心理・身体的なストレスを解消する効果もあるのだそう。さらに、オキシトシンの分泌によってPTSDの症状が緩和したというデータもある。つまり、トラウマによるツラい精神症状が緩和される可能性があるということ。
ハグやキスといった身体的な接触を増やすことは、わたしたち人間のメンタルにポジティブな影響をもたらす。オキシトシンという愛のホルモンが分泌されることで、より幸福度の高いハッピーな人生を送ることができるかもしれない。科学的な研究データが、その可能性を示唆している。
研究結果に照らしてみると、麻衣の脳内ではオキシトシンがドバドバ出ているはず。幸せを感じさせてくれる物質が分泌しているはず。きっと、麻衣はハッピーな気持ちになっているはず。
彼女の顔を見れば分かる。
だって今の麻衣、楽しそうに笑ってるから。にこにこ笑顔だから。釣られてわたしまで笑顔になっちゃうくらい、ひまわりのように明るいニコニコ笑顔だから。
あぁ、かわいいなぁ。
ほんとうに、麻衣はカワイイ。
彼女の横顔。ゆるやかに口角が上がっている。
彼女のほっぺに目を移す。ほんのりと頬が赤みがかっているのは、チークのせいだろうか。
チークって、やり過ぎるとおかめさんみたいになっちゃうよね。もしくは、アンパンマン。「二日酔いの酔っ払いみたい」って言う人もいるから、やり過ぎ注意なアイテムだよね。
でも、麻衣のは丁度いい。ちょうどいいバランス。濃すぎず、うす過ぎずって感じ。やり過ぎ注意なのは確かだけど、薄過ぎたらチークの意味ないもんね。
麻衣は肌質が良いから、いつも使ってるコーラルピンクを軽めに塗るだけでも充分。今日も普段と同じように、ふんわり柔らかい感じに仕上がってる。すごく可愛い。
麻衣の顔を見ながら、わたしが口をひらく。
「今日もカワイイね、麻衣」
んん。
自分で言っといてなんだけど、なんだか軟派なイケメン彼氏みたいな言い方だ。「今日もカワイイぜ、麻衣……☆」なんてセリフ、造形が整ったイケメンにしか許されないはず。時と場合によっては、イケメンでも「え、気持ちわるーい」って言われるかも。たぶん。おそらく。めいびー。ぷろばぶりー。
でも、麻衣が可愛いのは事実。
お母さんに教えてもらったとおり、思ったことは口に出したほうがいいよね。とくにソレが褒め言葉なら、なおさら。ホメ言葉は、心の栄養らしいから。『かわいい』って言葉は、女の子にとって心の栄養なんだ。きっと。しゅありー。さーてんりー。
「えー、ホント?」と返す彼女。
「うん。すごく可愛い」
「照れるぅ〜」
そう言って、わたしの腕に自分の腕を絡ませてくる彼女。あんまり可愛いので、彼女の頭をナデナデしてあげるわたし。
「えへ」
ぐ、ぐふっ。
リアルで「えへ」とか言うの、破壊力ヤバい。麻衣の見た目も手伝って、そのへんの魔王だったら倒せそうなくらいの破壊力。きっと、魔王も「ふぐっ。か、かわいすぎる……」と悶えるはず。知らないけど。魔王のこととか知らないけど。
てか、そのへんの魔王ってなに?
「麻衣は、女の子だね」
「それ、最近よく言うよねぇ。どういう意味なの?」
「かわいくてフワフワしてて絹のように柔らかくてまるでヒマワリみたいにキラキラした明るい笑顔がステキだから思わず可愛がってあげたくなっちゃうんだよね抱きしめたくなっちゃうんだよねたははって意味だよ」
「そ、そうなんだ……」
「ウソだよ」
「ウソなの?」
「ホントだよ」
「え、どっち?」
困惑したようすの麻衣にかまわず、わたしは「あはは」と笑った。
「カワイイって思ってるのは、ほんとう」と続けるわたし。「麻衣の笑った顔を見るとね、すっごく落ち着くの。イヤな気持ちとかストレスとか、どっかに飛んでいっちゃいそうなくらい」
「えー、そんなに褒められると照れるなぁ〜」
でも、と彼女が言った。
「葵のほうがカワイイよ。今日だって、すごくオシャレだし。そのワンピース、よく似合ってるよ」
「そう? ありがと」
「スカイブルーのワンピって、清楚感あるよね。涼しげで透明感ある感じ」
「あー、そうかも」
「サッシュベルトでウエストがキュッと締まってるから、スタイルの良さがバッチリ出てるね!」
「あ、ありがと……」
「自慢のおっぱいが強調されてるね!」
「嬉しくないんですが?」
あと、自慢じゃないし。
「麻衣の服も似合ってるよ。オーバーサイズ、かわいいね」
ゆるゆるとした白のオーバーサイズTシャツに、ライトベージュのワイドパンツ。シャツの縁に黒のラインが入っていて、アクセントカラーになっている。上下が類似色で統一されてるせいか、どことなくノーブルな雰囲気がある。上品な感じがする。
「これ、こないだネットで半額だったんだぁ。すっごい着心地よくて、さいきんハマってるの」
「へぇ、ちょっと触ってみてもいい?」
「もちろん!」
彼女のシャツに触れる。さわさわ。
あ、すべすべする。めっちゃ気持ちいい。
「めっちゃ気持ちいい。なにこれ」
「でっしょー?」
さわさわ。
さわさわ。
うん、めっちゃ気持ちいい。
「ブルドッグの表皮みたいでしょ?」
んん、その例えはよく分からないっ。あいかわらず比喩が独特なんだから。
てか、わたしブルドッグ触ったことないから分かんないし。ポメラニアンならあるけど。もさもさしてましたけど。気持ちよかったですけど。
それに、ブルドッグってぶちゃカワ系じゃない? 例えとしてどうなの?
「うん、気持ちいいね」
テキトーに返事するわたし。
「セールしてたから、四枚も買っちゃった!」
くっ、お金持ちめ。
いくらセールとはいえ、高校生にシャツ四枚は痛い出費のはず。買いもの上手なのか浪費家なのか分かんないな、麻衣は。
でも今度、麻衣と一緒にショッピングしたいな。きっと楽しいだろうな。麻衣、おしゃれだし。いまは服もネットで変えちゃうけど、じっさいにお店を回る楽しみってのもあるよね。あと、麻衣がどんなもの買うのか見てみたいし。かわいい麻衣がどんなカワイイもの買うか、見てみたいし。好奇心、刺激されるし。
きっと、楽しいだろうなぁ。今度、誘ってみようっと。




