長い1日、終わり始まり 8
まだ少し、朝は肌寒い。
とたん、ブルっと震える身体。
上着、着てきたほうがよかったかな。風を浴びると、ちょっとだけ身震いするもんね。身体ぶるぶる。
でも、いっか。いいよね。
身体が変わったのと同じように、心まで丸ごと生まれ変わったみたい。
すごく新鮮な気持ち。それでいて、しっくりくる。初めてのことなのに、おかしなことなのに。とても不思議なことのはずなのに、どうしてか違和感が座りよく収まる。いまの状況に、心が納得する。
さいしょから、そうだったんじゃないかって。
わたしは最初から、いまの性別だったんじゃないかって。頭では「そんなわけない」って分かってるのに、どうしてか心が「そうだったのかも」って納得する。逆さまになったアベコベの心が、わたし自身の気持ちに納得する。
そのまま、しばらく風景を眺めるわたし。
外の景色をボーッと眺めていると、ふいに後ろのほうからドアの開く音がした。ガチャリ。
くるりと肩越しに後ろを振り返ると、視線の先には眠気まなこをこする朋花の姿が。まだ眠そうにする妹の姿が、わたしの視界に入り込んできた。
「ん。おねえ、ちゃん……?」
ドア付近で立ち止まる朋花。
眠たげに目をこする妹に向かって、わたしは元気よくあいさつをする。いまの幸せを、声に乗せるつもりで。
「おはよ、朋花っ」
自分でも分かるくらい弾んだ声が出た。ボールがポンと一つ弾むような明るい声。
「おはよ〜……」
対照的に、朋花は寝起きの声。『ハキハキ』とは対極のボヤけた声で挨拶を返す妹。起き抜けの声って、舌足らずでかわいいよね。
眠たげに片目をこする朋花。ごしごし。
グルーミングする猫みたいに手をグーにして、ぐりぐりと眠気まなこをこする仕草が可愛らしい。わたしより身長が低いことも相まって、どこか小学生くらいの小さい子に見えてくる。
「今日、いい天気だよっ」
「んー、みたいだねー……」
窓の外に目を向けながら、こちらに向かって歩いてくる朋花。てくてく。
わたしの隣に立った妹が、のびーっと背筋を伸ばす。組んだ両手を天井に向かって伸ばし、小さな声で「んん〜……っ」と呻く朋花。
こちらに顔を向けてから、朋花が「ってかさぁ」と言った。
「おねーちゃん、朝から元気だね……?」
朋花の言葉を受けて、思わず顔がほころぶ。
「うん!」
先ほどと同じく、弾んだ声が出た。
橙色の感情を湛えた声があふれ出る。コップに収まりきらなくなった水が溢れ出すように、わたしの口から喜びいっぱいの声がこぼれ出ていく。
こんな清々しい朝、生まれて初めてかも。
すごく気持ちが軽い。悪いところなんて一つもなくて、心は羽が生えたみたいに軽やか。身体のどこにも負荷がかかってない感じ。重い荷物を下ろしたときの感覚に似てる。
「こういう日の朝、ぐーっと伸びすると気持ちいいよね」
言いながら、両手を上に伸ばすわたし。
となりに立つ妹に倣うように、わたしもぐぐーっと伸びをする。あらためて身体を伸ばすと、筋肉がほぐれて気持ち良かった。
「なんか、いつものお姉ちゃんに戻った感じだね?」
声に誘われるように、となりに顔を向けるわたし。優しげな笑みを浮かべた朋花の姿が視界に入り込む。
「そうかな?」
わたしが聞き返すと、朋花は一つ頷いて答えた。肯定を示す動き。
「うん、すっごく良い顔してる。なんかあったの?」
妹の言葉が心に沁み入る。
わかる。
自分でも、よく分かる。
きっと今わたしは、晴れやかな顔をしているはず。
一点の曇りもなく澄みわたる青空のように、澱みのない晴れやかな表情を浮かべていると思う。
「んー……」
アゴに手を当てて、小さく唸るわたし。
気持ちのいい朝。
生まれて初めて、こんなにも朝が清々しい。
晴れやかで、さわやかで。すっきりとしていて、さっぱりとしていて。空を彩る清々しいほどの青が、心にも溶け出しているかのよう。
だけど、理由は明かさない。答えを口にしない。
「……ナイショ」
いまは未だ、浸っていたいから。
やっと手に入れた大切な宝物を、ぎゅっと抱きしめていたいから。
ずっと希っていた、きらきら輝く宝物を。
わたしの言葉を受けて、ふにゃりと破顔する朋花。
「えー、なにそれぇ。教えてよぉ」
「だめー」
ねだるように理由を求めてくる妹に、わたしは頑ななまでに答えをボカす。
しばらく言う言わないをくり返していると、ふたたびリビングのドアがガチャリと開いた。扉をひらくときの無機質な音が辺りにひびく。
「あら、ふたりとも。早いのね」
リビングに入ってくるお母さん。
「玄関まで声が聞こえてたぞ。朝から元気だな」
お母さんの後に続いて、お父さんも入ってくる。
ふたり揃って一緒にリビングに入る仲良し夫婦の図。メスの浮気防止を目論むオシドリを思わせる。なんて、余計なひとこと。
半身で「おはよー」と答える朋花。わたしも「おはよう」と続く。
「葵は、もう着替えたのね」
お母さんの言葉に、わたしは一つ頷いて返す。
「うん、いつもより早く起きたから」
「なんか、学校行きたくてしょうがない中学生みたいじゃない?」と朋花が言った。「初めて着る制服にテンション上がって、普段より早く起きちゃいました〜みたいなさ」
からからと明るく笑いながら、揶揄うように軽口を口にする朋花。妹の具体的な比喩に笑う。
さすがだね、朋花。アーティスティックな麻衣とは違うね。当たらずとも遠からずっていうか、まさに『その通り』という気さえするよ。
「子ども扱いしないでよぉ」
ちょっとだけムッとしながら言葉を返すわたし。対照的に、朋花はイジワルげな笑みを浮かべている。
「昨日のお返し。いいでしょ?」
「よくないっ」
したり顔をする意地悪な妹に、憤慨めいた声で返事をするわたし。
「あたしなんて昨日、ハムスター呼ばわりされたんだから。人間なだけマシでしょ?」
「んん……そう、かも……?」
おもわず、納得したような声がもれる。
ありゃ、丸め込まれちゃった。いとも簡単に納得させられちゃいましたわ。わたし、ちょっとチョロすぎません?
わたしが一人もんもんとしていると、お母さんが「葵、あなた……」と言った。
「昨日と違って、今朝はいつも通りね。よかったわ」
にこりと微笑むお母さん。まだ眠たげな街を淡く照らす、朝焼けのような優しい微笑み。
「あー……ごめんね、心配かけて」
わたしの言葉を受けて、首を横に振るお母さん。
「いいのよ。そこまで心配してなかったから」
「え、それはどうなの?」
思わず、戸惑いめいた声がもれる。
ちょ、ちょっと。
いま完全に「心配してたのよ」の流れだったじゃん。いつもと違うようすの娘を気遣うナイスな母親の図だったじゃん。とんだ肩透かしなんですけど。
そっと口元に手を当てて、楽しそうに笑うお母さん。
「冗談よ。ちゃんと心配してたわ」
「ほんとかなぁー……?」
わたしがお母さんに疑わしげな目を向けていると、お父さんが「昨日の夜、母さん言ってたぞ」と言った。
「どうも葵が元気なさそうだったから、夕食にハンバーグ作ってあげたんだってな。よく『胃袋を掴む』って言うしな」
「それ、使い方まちがってない?」
すかさず、朋花が突っ込みを入れる。
芸人さんを思わせる素早いツッコミ。うちの妹、そこそこ突っ込みスキル高いみたい。相変わらず、将来有望。なんの将来です?
「ともかく、元気が戻って良かったわ」
逸れた話を本筋に戻すように、お母さんが再び声をかけてくれる。
「うん、ありがとね」
にこりと一つ笑みを浮かべるわたし。笑顔のボールが跳ね返るように、お母さんが微笑み返してくれる。
「それじゃあ、朝ごはんにしましょうか」
きびすを返して、キッチンへと向かうお母さん。
「あ、わたし手伝うよ」
お母さんの背中を追いかけるように、居間を抜けてキッチンへと向かうわたし。
「あら、いいの?」
「うん。早く起きちゃったし、いつもより余裕あるから」
「ゆっくりしててもいいのよ?」
ふるふると首を横に振るわたし。否定を示すジェスチャー。
「んーん、大丈夫だよ。わたしにも手伝わせて?」
わたしの言葉を受けて、お母さんがニコリと微笑む。
「あらあら」と、お母さんが言った。
「おやおや」と、お父さんも続いた。
息ぴったりの仲良し夫婦。仲睦まじい二人のようすを見て、わたしは思わず笑いそうになる。
「いい娘を持って、お母さん嬉しいわぁ」
お母さんに同調するかのように、うんうんと何度も頷くお父さん。
「よくできた娘だなぁ、ほんとうに」
不器用な笑顔。
胸のまえで腕を組んだお父さんが、うっすらと不器用な笑みを浮かべる。しみじみと感慨にふける昭和の寡黙な父親を思わせるような笑顔。伝わるでしょ?
「えぇ、えぇ。自慢の姉です、はい」
二人の後に続くように、朋花もコクコクと頷く。赤べこ。
「朋花は手伝わないの?」
望み薄だと思いながらも、いちおう訊ねてみるわたし。
「あたしは食べるの専門なんで〜」
案の定、想定どおりの言葉が返ってくる。
誘われるようにリビングのソファーに座り、リモコンに手を伸ばしてテレビを付ける朋花。スピーカーから聞こえてくる、女性キャスターの淡々とした声。膨らみのあるメゾソプラノの音が、小鳥のさえずりに混じって居間に溶ける。
「よくできた娘だねぇ、ほんとうに」
お父さんの言葉を真似て、しれっと嫌味を口にするわたし。
「あー、イヤミ言うのよくないんだぁー」
「あはは、ごめんゴメン」
ぶすっと不満げな顔を浮かべる朋花に、形ばかりの謝罪の言葉を口にするわたし。
ふと、視界の端に二つぶんの笑顔が映り込む。
お父さんとお母さんが微笑ましげにコチラを見ている。微笑ましいものを見るかのような眼差し。二人の優しげな笑みに釣られて、しぜんとわたしの頬もほころぶ。
あぁ、いいなぁ。
すごく幸せ。すごく心地いい。
ソファーに寝転がる朋花。
イスに座って本を読むお父さん。
キッチンで調理の手を進めるお母さん。
リビングを照らす朝の日差しも、外から聞こえてくる小鳥のさえずりも。ぺらりぺらりと本のページをめくる音も、包丁がまた板をトントンと叩く軽やかな音も。ぜんぶ心地良い。何もかも新しく見えて、何もかもが鮮やかに映る。
ずっと、願ってた。
ずっとずっと、こんな日を夢見てた。
こんな世界で生きていくことを、わたしは心の隅っこで願ってた。ずっと、希ってた。
もう、あの頃のわたしは居ない。
殻に閉じこもる必要も、扉を閉ざす必要もない。やっと、心のドアをひらける。
ずっと抱え込んできた苦しみも、ずっと打ち明けられなかった悩みも。そっと押入れの奥にしまい込むように、心の隅っこで抱えつづけてきた葛藤も。かつての息苦しさが、霧散して消えていく。
やっと、息ができる。
ちゃんと呼吸できてる。「生きてる」って感じられる。
もう、息苦しくなんてない。浜に打ち上げられた魚みたいに、喘ぐように呼吸しなくてもいい。わたしは自分の肺で呼吸できる。ちゃんと息を吸って、しっかりと吐き出せる。
どれほど夢見ただろう。
いったい今まで、どれだけ夢見ただろう。
きっと、両手では収まりきらないくらい考えたはず。それこそ、夢に見るほど『もしも』を強く望み続けたはず。
それは例えば、鳥が空を飛ぶように。
それは例えば、獣が陸を歩くように。
それは例えば、魚が海を泳ぐように。
サイズの合った靴を履くみたいに、世界がピッタリと心にフィットする。
なんども夢見た世界が、いま目の前に広がってる。ずっと望み続けてた景色が、わたしの目の前に広がってる。
ずっと、願ってた。
こんな日が来ることを、心のどこかで願ってた。
今日は、人生最高の朝だ。
いつもの朝ごはんが、やけに美味しく感じた。




